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8月, 2023の投稿を表示しています

理←→心

 一つの 理 に適った考えを抱くことと、そう考えるよう動機づけられた 心 にひそむ自分の問題を直視することは、互いに正反対の作業である。後者は、自己反省の作業である。公平な考えを抱くためには、自分の心の中をくまなく調べる作業が必要である。私たちは、一つの考えを採用することで、自分の心を防衛しているのかもしれない。自分の心に自覚的になることで、たえずその可能性を小さくする努力が必要である。偉大な哲学者であろうとするなら、偉大な心理学者でもなければいけない。多少なりとも客観的であろうとするなら、最もプライベートで見るに耐えない、自分の内奥についても知る必要がある。

言葉→暴力

 法(言葉)→ 警察(暴力)。警察とは、法により正当化された暴力である。正当化された暴力がない世界は、弱肉強食、強い者(あるいはずる賢い者)が勝つ世界である。法(言葉)だけでは実際の効果をもたない。言葉が暴力に先立つ(べきだ)とはいえ、実効力をもつのは暴力である。正当化された暴力(警察)によって万人が脅かされている状態、それが平和状態なのだ。少なくとも現実世界では一部これが当てはまる。

主体≠自由意志

 主体性とは、「〈自分の内にあるもの〉を表出する」という、ある種の方向性(エネルゲイア)のことである。自由意志を否定することは、「主体/客体」「行為/出来事」「ヒト/モノ」の区別を否定することでは必ずしもない。モノは「〈自分の内にあるもの〉を表出したい」という欲求に駆られたりはしない。ヒトはそうした欲求に駆られ、行為によってそれを満足させようとする。一方、この〈自分の内にあるもの〉は、自分のコントロールの範囲外(因果律か運か)からやって来るものである。ヒトには「〈自分の内にあるもの〉を任意に選択する能力」(=自由意志)などないし、主体の説明にそれらが必要というわけでもない。

自由=エネルゲイア(≠自由意志)

 感情を表現できる。意見を表明できる。行きたい場所に行くことができる。トイレに行きたければ行くことができる。これが自由である。一方、自分の内にある感情、意見、どこどこに行きたいという欲求、尿意、もろもろを決定する能力は、私たちには まったく ないし、これを自由と呼ぶべきではない! 以上の例を一般化してみる。自由とは「〈自分の内にあるもの〉を表出できる」(エネルゲイア)ということである。自由=自由意志ではない。すなわち、自由とは「〈自分の内にあるもの〉を任意に選択できる」ということではない。思うままにふるまえることが自由なのであって、〈思うまま〉それ自体を選択できることではないのである。心の内でどう思うかは、心理的におのずから(自分のコントロールの範囲外で)決められてしまうものだ。

ハードな運

 犯罪者と、わたしと、何がこの違いを生んだのか。なぜわたしが犯罪者ではなく、犯罪者がわたしではないのか。わたしは犯罪者でもあり得た。サイコロを振り直して、今度は違う目が出れば、わたしが犯罪者であるということもあり得たのだ。すべては運次第である(ハードな運)。運は、実力、人格、行動様式、何もかもを飲み込んでしまう。社会正義が拠って立つのは、運がすべてを決定するという事実である。

自由について(意志←→環境)

 意志に自由はない(あると真面目に主張することはできない)。しかし、たとえ意志に自由の余地がないとしても、私たちは、身体が拘束されていない状態と、されている状態との違いについて、経験的によく知っている。あるいは、感情・意見を表現してもいい空間と、してはいけない空間との違いについて、経験的によく知っている。この二つの違いこそが、自由のある/ないの違いであると主張できるではないか! 自由意志がない=この世界には自由がないという理屈は、自由についてのリアルな日常経験をも否定してしまう。そうではない。意志に自由はないにせよ、環境を整備することによって生まれる自由はある。

現れることの喜び

自由の本質とは 隠れたるものが現れる瞬間 ともなう喜び 人前に出るときの彼女は ハラハラドキドキしている 見られることは恐ろしい ジャッジされる空間は 危険に満ちており 一人きりになって 自由を人質に 心に閉じこもるとき 彼女は避難できたと感じる そこは安全だからである 心の監獄から解放され 明るい空間に踊り出ること 原始の勇気をふるい 見られる冒険に乗り出すこと みずみずしい自発性に 身内から突き動かされる体験 人前に出るときの彼女は ハラハラドキドキしている 生きている心地がする 自由の本質とは 隠れたる自分が現れる瞬間 ともなう喜び