日本を戦争ができる国にしようとする自民党を擁護したくはないけれど、アメリカが嫌いで、核も嫌いで、自衛隊も徴兵も嫌い、みたいな現実的思考のない左派連中とは話しもしたくない。日本が侵略されたとき、日本人が非暴力・不服従で立ち向かうのは、なるほど、正しいことだろう。しかし、そんな究極の正義を人びとに要求するのは酷だし、相当無理がある。しかもそういう連中にかぎって、戦争をする日本が悪い、巻き込まれるのはごめんだと散々日本の悪口を言いながら、自分の持てる能力・資力にモノ言わせて、海外の安全な場所に逃げたりするのだ。この人たちに愛国心がないことは明瞭だが、人びとへの愛も失ってしまったのだろうかと思えてくる。
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人生はすべて運次第である。神さまは人間に対し、幸運を等しく分け与えてはくださらないので、私たちはその気まぐれに対抗し、自分たちで何らかの策を講じなければならない。神さまは互いに等しいはずの私たち人間を、等しく扱ってはくださらないので、思いつきに左右されやすい神さまの決定を修正し、私たち自身で運を分配しなおさなければ。神さまの見地からすればこの世界は公正なのかもしれないが、かもしれないことを頼みにして、何もしない自分を正当化したくはない、良心をなだめたくはない。あるいはこの良心こそ、神さまの意志なのだとすれば(そう考えてもいいが)、私はこの「運の再分配」という仕事を、神さまから委託されたのだと思うことにする(全能なんだから自分ですればいいのに)。
私的なことに偏りすぎる「人びと」
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政治の腐敗は政治家のせいであって、私には何の責任もないのだから、国・社会という船が沈みかかっているとき、その船を修理するのは私の義務ではない、私は自分が生き延びることだけを考えてよい。——こういった態度は、政治の本質をあまりにも欠いている。というのも、選挙によって、そしてそれ以上に、私たちが常日頃なんとなくしている合意形成のやりとりによって、私たち「人びと」が政治家によって代表されていくそのプロセスにこそ、政治の本領があるからである。政治家とは「人びと」の 代表 にすぎない。したがって、政治家が腐敗するとき、それよりも先に「人びと」が腐敗していたのである。社会に問題が起こったとき、それまで自分の人生という私的な事柄への関心しかなかった「人びと」が、思い出したように政治の方を向き、政治家のていたらくを責め始める、そして今後ますます私的利益の追求に汲々としてよい理由をそこに見いだす、その責任転嫁のあり方は、およそ政治というものを理解していないとしか思えない。政治家を責めること・批判することはもちろん重要だが、それと同程度に、私的なことに偏りすぎる私たち「人びと」自身を責め・批判しなければいけない。
現象と存在、人間と神
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人間がそう思っているにすぎないこと(現象)と、実際そうであること(存在)との違いを理解するためには、「全知(=すべてをくまなく見ることができる)の神」という観念を導入するのが一番よい。人間の目に見えるものが現象と呼ばれるのに対して、神の目に見えるものは存在と呼ばれる。人間の前に現象することは、存在すること(=神の前にもまた現象すること)の証拠としては不十分である。見えるけれど存在しないもの(夢、幻覚など)があったり、同じものに対する見方が人によって異なったりするのは、現象と存在が必ずしも一致しないからである。神が見ているものだけが、真に存在するものであるが、神の目にどう映っているかは人間の誰にも分からない。理性を用いればそれが分かる、というのが啓蒙思想ならびに理神論の主張ではあったが。
政治を考え始める
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政治を考えるための最初のステップは「自然状態」を想像することである。動物が置かれている環境とおなじ、言葉のない状態に自分の身を置いてみることである。そこには法律がない。警察も、裁判所もない。「正しさ」という概念がない。暴力だけがある。周囲に・自分の身に何が起こるか、自分が何をするか、想像してみる(注意:そのような時代が歴史的にあったのだと想定する必要はない。理念的にあれば十分である)。 次に、何らかの奇跡によって、動物であった私たちが突然人間に変身し、言葉が与えられたと仮想してみる。暴力と言葉の両方がある状態。政治が芽生えるその瞬間・その場所に、私たちは居合わせる。お互いの暴力から身を守るために、そして可能なら「正しく」あるために、私たちはどうすればよいか、考えてみる(注意:ここでも歴史的である必要はない。理念的で十分)。 最後に、そういった言葉の活動の延長に、私たちがいま住んでいる社会ができたのだと想像してみる(注意:歴史的な延長とはかぎらない)。私たちの社会は公正につくられているか、そうでないか、その中間か。私たちの社会は言葉から始まったのか、暴力から始まったのか、その両方か。
国家権力とは誰か
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国家権力を制限するために日本国憲法がある、という考え方は、明らかに憲法の本質を欠いている。憲法にそういった性質があることは否定できないとしても、あくまでそれは二次的な性質にすぎない。なぜなら、天皇が国家権力そのものであった戦前の「憲法」とはちがい、「天皇ではない。私たちこそが国家権力だ」と互いに約束し合ったのが日本国憲法だからである(憲法とは本来そういうものである。明治「憲法」は憲法ですらない)。したがって、戦後の憲法下で、国家権力が国民の権利を侵害することがあるとしたらそれは、国民が国民の権利を侵害しているのである。もっと言えば、政権を選ぶのは大衆(=多数者)であるから、多数者が少数者の権利を侵害しているのである。権力が腐敗するとき、一部の政治家だけが腐敗するのではない。国民がまず腐敗するのであり、政治家はその代表にすぎない。嘆くべきは、政治家の政治的無能力ではない。国民の政治的無能力である。要望するのが国民の仕事、要望に応えるのが政治家の仕事だと思ったら大間違いである。私たちの要望に私たち自身が応えるのである。政治に専門家などいないのだから。
政治の問題:戦争状態と偶然
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政治の目的には、①相互約束により戦争状態(=自然状態)から脱すること、②偶然による不平等を是正すること、この二つがあるように思う。①戦争状態(=自然状態)とは、法が存在するより前の人間どうし(自然人どうし)が、他人から攻撃される恐れをつねに抱いている、人間不信の状態である。私たちは、相互に「誰のことも攻撃しないことを条件に、誰からも攻撃されない権利を得る」という約束を交わすことで、戦争状態から脱することができる。②遺伝子、養育環境、そのほか私たちに与えられるあらゆるものは、偶然的なものである。偶然的なものに正当性はない。偶然的に与えられたものを独り占めすることは正当化されない。偶然を起源とする財産は平等に分配されなければならない。②は不平等な力関係が問題となる一方、①は平等な力関係の人間どうしでも発生する悪である。
自由=エネルゲイア(≠自由意志)
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感情を表現できる。意見を表明できる。行きたい場所に行くことができる。トイレに行きたければ行くことができる。これが自由である。一方、自分の内にある感情、意見、どこどこに行きたいという欲求、尿意、もろもろを決定する能力は、私たちには まったく ないし、これを自由と呼ぶべきではない! 以上の例を一般化してみる。自由とは「〈自分の内にあるもの〉を表出できる」(エネルゲイア)ということである。自由=自由意志ではない。すなわち、自由とは「〈自分の内にあるもの〉を任意に選択できる」ということではない。思うままにふるまえることが自由なのであって、〈思うまま〉それ自体を選択できることではないのである。心の内でどう思うかは、心理的におのずから(自分のコントロールの範囲外で)決められてしまうものだ。
とてもいい!
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すべての人が子供なのだ。すべての人が障害者なのだ。すべての人が犯罪者なのだ。子供だけが子供で、障害者だけが障害者で、犯罪者だけが犯罪者なのではない。誰もが何らかの意味では子供だし、障害者だし、犯罪者なのだ。自分の欠点のために自分を殺したい瞬間が何度もあった。だけど、本当の話、何も恐れることはない。誰もが欠点を持っている。すべての人が持っている、未熟さを愛し、障害を愛し、罪を愛すことができれば、憂うことは何もない。本当に! いまこの有頂天をどう説明したらいいのか。僕は信仰の人ではない。それでも、神さま、神さま‥‥‥としか言えない感情がときたまある。 自分以外のすべての人・ものに、自分の生命を預けている。それが僕たちである。自分以外のすべての人・ものの生命の一部を背負っているのは、この自分である。それが人間である。この世界と関係を持たずに生まれ死ねる者がいるだろうか? 僕を僕たらしめているものは僕以外のすべてである。誰かを誰かたらしめているのはこの僕である。神さま、すべては大海のようだから、いまこの瞬間の僕のあり方は、いずれ世界のあちこちに波及する。影響を与えないではいないのだ。「パルフョン、やらなければならないことはずいぶんあるよ! このロシアの国では、やらなければならないことはずいぶんあるよ! 私の言うことを信じてくれたまえ」(これほど力強い指針があって、それでも僕は迷うことがある。なぜだ!) 再び、生命を吹き込まれたような気持ち。真面目な話、どうして暗い気持ちでいることがあろう‥‥‥? 神さま、神さま‥‥‥としか言えない感情がときたまある。これからどこへ行こうが、誰と会い、何をしようが、どうして生きていけないことがあろうか。刑務所でだって生きていける。自分次第で誰とでも抱擁できる(言い過ぎ?)。それなら、どうして心を閉ざす必要があるのか。何を怖がることがあるのか。この恥ずかしい感情を絶えず抱かせてください!(と思う)。アリョーシャのように寛大な心を僕に授けてください。いや、すでに、必要なものはすべてもらってました!
愛する努力/愛される努力
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自分が愛される努力によって、かえって他人を愛せるようになる。自分を大切にすることによって、かえって他人を大切にできる。利己的であることによって、かえって利他的であれる。‥‥‥こういった言説は、どれも「エゴを押し通すこと」(自分を優先して何が悪い!)を正当化するために用意された詭弁である(と私は思う)。自分が愛される努力をした者は、その努力の分だけ他人に厳しくなり、他人を愛せなくなるのがおちである。当たり前のことだ!「愛されたかったら努力をしろ」が、その人の信念になるからである。 愛されるためには努力しないといけないなんて、どんなに苦しい世界なのか。愛する努力の方はどうなっているのか? 生まれつき欠陥があって生まれる人もいるのだし、いやもっと言えば、すべての人が生まれつき欠陥があると言っても過言ではないのだ! すべての人が何らかの意味では障害者なのに、「愛されたかったらその障害を治せ」と言えるものだろうか? 「愛されたかったら努力をしろ」違う。お前が他人を愛する努力をしろ。「幸せになりたければ、努力をしろ」違う。お前が他人を幸せにする努力をしろ。 ああもう。なんでそういうふうになっていかないんだ。なんで誰も彼も自分のための努力を勧めるのか。「あなたが不幸なのは、あなたが悪いからです。もっと努力しなさい」という説教が、気が滅入るほど溢れている。「私が成功したのは、こういう努力をしたからです。私を見習いなさい」という自慢話が、頭を打ち付けたくなるほど溢れている。ああもう! 結局、自己責任論じゃないか。くそっ。自分の力で幸せをつかんだと思い込んでいる。どっからどこまでが誰のおかげかなんて分かるわけない。
制裁の感情
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人が人を傷つける。それだけだったらまだいい。最もやるせない気持ちにさせるのは、傷つける側の方こそ、すでに相当傷ついている人なのだ、ということ。制裁の感情に駆られて、ジャッジして、社会から切り捨てれば、物事が解決するわけではないのだ。社会の一員である私たち一人ひとりの、過去のささいな言葉と行ないが、積もり積もり、そのしわ寄せが一部の人たちに降りかかっているのだ。制裁の感情に駆られているお前は何さまなのか? 過去の自分の言葉と行ないに反省点は一つもないのか。日々、出会う人の心を癒す努力をしているのか。制裁の感情で、人の心を癒せるのか? 人の心を癒すことが重要で、それ以外は何も役に立たない。子供の純粋な心と、私たち大人の精神的な修道だけが唯一の道なのである。
賢さの無価値
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頭良いことがなんだろう? 頭良くても何にもならない。例えば、頭良い人が人間の心を癒せるのか‥‥? いいえ! そもそも頭良いとは? いわゆる頭良い人たちよりも、はるかに頭良い人たちを私はたくさん知っている。 自分のことを賢いと自負している人は、二つの思い違いをしている。一つは、自分のことを賢いと思い上がっていること。もう一つは、賢さに何らかの価値があると思い込んでいること。 反知性主義ではない。知性には道徳的価値がないので善いも悪いもないと言っているだけで、アンチではない。「それがアンチ知性なんだよ」って言う人がいたら、それならそれでかまわん。 子供の純粋な心こそすべてである。大人の賢い頭はもう何でもない。自分を賢いと思っている大人(私も!)は、自分の不純さを恥ずかしく思うべきである。
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ニュースを見ていると、くそっ、こんなやつ死んだ方がマシだ、と心の中で最大限の罵りを吐いてしまうときがある。衝動的とも言えるほど突然湧いてくる嫌悪感で、理性や正義とは別個のものとして心に発生する。この種の「負の感情」はどんな正当化も許されない。正当化された「負の感情」による大衆の連帯ほど恐ろしいものはない。一人の殺人犯、一人の権力者の方がまだマシ。 「負の感情」が発生してしまうことは仕方がない。それを自分の心の中だけで消化できないときがあることも仕方がない。それは良くないものだと分かっていることがまず大事。「負の感情」を正当化することに汲々とし、仲間づくりに励んでいる連中の仲間入りだけは避けたいもの。
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他者に怯えている人や、人間不信の状態にある人を相手にする時には、少し自信なさそうにするくらいが丁度いい。相手を怖がらせないことが一番肝心。自分のささいな言葉、態度が、彼らのその後の将来を決定する。それくらいの責任を持った方がいい。ほんの少しのキツい言葉が、彼らと社会との繋がりを永久に断ち切ってしまうかもしれない。心の檻に完全に閉じ込められたら誰もそこから出ることはできない。彼らは生きるか死ぬかの瀬戸際である。頼りにできるのは外からの救いの手だけである。 そういうのが面倒くさいと思う人は、そういうのが面倒くさいと思う人とだけ付き合うべきである。それはそれで健康的な社会ができあがる。 アリョーシャ。もしくは、アシタカみたいになりたい‥‥‥
邪悪なコミュニティ(?)
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宗教やカリスマ的人物には、部外者が悪口を言えば言うほど、そこに集まる人たちの結束が強まる(コミュニティが強固になる)という実に奇妙な現象がある。邪悪なカルト宗教なんか特にそうだが、真っ当な宗教にもこの現象は見られる(ことがある?)。 そもそも、邪悪か真っ当かの違いは何? → そんなの神さまにしか分からない(あるいは、違いなどないのかもしれない)が、 私が思うに: 閉じているか開いているかの違い。 中心人物(教祖、カリスマ)が、悪口を言ってくる人たちを進んで排斥し、閉じたコミュニティが形成されていれば、邪悪。中心人物が、彼をとるか彼以外をとるかの二者択一をあなたに迫ってきたら、邪悪。中心人物を頂点とするヒエラルキーや蜘蛛の巣があれば、邪悪。そして最後に、中心人物が以上を 意図していようがいまいが 、現にそうなっているならば、そのコミュニティは、私が思うに、邪悪(意図していないとすれば、その人自身、大変な苦しみを負っているのだ。あなたがその苦しみと心中するかは考えものだが)。 だが一般に、邪悪か真っ当かなんて、たかが人間にジャッジできるわけもない。目の中の梁ではないが、一体誰が公平にものを見ることができる? 解釈ではない真実などこの世界にあるのか。あったとして、誰がそれにたどり着けようか。もし真実などないとすれば、どうやってまともな気持ちで人生をやっていけるのか。恐ろしいことだ。自分の頭がまともか狂ったかをどう見分けるのか。何が正しいか分からないなんて、本当に、本当に恐ろしいことだ。正しさの尺度を与えてくれ。くそっ。