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『インナージャーニー』と『十七歳の地図』を聴きながら

 僕は行き当たりばったりで考えてきたし、考えてもいる。何か明確な目的を持っているわけではなく、どこかに向かっているという意識もなく、ただ漠然と、いろんなことを分かりたいという気持ちで、冒険するような感覚でいる。それにもかかわらず、今、僕が考えていることが、割と変な方向に行ってしまわず、「正しく」考えることができているとしたら(どうだろうか?)、それは結果オーライなのかもしれない。「とてもいい!」と思えるような考えも、当然、何かや誰かからヒントを得ているし、それらがなかったら考えることができなかった考えだ。それらがなかったらおれはどうなっていたか分からない。変な方向に行ってしまっていたかもしれない。しかしここで忘れないでおきたいのは、「自分が気づいていないだけで、すでに変な方向に行ってしまっている」という可能性を(実感はなくとも)残しておくことだ。むしろ、この可能性を頭の端っこに置いておくことによって、割に「正しく」考えることができるのではないか?  さっき、「ただ漠然と、いろんなことを分かりたいという気持ちで、冒険するような感覚で」と書いた。尾崎豊の『十七歳の地図』は、ちょっとだけこの感覚にかすっているような気がする。「少しずつ色んな意味が解りかけてるけど」や「今 心の地図の上で 起こる全ての出来事を照らすよ」なんか、とてもいい歌詞だと思う。僕たちが五感を使って認識する世界(外的世界)とは別に、それと同じくらい広い世界が自分の中にもあると考えられている(内的世界)。そこを旅するイメージを持ちながら考えることは多い。このイメージは、andymoriの『インナージャーニー』という曲の題名からもらった。(「インナージャーニー」自体は、インドの瞑想とかなんとかの用語らしい。)「目を閉じて 僕はいなくなるんだ ただ風の音を聞くだけの行為になるんだ 旅に出よう 頭、ハート、臍へと下りて行こう」という部分が好きだ。自分の中で何が起こっているのかを、できる限り公平な目で、ただ見に行く感覚。  僕は南極に行ったことはないから、そこがどんな場所なのかは分からない。それどころか、隣の家にどんな人が住んでいるかさえもあまり知らない。図書館なんかに行けば、一生をかけても到底読み切ることのできないほどの本がそこにはあるし、しかしそこにはない本の方が圧倒的に多いくらいなのだ。宇宙とかはよく分

スタンダール『赤と黒』

 面白かった! 特に下巻の、特に最後のジュリヤン・ソレルの葛藤が非常に面白かったです。  雑に思ったことを書くのですが、まず、レーナル夫人との恋愛が真実の恋愛で、マチルドとの恋愛はそうではない、またはその逆、という見方はできないと思った。どちらも(真実さの点で)対等であると思う。貴族と聖職者(宗教)が、マチルドとレーナル夫人で対応しているのであれば(さらに赤と黒で)、貴族も聖職者も、出世のことしか頭にない偽善という点で、ジュリヤン・ソレルの中では(おそらく作者の中でも)共通しており、そういう他人を前提とした恋愛(第三者からどう見られるか)が、真実の恋愛の邪魔をする、という構図なのかな、とか思った。同じ貴族階級の者からどう見られるか、聖職者あるいは神からどう見られるか、を気にせずにはいられない点で、マチルドもレーナル夫人も賢明ではなかったのだろう。  さらに言えば、出世を強く望む野心を持っていたジュリヤン・ソレルも、マチルドやレーナル夫人と対等であるのかもしれない。つまり、そういった野心が、真実の恋愛の邪魔をしているという点で、彼もまた賢明ではない。そして、ジュリヤン・ソレルがナポレオンに憧れる平民であることによって、この三人が、教科書にも載っているフランス革命時の有名な風刺画に描かれている平民、貴族、聖職者と、綺麗に対応しているという点が面白い。なるほど、これらは社会的な階級のことであり、社会的なものは他人にどう見られるかを前提としているものであるから、真実の恋愛という点からは等しく遠いところにある。よって、三人は同じくらいに賢明ではない。  ジュリヤン・ソレル、マチルド、レーナル夫人がそれぞれ、野心、虚栄心、道徳心によって真実さ(誠実さ? 正直さ?)を歪めた、と見ることができると思う。しかし物語の最後では、この三人がいずれもこれらの感情から脱し、世間体を一切気にしなくなるところから、真実さに立ち戻る(すると最後に愛していたレーナル夫人との恋愛が真実の恋愛と見ることができるのだろうか? う〜ん)。これは、このときになってジュリヤン・ソレルが「聖書の神さまじゃない。……公平で、善良で、無限なヴォルテールの神さま」がいたら……と願い、さらにその神さまを説く人間がいる際には「 三人になるともういけない。……ひとりぼっちで生きる!……なんという苦しみだ!……」と思い
 一人きりの自分がすることだけをしたい。他人が見ていなくても、やはりそれをするだろう、というものを増やしたい。あるとき、自分には心から楽しめるものがほとんどないんだ、ということを知りかなり絶望したし、誰かに見られることを前提で何かをする自分に嫌気がさしてあらゆることをやめた途端、あまりにも退屈になって生活が辛くなったりした。今では少しずつ楽しめるものが増えてきてかなり楽になってきたけれど、それでも、一つのことに夢中になれない、オタクになれない自分と死ぬまで向き合っていくのか……と思うと不安になる。小さな楽しみを増やしていかないといけない、とか思って本とか酒とか……
 本物になりたいんですよね。本物な人たちが僕を見たときに、その人たちに「あいつは本物だ」とか思われたい。(しかし「あいつは本物だ」なんて本物な人たちはきっと思わないのかもしれないけれど。「なんか好きだな」とか「自分と気があうかも」とかそんな感じだろう。例え思っても、そんな素振りは決して見せないだろう。)こういう考えはくだらないのかもしれないけれど、くだらない考えを自分が持っていることを自覚しないことにはなにも始まらない。くだらない考え、醜い感情、下心でもなんでも、寂しさとか嫉妬とか、そういうのを抱いていることによってその人の価値が下がるとは到底思わない。それらを自分でも観察しようとせず、負のエネルギーだけを野放しにすることがいけない。自分の中にあるそれらをなるたけたくさん把握して、その上でそれらと対立するきれいな感情もまた把握して、そのせめぎ合いの中に自分は立っているのだ、という真面目な態度こそが、本物を形作るのではないか? 取り繕うことは必要だ。しかし、自分は取り繕っているのだ、という自覚がなければいけない。大人になっても純粋そうに見える人は、自分の中にある純粋でない部分をしっかり知っているのではないか? だから平然とするしかない。そうするより他に仕方がないから平然としているけれど、それについて聞かれれば「平然とするしかないじゃないか」と正直に返す。このとき、言葉と態度がちぐはぐになるかもしれないけれど、それもまあ、しょうがないです。

あるべきではなくあるであるべき

 あるべきではなくあるであるべき! です。「ある」から目を背け、一つの種類の「あるべき」を掲げて、それが自分だと信じ込ませるのは危険だと思う。人間は「ある」であるから、一つの種類の「あるべき」言葉を繰り返し自分に言い聞かせても、絶対にうまくいかず、自らの掲げた「あるべき」に疑いをかけざるを得なくなる。 ほんとうに 求めているのは、あらゆる種類の「あるべき」が同時に達成される矛盾の満ちた状態であるからだ。「ある」はあまりにも多くの種類の「あるべき」で構成されているけれど、それらの「あるべき」を可能な限りたくさん、丁寧に把握して、できれば言葉にするべきだと思う。その上で、それら「あるべき」のバランスを考えたい。なにはともあれ、自分のことについてよく知る努力をすることから始まる。とっ散らかった欲求を持つ、どっちつかずの自分を受け入れて、よくよく観察することから始まる。論理的思考によって得られた立派な結論は、常に感情や身体感覚によってチェックされなければならず、いつでも簡単に切り捨てられる状態でなければならない。
 おれ、大きなコンプレックスとかも特にないし、まだ若くて時間あるし、親からもかなり愛されてきたし、不幸な出来事もさしてないのにも関わらず、自分なりに「まとも」な人間になるために自分のことについて考える過程で、ここ2〜3ヶ月かなり精神的に辛いものがあった。最近はやっと安定してきたけど、これからもきっと辛い時期はあるだろう。  おれほど恵まれている人間でもこれほどまでに辛かったのに、他の人は耐えられるんだろうか? おれでもどうしようもないくらい辛いときがあったのに、本当になにをすればいい? 一体全体どうしろと? というくらいに気が滅入ってしまう日があったのに、おれよりも辛くなる理由が用意されている人たちは、どうやって自分なりに「まとも」な人間に近づけるんだろうか? 少なくともおれが感じた辛さは感じなくてはならなくて、それだけでもどうしようもなく辛いのに、それ以上に辛いだなんて耐えられるんだろうか?  そしてさらに辛い人というのもいて、彼らが精神的な病気になったりクスリに手を出したりするのだろうか。さらにさらに辛い人もいて、ついに自殺をするんだろうか。そしてこれらが、かつておれが漠然と思っていたよりも簡単にあり得てしまう気がする。(実際、人身事故ならしょっちゅう起きてる。)そうなってしまう人が特別変わっているとか、心が弱いとかではきっとない。おれは全然大丈夫だったし、そういうふうには決してならなかったし、これからもきっと大丈夫なんだろうけれど、それでもおれと彼らに境界はなく、おれの辛さの延長線上のはるか向こうではあるけれど、それでも間違いなくつながっている場所に彼らがいるんだとしたら、彼らが自分の身を滅ぼすことなく自分なりに「まとも」な人間になることができるために、打つ手はあったんだろうか?  自分なりに「まとも」な人間になろうと思わなければ、そういうことに鈍感であり続けることができるのであれば、辛い思いなんてしなくて済むのかもしれない。つまりそれは、身を滅ぼすことを精神が恐れて、心の奥底で、「そのことについては考えるな! 考えるな!」って叫んでいるということなのかもしれない。しかしそれで自分なりに「まとも」な人間になろうとせず、多くのことをごまかして生きていくとしても、誰がそれを攻めることができるだうか? (いや、おれはひどい人間だから、他人のそれを攻めたことがあ
 なにもやることがない一日に、ツイッターでつぶやきすぎると虚しくなってくる。昨日がだいたいそんな感じでした。だから今日は、なにもつぶやかん! と、朝から決めて一日を過ごした。  なんかをしゃべっていたいんだなあ、と思う。日々発見があるし、感動することがあるし、それを誰かと共有したいのだ。しかし、ツイッターという場所でしゃべっていいことなんて限られているし、短い文章だけで表情も声もなにもないので、だいたいにおいてなにも表現したいことなんて表現できないから、やっていて虚しいだけなのだ。  こうやってブログを書いている時間は、かなり「まとも」でいられている実感がある。気軽につぶやけるツイッターをやり過ぎると、こうやって丁寧に、落ち着いて文章を書こうという穏やかな気持ちにはまずなれない。一日つぶやくのを我慢すると、一日の終わりには「そうだ、ブログでまともな文章を書こう」という気になれるからすごくいい。(ツイッターよりはまともな。)  いろいろ、こう、伝えたいこと(?)があるんだよな……誰に、というんではないけれど、なんかこう、とにかく思うことがたくさんあって、いつもなにかを思っているから、こんなにも思っているのだ! という(?)エネルギーみたいなものを見てもらいたいのだ(?)。それでツイートしてみたり、ブログで文章を書いたりする。しかし、自分でもなにを思っているのか把握できないこともあるし、文章にして完全に晴れるというものではない。きっと、いろいろな人と会って、そこでしゃべったり、反応したり、動いたりみたいな、言葉にはいちいちできない細かいところで表現がなされて、満たされていくんだろうな、という気がしている。  だから、たくさん人としゃべる、というのが当面の目標です。特に、しゃべったことのあまりない人とあれこれしゃべってみたい。今まで、いつも顔を合わせていて自然と仲良くなった、ということはあっても、自分から誰かと仲良くなろうと思って近づいてそれが上手くいった、という試しがあまりない。それで諦めて一人で家にこもっていたような部分がある。  しかしまあ、最近は外に出て、ほんとうにいろいろなことを学んでいる気がする。夜学バーというところを発見して、ぎりぎりの勇気をふりしぼって扉を開け、そこでなんとかうまくやれた、というのは大きかった。行ったことのない場所に顔を出して、知