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 「人間らしく生きる」ということを徹底的にしたい。大前提として、(自殺願望とかないのであれば)生きなければならない。しかし、ただ単に生きている、働いて食べて寝る、それだけでは耐えられないだろう。僕たちの行う活動には、「人間らしく」にあたる部分と「生きる」にあたる部分の二種類があると思う。
 「生きる」について。生きるためにはお金が必要である。安定した収入を得るために僕たちが行うことは「生きる」ために行うことと言える。テスト勉強、受験勉強、単位取得、資格取得、就職活動、労働など。これらは全て、未来に目標を設定しそれを達成するという形式をとる。「ある目的のために」(“in order to”)行われる活動である。目的を達成する瞬間に向けて現在を捧げる、未来に向けられた意識である。
 「人間らしく」について。「生きる」ための活動が「ある目的のために」行われるものであるのに対し、「人間らしく」を担う活動は「それ自体意味のある理由のために」(“for the sake of”)行われるものである。これはひたすら現在に向けられた意識であり、未来のことは考慮に入れていない。刹那的とも言える。例として、受験勉強とは異なり純粋に学問を楽しむ、といった場合があげられる。ここで「楽しむ」と書いたように、「人間らしく」を担う活動は感情を持って行うものである。
 ある一つの活動に対して、「人間らしく」と「生きる」は両立可能か? これは非常に難しいところではあるが、僕は根本的には両立不可能であると思っている。受験勉強において、学問を純粋に楽しみすぎると合格から遠ざかってしまう、というのはよくある話だろう。また、好きなことを職業にすると、お金を稼ぐという「目的のために」行う義務的な活動になり、それ自体を楽しむことができなくなり、好きではなくなってしまう、という話も聞く。売れるという「目的のために」作られる音楽は、「人間らしく」を捨て去ったひどいものであると、僕は思う。
 「人間らしく生きる」ために必要な性質とはなんだろうか。さっき僕は、「人間らしく」を担う活動は感情を持って行うものである、と書いた。感情的なものが、「人間らしく」を支えているのだと僕は考えている。対して、「生きる」を支えているのは理性的なものであろう。感情ではなく理性が、現在だけではなく未来のことを考えることができるのである。(僕は「人間は理性的動物で」はなく「人間は政治的動物である」と思う。どちらもアリストテレスの発言らしいですけれど。)
 感情的なものは主観的であるのに対して、理性的なものは客観的である。客観的であることの重要性は、教育を通して散々学んできたように思う。そもそも、テストという形式は客観的に正しい解答を導き出すものである。なるほど、受験勉強が「生きる」ために行うものである、という部分も納得がいく。一方で僕たちは、主観的であることをますます軽視しているのではないだろうか。これが「人間らしく」を担っている重要なものであるのにも関わらずである。
 (※「ある目的のために」(“in order to”)/「それ自体意味のある理由のために」(“for the sake of”)、という言い回しは、ハンナ・アーレント著『人間の条件』を参考にした。)

 ここで、主観と客観について、僕がこれまで考えてきたことを書きたいと思う。
 客観的に考える。客観的思考。こういう言葉はよく耳にする。では、そもそも「考える」とはなにか? ハンナ・アーレントは、ものを考えるとは「私が私自身と対話することだ」「一者の中での二者を経験することだ」と表現している。(僕はこれをネットの記事で読んだだけだから詳しいことは知らない。どうやら『全体主義の起源』という本に書かれているらしい?? が、とにかく、)僕はこの考え方がものすごく! 気に入ってしまって、この表現をモデルに主観と客観について捉えられないだろうか、と考えた。
 ものを考えるとき、僕たちは頭の中で言葉を使っている。しかし言葉というものは本来、人と人との意思疎通のために使われるものだ。僕が他人と意思疎通を行うとき、「僕」は自己で、「他人」は他者だ。であるならば、ものを考えるとき、私は私以外の人と意思疎通を行なっている、と考えることもできよう。このときの他者が「私自身」であろう。「私が私自身と対話する」という表現はまさにこういうことであると思う。「私」は自己で、「私自身」は他者。ツー・イン・ワン。
 ここで、僕は「自己と他者の距離」という概念を新たに導入したい。距離が遠ければ遠いほど、自己と他者は客観的なものを使って意思疎通をしているのである。
 例えば、物理を学ぶとき僕はものを考えるけれど、このとき私と私自身との距離はかなり遠い。客観的思考だ。そもそも、数式は極めて客観的なものである。当然ながら、感情といった主観的なものは切り捨てられている。
 哲学の問題を考えるとき、幾分主観的な側面が現れてくる。実際、感情とはなにか考えることもあるだろう。しかし、数式は使わないにせよ、論理的でなければならないという点で、まだ私と私自身との距離は遠い。
 これよりもさらに、私と私自身との距離を近づけてものを考える、とはなんであろうか。それはもう学問ではない。ただ、自分について考える、という行為である。ここで大前提として、自分は自分自身についてほとんど知らない、ということを認めたい。その上で、自分がどんなことを思っているのか、考える。自分の中にある感情について明らかにする。無意識下に隠された感情を意識に上らせる。これは決して簡単なことではない。一人でじっくり考える時間を設けなければ、まず不可能であると思う。
 とりわけ、僕たちは、社会的に相応しくないような感情を自分が抱いていることに自分で気づけない場合がある。例えば、寂しさ・嫉妬・劣等感といった感情を持っていることを他人に知られたくないと思ってしまう。そしてなぜか、自分自身に対してもその感情を持っていることが隠されてしまうことがある。これは、じっくり自分について考えることができないほどに忙しい生活を送っている人に多く見られるだろう。このとき、これらの隠された感情は、他人を攻撃したり差別や迫害を行なったりといった、歪んだ形になって露見することがある。
 ジョージ・オーウェル著『一九八四年』という全体主義国家を描いた有名な小説がある。その中で描かれる人々は、まさに、自分の感情というものが自分自身に対して徹底的に隠されてるようであった。人間らしいものを失っているのである。当然、芸術といった主観的なものは存在しない。そして人々は皆、忙しい。これは党が意図して国民を忙しくさせているのである。さらに言えば、思考すること自体が犯罪であるから(思考犯罪)、人々は自分について考えることは到底できないのである。そして隠された感情は、敵国に対する憎悪という歪んだ形で露見している。(ナチスや戦時中の日本はどうだったか?)

 改めて、「生きる」だけではなく、「人間らしく生きる」ためにはどうすれば良いだろうか? 「人間らしく」を支えているものは一体なんであろうか? それは主観的なものである。そして主観的なものは、自分の感情について明らかにするという行為によって守られる。つまり、時間を設けて一人考えること、とりわけ、主観的に考えることである。どこまでも主観に先立った、地に足をつけた思考を心がけたい。地に足をつけた思考はやがて、自らの実感の伴った発言に繋がるだろう。自分自身の言葉を獲得するだろう。自分自身の言葉を持つことにより、僕たちは他者に対して誠実になれる。世界に自分を示すことができる。ここに「人間らしさ」が現れるのだ、と僕は思う。

 (※2003センター評論の文章が主観と客観に関するもので、考えるにあたって非常に参考になった。出典は、山下勲著『世界と人間』らしいです。
 一部抜粋します。


 私(主観)が物(客観)を見るというのは、結果として現れてきた現象である。私という意識は意識されるもの(客観)なしにはありえず、客観も意識するものなしにはない。そこで、人間がものごとを知るという主観と客観の関係の基礎には両者が一体となった状態があり、その原初の世界が分化することによって知るという意識の現象があると見なされなければならない。この意識の根源にある世界は直観の世界であり、古来、主客合一、物我一如といわれてきた。


 僕は、「主観と客観の関係の基礎には両者が一体となった状態があり」という部分の「両者」というものがまさしく「私と私自身」である! とか思いました。この文章は、主客が分化してどんどん離れていくにつれて、客観化が推し進められていき「科学の知」というものが生まれ、それが近代社会を作り上げていった、みたいな展開をしています。
 「自己と他者の距離」というのはここからヒントを得ています。)
 
 余談。ものを考えるとき、頭の中で言葉を使っている、と書いた。つまり、私と私自身との意思疎通において、言葉を使うとき「考える」になるのである。しかしここで、言葉というのはそもそもが幾分客観的なものである。であるならば、言葉を必要としないほどに私と私自身を近づけることもできるのではないだろうか? 答 : できる! そしてそれが「感じる」なのだと僕は思う。言葉を使わず私と私自身が意思疎通を行うとき、「感じる」になる。これは極めて主観的なものであろう。そして芸術家と呼ばれる人たちはこれを行なっているのだと僕は思う。(イラストも書いたのでそちらも参考にしてほしい、けどちょっと解像度悪い……。)

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