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11月, 2019の投稿を表示しています

「自分」を自分の中に閉じ込める

人は、自分の中にあるものを外に出してしまわないと、「耐えられない」とか「寂しい」とか感じてしまう生き物なのだと思う。「自分の中にあるもの」とは、主に感情、次いで思考とか、そういう「心の動き」のことである。だから、それが報われなかったとしても好きな人には「好き!」と言いたいし、怒ったときにはその怒りを相手にぶつけなければ気がすまないのだ。それらを抑えることは、現象としてはおそらく「孤独に耐える」ことと同じである。 「心の動き」を自分の中に閉じ込めたまま、思ってもないことを言ったり、楽しくないのに楽しいふりをしたり、あるいは一人きりで部屋に閉じこもったりしている人が、この世にどれだけの数いるのだろうか。「心の動き」を自分の中に閉じ込めることは、ほとんど「自分」を自分の中に閉じ込めることと同じである。閉じ込められた「自分」は、他の誰ともつながりを持っていない、孤独な人間であるに違いない。 僕はというと、このブログに、そしてこのブログを読んでいる人たち(かなり少ないだろうが)にいくらか助けられているから、なんとかやってけてるんだけど。 (ツイッターは手軽に自分の言葉を発信できるんだけど、別の問題も生じてしまう。ツイッターやってるやつらはまったくでたらめばかり言いやがるんだからネ! ツイッター上で正直者でいるのはとても難しいのだ。ツイッターは恐ろしい。そしてツイッターはあんなにたくさん人がいるように見えて、本当は「誰もいないのだ」ということを僕は知っている。ツイッター社に騙されないように。)
くら〜い気持ちになると、まるでそれが僕の常日頃の性質だと思われかねない勢いでくら〜い文章を書いてしまうけど、よくよく考えてみると実はそうではなくて、直前にあった些細な出来事にショックを受け、それを頭の中で拡大解釈して勝手に悲観してみせているだけ!ということが、それなりにある。気をつけたい。(そうではなくて、血反吐を吐く勢いで、本当に気が滅入っているときもある。)
そろそろ自分の性質に嫌気がさしてきた。なんで人と会う、人がいるところに行くだけで、神経を張り詰めなきゃならんのだ。神経が張り詰まった状態を想像するだけでうんざりする。人と会う、人がいるところに行くことが億劫。息を止めているような息苦しさがある。
僕の、他人に対する反応のほとんどは「遠慮」で、それは「何もしない、言わない。向こうから投げかけられたら最小限で返す」という感じである。そしてごくまれに「反抗」。これは、嫌なことをされて、しかもその人との関わりを絶てないときの最終手段である。 「遠慮」ごくまれに「反抗」で成り立っている僕の人間関係はつらいので、だいたい一人きりでいるほうがマシということになる。どうにかならないものか。(それで自分から動きだすと決まって痛い目を見る。)

ハードボイルドと「本当の心」

どんなに心から(「本当の心」から)泣きたくても、「これは嘘泣きになるかもしれない」という葛藤があるとき、絶対に泣いてはいけない。ひたすら耐えなければいけない。耐えれるところまで耐えて、どうしても涙が出てしまっても、涙は最小限に抑えなければいけない。しかも「涙をこらえる演技をしてしまってはいないか?」という疑惑が頭をかすめつつ、である。 自分の中にある「同情を求める気持ち」と徹底的に戦わなければいけないのだ。だから多くの場合、僕たちは黙って平気な顔をする。心を石にする。感情を表に出さなくなる。あるいは感情に反して明るくふるまったり、愛想よくしたりする。 そうすることでしか「本当の心」は守られないのだ。純粋さは保たれないのだ。「真実の愛」「真実の善意」といったものは、そういった忍耐や葛藤に裏付けられる。耐えれば耐えるほど、信じられるに値する人間になる。そして来るべきときにしっかりと他人と親密になることができるのだ。(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』はそういう小説だったのではないかと理解している。)
たとえ僕がどんなことをしようとも、父親は僕に対して怒る資格どころか、不機嫌になる資格すらないと、僕は思う。だからといってどんなことでも好き勝手やってやろうというわけではないし、父親の気持ちを一切無視するというわけではまったくないということは、ちゃんと書いておく。つまり僕の行動は、僕の良心と公平さにのみ委ねられてるということだ。 父親が少しでも不機嫌になると、僕は動揺して、どんなに自分に非があったとしても反抗してしまう。そしてかつての父親が僕(や姉)に対して行った仕打ち(それも当時の厳しい家庭だったら普通のことなのかもしれないし、僕が決定的に不真面目な子どもだったという可能性もあるから、どこまで非難できるかは決めかねる仕打ち)について父親に思い出させて、それに対する怒りと憎しみを洗いざらいぶちまけてやろうか、という衝動にかられる。すると父親はそれを察して不機嫌になることをやめる。父親は、かつての自分に対する僕の感情を、僕の口から聞かされることを恐れているのだと思う。 僕の中にある「かつての父親に対する怒り・憎しみ」は、僕が成長して自分の頭でものを考えることができるようなってから「やっぱり不当だったんだ」と気づき芽生えた感情だが、しかしそのときにはもう「かつての父親」はいない。だから「かつての父親に対する怒り・憎しみ」は「行き場のない怒り・憎しみ」となって心の中にしまっておかなければならない。自分の中にある強い感情を自分のものだけにしておかなければならないのは辛く、かなりの忍耐を必要とする。(それは良い感情であれ悪い感情であれ共通していること。) 現在の父親は、かつての父親との違いに拍子抜けするくらい僕(や姉)に対して優しく、なんなら甘いことさえある。(負い目を感じているのかもしれない?) 僕の怠惰と「無軌道さ」を許してくれるし、生活や将来に対して十分な支援もしてくれる。客観的に見れば素晴らしい親だろうし、僕もそう思う。感謝もしている。 でもだからこそ僕は「かつての父親」と「現在の父親」との間で、いつも感情の板挟みのようなものをくらっていて、それにひたすら耐えていて、耐えるだけで精一杯だから僕はふだん父親に対して自分の感情をひたすら隠している。その代わりどうしても耐えられないときは(その是非に関わらず)爆発してしまう。感情を爆発させた僕に対してぶつかって

彼らのおびえ

こころの深くに おびえ 冷たい金属のしんどう 彼らは ただ 暖炉を探しているのであって 柔らかく暖かいものに 隠れたいだけであって それが分からなくて おびえ わめき 怒鳴り散らす 彼らはおびえていることを知らない おびえ 冷たい金属のしんどう 独裁者も 犯罪者も ただ 宇宙の流れに戻りたいのであって 自然とふたたび 出会いたいだけであって それが分からなくて おびえ わめき 傷つける 彼らはおびえていることを知らない おびえ 冷たい金属のしんどう 彼らは いつも 大きな壁を前にひざを震わせている 冷たく堅い 威圧的な 壁 ただ恐怖するのみ

「生きる」とは…

人間はごはんを食べないと死んでしまう。ごはんを食べるためには(狩りをする時代でもないから)お金を稼げなければいけない。 「人間は」と書いたが、これは人間(個人)でなくても同じことで、もう少しスケールを大きくしても成り立つ。「家庭は」お金を稼がなければいけない。「会社は」お金を稼がなければいけない。「国家は」お金を稼がなければいけない。 国家がお金を稼ぐためには、他国に車を売らなきゃいけなくて、そのためにはたくさんの電気が必要で、だから原子力発電所が必要である!といった具合に、お金を稼ぐための営みは膨らんでいく。 国家がお金を稼ごうとしないとどうなるか(車を作らなくなるとどうなるか)というと、お金をたくさん稼ごうとする国(例えばアメリカ)にたくさんのお金を持っていかれて、国家全体がますます貧しくなる。 お金を稼ぐことは、つねに競争することである。国家による、互いの資産を増やすための争い。戦闘機だって必要だから作られるわけではなく、お金が動くから作られるわけである。 そして、われわれ人間(個人)は、国家に属している。それは義務教育を受けなければいけないだとか、法律を守らなければいけないことからも明らかである。 国家がお金を稼がなければいけないということは、われわれ人間(個人)がそのための「社会貢献」をしなければいけないということである。便利な車を作ることは売れる車を作ることで、これすなわち「社会貢献」なのである。 義務教育も「子どもの純粋な知的好奇心を満たす」ためにあるわけではなく、国家の金稼ぎのために(将来、より便利な車を作らせるために)あるのだ、といってちょっと言い過ぎかもしれないが、あながち間違ってはいないはずだ。 受験勉強がすさまじい競争であることの説明もつく。お金を稼ぐことは、つねに競争することである。それはお金を稼ぐための人間(個人)の、そして国家の争いなのだ、といってちょっと言い過ぎかもしれないが、あながち間違ってはいないはずだ。 そう考えていくと、学歴なんてものは、社会的地位なんてものは、国家が国家の金稼ぎを有利に進めるために作った社会的な価値(ある種の幻想)であって、個人的な価値でない、といってちょっと言い過ぎかもしれないが、あながち間違ってはいないはずだ。
「スーパーマンにでもなろうかなあ。ん? いや、待てよ。そうか、スーパーマンになるか!」くらいのびのびした思考で生きていきたい。僕にはそういう大胆さが圧倒的に足りていない。(意識して生活してみよう。)
『ヘッド博士の世界塔』の中古が新宿のディスクユニオンに950円とかで売ってあって、びっくりしてもちろん買って、ここ数日よく聴いてるんだけど音が楽しくて、本当にとにかく聴いてるだけで楽しい。音が楽しい。歌詞はほんとうとか嘘とか言ってるな、ということくらいしかまだ見てないけど、あとGod Only Knowsがサンプリングされているのはすぐ分かった。(最近ビーチボーイズも少し聴いているので。)

好奇心のおもむくまま! リスト

僕が本当に「好き!」と言えるのは andymori くらいのものである。悲しいね…(そうでもない?)あとは、少なからず「頑張って」読んだり聴いたりしている。 好奇心のおもむくまま! リスト(いま興味を持っているものたち。多すぎて全然追いついてないよ。) ・ビートルズ(現在5〜8枚目のアルバムを攻めています。「ビートルズが好き!」だなんてとてもじゃないが言えない。けど、とてもじゃない。あと解散した後のジョン・レノンも最近少し聴いてる。) ・ビーチボーイズ(ビートルズもそうだけど、「良い」ものは聴かなきゃ!と思う。半分お勉強です。) ・小沢健二(『うさぎ!』長らく借りています。すみません。読みます。個人的に尊敬している人がオザケンに強く影響を受けているため。) ・尾崎豊(「3O(スリー・オー)」とは? 小山田壮平・小沢健二・尾崎豊のことです。僕も頭文字Oが良かったなあ、切実に。) ・村上春樹(しかし「村上春樹が好き!」とかはあまり言わないほうが賢明か。隠れハルキストを目指そう。でも僕は村上春樹をけっこう尊敬している。) ・大江健三郎(『万延元年のフットボール』がすごく面白かったのだ! 密と鷹、かなり好き!) ・三島由紀夫(大江健三郎もそうだが、政治的であることも含めてものすごく興味ある。脳みそ激しそうで、すごく興味ある。) ・夏目漱石(これも教養だよなあ。) ・サリンジャー(サリンジャーからはすごく影響を受けています。すごく。andymori と近い位置にあると思う。) ・ジョージ・オーウェル(『一九八四年』読んで満足しちゃった感はあるが、他のも読みたい。) ・『世界十大小説』の十大小説(『赤と黒』しか読んでない。『自負と偏見』は今読んでる!) ・アメリカ文学(村上春樹が翻訳したものや、村上春樹が影響を受けたものなど。柴田元幸が翻訳したものや、柴田元幸がおすすめしているものなど。) ・ロシア文学(ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフらへん?) ・ドイツ文学(カフカ、カミュ、トーマス・マンらへん?)(←カミュはフランスだった。) ・女の人が書いた日記(『アンネの日記』『二十歳の原点』『えいやっ! と飛び出すあの一瞬を愛してる』) ・詩(詩集なんか買ってもどうせ読まない。) ・映画(とりあえ
↓  短い小説を書いてみた。稚拙で、読み苦しいところあるかもしれないが、暇な人は読んでみてほしいです。なお「星」と「小山田」という名前はかなりテキトー。個人的に気に入っている名前を使っただけ。タイトルはなし。
 春になろうとしていた。三月が終わりに近づいていた。この春は、僕がこれまで迎えたどの春よりも暗い春になるに違いない、と僕は思った。新鮮さのかけらもない春。テレビや新聞、あるいは街の雰囲気から感じられる「春がきた!」という高揚感は、それと対照的で暗くて不安定な僕を、はっきりと人間社会から弾き飛ばしてしまった。  シャワーを浴びよう、浴びなきゃ、と思った。目が覚めては夢の中に戻っていくことを、もう何度もくり返していた。目が覚めるたび、現実のすべて(生活のすべて)を思い出して尻込みする。そして頭が完全に覚醒してしまう前に、夢の中に逃げるため意識的に眠り込もうとして、目をつむる。しかし今度はそうもいかなそうだった。口の中はねばねばしているし、体は不潔で、布団の中がなんとも居心地が悪く感じられた。  電話が鳴った。  僕はびっくりして電話のことで頭がいっぱいになり、急いで布団から飛び出して受話器を耳にあてると、 「星、いま何してたの?」と、はきはきした女の声が言った。 「ああ……」 「寝てたのね。今からそっちに行くから、そうね、あと二十分くらい。じゃ」  女はきっかり二十分後にやってきた。僕がドアを開けると、女はさっさと靴を脱いでそれを整えることもせず、すたすたと僕のわきをすり抜けて居間に座り込んだ。彼女の行動にはいつも躊躇がまるで感じられない。 「見て、このポスター」と言って女は、くるくる丸めた状態で腕に抱えていたポスターを床に広げた。「私たちのサークルの新入生歓迎会のポスターよ。星、あなたは新入生歓迎会には来ないの?」 「行かない」と僕は言った。「それに『私たち』のサークルではない。あのサークルは、もう、僕のサークルではない」 「ねえ、星。小山田はあの事件に関して、あなたのことをひどく中傷しているわ」と女は言った。女はどうやらこの話をするために僕の部屋に来たようだった。「星が一人で家にこもって口を閉ざしている間、小山田は自分に都合の良いやり方でみんなに事件のことを説明してまわるから、みんなは星のことを悪者だと信じ込んでいるわ」  僕は黙っていた。 「どうして星はそれの弁解をしないの。星が、星から見た事件の真相をみんなに説明してやらない限り、まったくフェアじゃない。すべて小山田の思うつぼだわ。小山田はあなたを孤立させようとしているのよ」 「どうで

人生の道草を食う

脱落するところまで脱落してみたいという気持ちがある。自己破滅的な人たちに対する憧れがあるのかもしれないです。不思議な憧れだ。まったくダメな人間であるか、なんかしら秀でたものを持っているかの二択であるところまで行ってみたい。危ない考え……。 とはいえ、休学くらいなんてことはありません。仮に僕みたいなタイプの人間がたくさん集まったところを想像すると、その半数以上は休学(あるいは留年)くらいするんではないかな。(この仮定は意味をなしていますか?) 休学でもなんでもして、大学生期間に思いっきり人生の道草を食って、それがあとあと「社会的に活きる」かどうかはともかく、その人本人からしたら立派な精神修行になるには違いない。(とか書きつつ、それなりに将来は不安だ。) あと五年くらい、どちらかと言うと僕は逃げ腰であり続けると思う。社会的責任から「逃げ」の姿勢であり続けると思う。しかし二十五歳に近づくにつれて、僕は「逃げる」よりも「折り合いをつける」を選ぶことを学んでいき、社会的責任と「折り合いをつける」ことができる大人になっていくと思う。(なっていくべきだ。) しかし、現時点で「社会的責任と折り合いをつけながらやっていこう!」と納得するには、僕はあまりにも若すぎる。まだまだたくさんものを知りたい。なにからも自由な身となって、徹底的にものを考えたい。なにも決めたくないし、なにも決められたくない! モラトリアム……モラトリアム…(呪文)。(あるいは「二十五歳くらいで僕は『折り合いをつける』大人になっていくべきだ」とすることによって、二十歳の僕は二十歳の僕なりの「折り合い」をつけているのだと解釈して、ご容赦願いたい。) それにしても、どうして多くの人たちは深い疑問を抱くことなくふつうに大学を卒業してふつうに就職ができるのか、僕には不思議に思えて仕方がない。自分が一体なんであるか知っているのだろうか? みんなもっと古典的な(?)モラトリアム期を過ごすべきだよ! まわりの大人は急かすだろう。実際、急がないとまともな職にはありつけない悲しい世の中なのかもしれない。僕がいま足踏みしていることは、将来の僕を後悔させることになるのかもしれない。 将来のことはなにも分からない。全然大丈夫なのかもしれないし、ぎりぎり大丈夫なのかもしれない。ぎりぎりアウトなのかもしれないし、もう手遅れな
ところで、このまえ書いた「 玉ねぎを剥いていく 」という詩は、「内省」をテーマにした詩なのである。内省、まさにこのブログで主にやりたいこと。自分がいま感じること・考えることは一体なんなのだろうか?と、自分の中に深くもぐっていくさまを書きたかったのです。玉ねぎの層を剥いていくことで、その中心(本当に自分が感じること・考えること)にせまっていけるのだ、という実感を! つまり僕はこのブログに文章を書くことによって、僕の「精神的玉ねぎ」を剥いているのである。対して「物理的玉ねぎ」とはスーパーで売ってるふつうの玉ねぎのことです。(カタカナの「タマネギ」の方がよかったかなあ。それだと「精神的タマネギ」になって、なんかいい。)

暴力・社会的なもの

「男女の差」の根っこの根っこの根っこは、「殴り合ったら男は女より強い」であると思う。これが逆転していたらそれ以外のことがすべて同じであっても、男女に与えられる社会的な役割だったり、一般的に言われてしまう性格の差(「男は〜だけど、女は〜だよね」みたいな言説)だったり、女性差別あるいは男性差別だったりのすべての「男女の差」が逆転していたのでないかな、とか思う。どうだろうかー? 文明が発達する前の原始時代を想像してみれば分かりやすい。それがまさに「原始の状態」であり、複雑化した現代社会もそれの延長なのであるから。 では、「白人・黒人の差」の根っこは? それは「戦争をしたら白人は黒人より強い」であると思う。西洋でより進歩した文明が発達したのは地理的要因によるものらしい。ヨーロッパは気候条件に恵まれており、主食となる小麦がたくさんとれて飢えに困らなかったとかなんとか。地理で習ったような気がする。そういえば科学ももともとは「趣味」から始まっている。それは食べ物に困らず、労働以外のことをする時間があったからできたことだ。教育もおなじ。(そもそも西洋が「より進歩し」ているかどうかは何が決めるのだろう? 何をもって「進歩」と言えるのかという疑問。それもやはり「戦争に勝つこと」じゃないだろうか。) 「男女の差」と「白人・黒人の差」の根っこに関して、両者に共通してるのは「暴力」であろう。最初に、暴力がある。その次に「社会的(あるいは政治的?)なもの(ルール、道徳、規範、役割など)」が決まるのだ。 資本主義と社会主義のどちらが正しいかなんて、ほとんどの人はちゃんと考えていないんだろう。ただ単に「戦争をしたら資本主義は社会主義より強い」という結果があるだけだ。その結果だけを見て、ほとんどの人は「社会主義は間違っていて資本主義は正しい」と判断し、資本主義社会を疑わない。そして彼らは資本主義社会における競争(受験勉強、就活、出世競争など)に敗れた人間に対して「努力が足りなかったからだ」と言い、個人の責任にしてしまうのだ。しかし「自己責任」がどこにあるのか、僕にはさっぱり分からない。(念のため断っておくけど、僕はもちろんコミュニストではない。) そういった社会の決める「正しさ」って、単に「暴力」が違う形となって現れたにすぎないのではないかと思うことがある。そうではな
僕は学生運動を「巨大な反抗期」だとは思わない。(じゃあなんなんだ?)

一人きりから始めること

例えばとある人間関係がこじれたとして、言いたいことは山ほどあるが、もうどう努力してもなんにもならなそうで、そうなったら黙ってそこから離れていくしかないし、それはもうそういうものだ、そういう忍耐は人生でつきものなのだ、と思うことがある。 「おおいに黙っていよう」と心に決める。それは自分がどれほどの公平さを持っているのか判断できないためであるし、また自分まで同じ土俵に立って一緒にみっともなくなる必要はないと思うからでもある。そのときにはもう自分でも手に負えない複雑な感情になっているのだ。強がっているのか、なんなのか? そして「一人きりになるべきときなのだ」と思う。でもそれは「ずっと」ではない。「一時的に」一人きりになるべきときなのだ。 僕たちはいつでも一人きりの状態から始めることができるよう、強くなっておかなければならない。それまでの人間関係がすべて無になったとして、イチから新しくやっていくような覚悟を、心のどこかで持っていなければならない。 それは「一人きりで生きていく強さを持たなければ」ではない。「いつでも一人きりから始めることができる強さを持たなければ」である。この二つはまったく違う。

どんな他人も自分である

文章を書くときはなぜか、どんなに頑張っても自分に都合の良いことしか書くことができないもので、自分に都合の良いことなら嘘もつけるし、自分に都合の悪いことなら本当のことでも隠してしまう。 ①客観的であることにはずるいところがあって、自分は外から世界を見ているだけだよと言って、自らを当事者でなくしてしまう。そうではなくて、例えば「偏見」や「悪」について述べるのであれば、述べる人が自らの思考回路から自らの「偏見」や「悪」をえぐりだしてきて、それをまず言葉にしなければいけない。それができないのであれば、なにも言うな、である。 ②人は平気で(無意識のうちに)自らの記憶を、自らがヒーロー(ヒロイン)であるように捏造する。 本当に深い深い内省があれば、誰も誰かを責めることはできない。人間はみんな似たような思考回路をたどるものだ。他人のそれがみっともないからといっても、よくよく考えてみれば、すべて自分も知らぬ間にやっていることだ。他人の観察ばかりしていないでちゃんと自分の中にもぐっていけば、どんな他人も自分であるということが痛いほど分かる。(殺人者でも、独裁者でも、独裁者を支持する群衆でもね。)『アイ・アム・ザ・ウォルラス』の冒頭にもあるように、僕らはみんな「おんなじ」である。本当に。
なぜ今の僕が今みたいな感じなのか、どこでそうなっていったのだろう?と思うと、ものすごく不思議な気持ちがする。きっと、いくつかの転機があって、それらが伏線となって、相互に絡み合って、現在の自分が形成されているのだと思う。おかげでさまで僕は、ある方面ではわりと進んでいる、しかしある方面ではかなり遅れているといった、ちぐはぐな性質を持っているのではないかと思う。そしてそれが結構おかしくて、自分に対する変な愛着すら沸いてくるのであった。成長が期待されています。

玉ねぎを剥いていく

玉ねぎを剥いていく この世のすべての感情をそこに見る 視界は消えさり 大きな海を見渡すこびと 玉ねぎを剥いていく あらゆる表層に惑わされないこと 「見たり見えたりする一切有は 夢の夢にすぎませぬか」 玉ねぎを剥いていく 中心には宇宙があるのか(ないのか) 光が見える ますます内側に引きこもって 玉ねぎを剥いていく のも ほどほどに!

心がまえの分類

①一人きりでいるとき → もっとも自由、気楽、安全。 ②人と居合わせているとき → 視線、姿勢に気をつけなければいけない。涼しい顔をしていればよい。なにか考えているフリをしていればよい。一人きりでいる「てい」でふるまえばよい。 ③人と話しているとき → 精一杯やる。
男の人はみんな、多かれ少なかれおびえているのではないか?(だとしたら、一体なににおびえているんだろう?)おびえていて、それでふさぎこむ人もいれば、攻撃的になる人もいる。男の「子」だと、そんなことはない。 母親が「母親的なもの」ではなくなるにつれて(「男の子」が「男の人」になるにつれて)、生きているだけでどっか混乱していて恐怖を感じるようになるのかもしれない。今日『サクリファイス』という映画を見て、それから自分のことについても考えてみて、そして身のまわりにいる自分以外の男の人についても考えてみて、なんかそう思ったのである。 『ノスタルジア』もそうだったが、かなり宗教的な映画だった。マリアうんぬん。(そして僕にはちょっと退屈な映画だった。睡眠不足でもあった。) 女の人のことは分からない。(「男は〜」「女は〜」という文章はあまり使わない方が賢明だとは分かっているのだが。)