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認識

認識にともなう喜び とは 禁止された果実の甘さ 混沌をつらぬく一つのものさしが この世のすべてを整列させる 最初に忠告したはずだ 世界観には深入りするな 共通感覚を失うな それだけがお前を 人びとと結びつけるもの 賢者はシンプル 弟子が世界を複雑にする 理論は基礎づけだけにして あとは実践に励みなさい
 プラトン『国家』の特に素晴らしい箇所は、私の意見では、第一巻のトラシュマコスの問いと第二巻のグラウコンの問いである。それ以降のソクラテス(のセリフを通して語られるプラトン)の思想については、控えめに言って、めちゃくちゃなものも含まれている。現代の視点からすれば、ということではあるが。もちろん、だからと言って、プラトンの非ソクラテス的対話篇の価値が失われるということはない。プラトンの述べる「真実」を支持するにせよ、拒絶するにせよ、私たちは、プラトンが提出した問いの枠内であちこち動き回るのである。
 お金を稼ぐことは必要だが、必要以外の何ものでもない。お金持ちが「おれは大人物なんだ」と思い上がりそのように振る舞うのを見ると、そしてそれに群がり賞賛し有り難がるその他大勢を見ると、私はいつも嫌悪感を抑えることができない。理性的にそれは間違っていると考えるだけでなく、感情的に気持ち悪いとさえ感じてしまう。この「感情で嫌悪する」という側面は、明らかに私の反省すべき点である。この嫌悪感のせいで、理性が正しく使われているかも疑問に付されてしまい、思考のすべてが台無しになる。感情が用意した結論ありきで理性を働かせたのではないか、理性が感情に仕えたのではないかという疑いである。私の心は「たちの悪い心理学者」にあれこれ詮索される。例えば、「そんなことを考えるのは、あなた自身が心の奥底では彼らに嫉妬しているからですよ」と。このような指摘に反論することは不可能である。心の真実は私自身にも分からないし、心理学者にも分からないし、神さまだけが知っていることである。

見る=名前をつける

 例えば、エデンの園それ自体をこの目で見た人はいないし、万人の万人に対する戦争それ自体をこの目で見た人もいない。だったらそんなもの人間に何の関係もないじゃん、と言うとしたら、それは間違いである。動物にとってなら実際何の関係もないだろうが。それ自体としては現実にないそういった抽象概念は、そうは言ってもやはり、日常的な経験地平から生み出されたものである。存在する個々の事物から抽象概念を生み出す人間の能力は、あまりに不思議で、ほとんど魔法みたいである。この能力に最初に気づいたのはプラトンで、その分析はカントのカテゴリー論、ウェーバーの理念型、ウィトゲンシュタインの言語論的転回などに引き継がれている。  この抽象化の作業は、私たちがものを見る(認識する)とき、つねに行われている。例えば、世界にリンゴそれ自体は存在しない。エデンの園それ自体を見た人はいないのと同様、リンゴそれ自体を見た人もいないのである。ただ個々の🍎が存在するだけである。それらを「リンゴ」というカテゴリーに入れることで初めて、私たちはリンゴを見ることができる。しかしその際、まだ個々のリンゴを見分けることはできない。同じカテゴリー「リンゴ」に入れているからである。個々のリンゴを見分けるためには、さらに「傷のついたリンゴ」などのカテゴリーが必要である。このように、言葉のラベリング作業なくしては、私たちがよく知っているような意味で「ものを見る」ことは不可能なのである。

これらすべての意味

真の英雄とは 同時代の人びとに罵られ 死後に評価されるもの 信念を貫くとは何? 既存の法をふみこえ 逮捕され罵倒され 家族だという理由で 両親は職場を追われ 弟妹は学校でいじめられ 本人は処刑される 恐ろしいことだ 世間から不正の人だと 思われ しかし 実際には正義の人で ある それを知っているのは 神さまお一人だけ 現象と存在の不一致 あるいは 誰も知らないか 存在なんてない? 恐ろしいことだ 後の人は言うかもしれぬ 労働と趣味に退きこもり 公に姿を現さなければ よかったのに! これは一体何だろう 信念のために生命を失うこと 起こったことの取り返しはつかない うなずくことも首をふることも 私にはできない 人間にとって これらは何を意味している この物語の主題は何? 恐ろしいことだ 宇宙の真ん中で 人間はよそ者である 天と地から生まれた この惑星の捨て子である 呼びかけに応じる者 誰もいない これらすべて 私たちがそのために 泣いたり叫んだりする 地上のゴタゴタすべて なぜかと問うても 宇宙はただ 沈黙したまま——
古い言い伝えにある かわいい人が老いれば もっとかわいい とは 本当の話である 死後の生を準備する知恵が 現世をサバイブする分別を お払い箱にするからだ 天国への持参金は 魂だけ 幸福に至る道もまた

自己吟味と無意識

 わたしは……と考える。しかし、わたしがそう考えるのは、それが「真実だから」ではなく、それが「自分にとって都合が良いから」ではないか? ——この問いはまさしく、自己吟味、自己批判の問いである。存在被拘束性、とは本当によく言ったもので、誰も自分自身の特殊な境遇を超えてものを考えることはできないし、ものを見ることすらできない。人の思想は、その人の生まれ、育ち、経験をぬきに形成されることはないし、その人の利害、自己正当化、自己防衛を多分に含んでいるものである。思考が、多少なりとも「公平」であるためには、たえず自分を吟味しなければならない。  心理学の言葉で言い換えれば、それは無意識でいったい何が行われているかを調べることである。無意識は意識をことあるごとに欺いている。あるいは、意識に上ることの正反対のことが無意識にはある。たとえば、意識的な自己肯定とは、無意識の自己否定の反動である。無意識の自己否定を意識の上で受け容れ、それと真っ直ぐに向き合って、その原因をとり除かないかぎり、意識的な自己肯定は心を歪ませるだけである。無意識の自己否定の存在を気づかせるきっかけは、日常のあらゆる場面に潜んでおり、意識的な自己肯定を保つためならそれらを根絶やしにするのもいとわない、といった暴君的性質が生じるからである。

舞台の照明

かわいそうな人とは 隠遁者のこと 見られ 聞かれることに ともなう喜びを 知らないからだ 人の視線すなわち照明のない 真っ暗な空間を動きまわる あらゆる社会運動の本質 それは舞台に上がること スポットライトに照らされ 観客によって見られる 明るい空間に踊り出ること 死んだような夜 繋がれていた 黒い鳥が 鎖から解放され 明るみに飛び立つのと同じ 隠れたるものが 現れる瞬間の喜び 太古の昔から 知られている経験 舞台の照明は イデアの強烈な光よりも 優しみある 祝福すべきもの

足るを知らない社会

 お金ではないものにこそ、何かしら「善いもの」があると仮定して、それを探求するのが哲学の始まりである。だが、じっさい、その「善いもの」は、簡単に見つかるものではない。なぜなら、その「善いもの」は、お金のように分かりやすいもの、目に見えるものではないからである。それは、目には見えないもの、抽象的なものだからである。  しかし、次のことはすでに分かっている。「善いもの」を多く持っていたとしても、必要なだけのお金がなかったら、その「善いもの」の価値も台無しになってしまう。食べるものがない人が、友人との会話を楽しむことはできない。「善いもの」の価値は、必要なだけのお金があってこそ、何かしらの意味を持ち得るのである。とはいえ、この事実をさらに押し進めて、お金があればあるほど「善い」のである、とはならない。必要なだけのお金をすでに持っているのに、それ以上のお金を求めることは、間違った行為であろう。  資本主義において、資本はさらなる資本を生み出す元となる、と考えられている。この考えの根っこには、お金以上の価値あるものは何もない、ということが前提となっている。そしてまた、お金を稼ぐことは、他人のそれを奪うこと(競争の原理)も同時に含んでいる。だとすれば、お金以上の価値あるものは何もないと信じ、どこまでもお金を求める人々が、そうではない人々が生活するのに必要なだけのお金をも奪っているのではないか。そういうことが実際に起こっているのではないか。それが、資本主義社会において、必要なだけのお金を稼ぐのにも苦労することの理由なのではないか。足るを知らない人たちが、足るを知る人たちの「足る」までも食いつぶそうとしているのが、資本主義のありさまではないか。  しかし、そもそも「足る」とは何か、必要とは何か、という疑問がある。食べ物は必要だが、車は必要だろうか? 車を買うための労働はやめにして、その分の労働は貧しい人にゆずり、自分はその時間を「善いもの」のために使うことにしよう、と考えるべきだろうか。おそらくその通りなのだろうが、しかし僕は、それを実行に移さない……なぜなら、僕は車を必要としないとしても、車の便利さという贅沢が欲しいからである。ようするに、おそらく僕も、他人の「足る」を食いつぶしている、恥知らずの一人である。このように、マルクス主義(みたいな思想)の持ち主の行き着くところは、そい
 社会人(あるいは現代人)の悲惨なところは、あまりにも多様なものの見方があるために、他者と共通の世界を持つことが難しく、人生の大半、自分が見ている世界(=主観性)に閉じ込められているところである。言葉の通じない外国にいるときと同じ疎外感が、社会人の心を覆っている。得体の知れない社会なるものの中で、どうにか安住の地を求め、ときどきそこにたどり着くこともあるが、たいていは上手くいかない。  カフカは主観性に閉じ込められた世界を描いている。

よそ者

すっかり安心して 憩うことができるのは わたしがわたしの心の中にある 秘密のオアシスにいる間だけ わたしがわたし自身と 一緒にいる間だけ というのもこの世界は くつろぐためには あまりに忙しく また 危険であるから 目に見えるものはみな いつかわたしを欺くのがおち 内面性へと逃げこむのは それが理由 部屋に引きこもり ドアを決して開けないのも すべてそれが原因 これほどまでにわたしは わたし以外のものと遠く離れており この世界においてわたしは とことんよそ者である それがいまの時代の気分である 社会人とはよそ者である 誰もがアウェーで戦っている
A あいつの言うことは デタラメとハッタリ 口先ばかり 法外なことを他人に要求して 自分はその重荷を背負わない あいつのやることは ただの手品と演技だけ おれはそんなやつを信じる人の 気持ちが知れないよ B きみは知らないのかい? そういう彼は さっき処刑されたんだ! 逃げることもできたのに その方法はいくらもあったし みんなそれを望んだのに みずから死を迎え入れた!
ソクラテス: 不正を為すくらいなら 不正を受ける方が よっぽどマシである イエス: 他人が苦しむのを見るくらいなら 自分が苦しむ方が よっぽどマシである
 デカルトの「われ疑う、ゆえにわれ在り」以降、神さまについて、せいぜい私たちに言えることは、「この世の秩序のために、神さまは必要である」くらいのものである。この場合、神さまは、目的を達成するための手段となっており、信仰と呼べるものはすでにない。
 善悪の学問とは、自己反省の学問である。ある人の善悪は、その人が拠り所とする理論やものの見方によって測られるのではない。その人が、その人自身を世界のどこに位置づけるかによって測られるのである。自分のことを棚に上げる(自己を例外として扱う)人が、どんなにぬかりない理論を語ったところで、何の意味もない。これは「説得力に欠ける」うんぬんの問題ではない。善悪という概念が、そもそも、自己ぬきでは成立しない概念だからである。善-悪の二項対立は、利他-利己の二項対立と同義だからである。
 いつも「大衆は愚かである」式の説明に逃げ込んでいる自称「賢い人」は、その「賢さ」がどこからやって来るのかについて、真剣に考えたことがあるのだろうか。まさか、自分で生み出した、自分由来の「賢さ」であるとは言うまい。また、その「賢さ」は誰が評価してそう決めていると主張するのか。まさか、神さまだ、などとは言うまい。プラトンとは言わず、ソクラテスからやり直した方がいい。たちの悪い心理学者の手にかかれば、ソクラテスよりももっと残酷に「負け犬の遠吠えだ」と片づけられてしまうことになる。  自分は善人である、と素朴に思い込んでいる人も同様である。天国に入ることができるのは、自らそれに値すると思わない者だけである。天国とは「真正な評価」の比喩表現である。

哲学と現実

 哲学の本分は、どこまで行っても「お金を稼ぐ」ことにはなく、それとは正反対のことにある。思考という活動が、身体ではなく精神でなされる限り、ただ「生きる」(=生命を維持する)ためではなく「善く生きる」ためになされる限りは、そうである(したがって「仕事哲学」という用語は形容矛盾である)。  しかし、とはいえ、哲学は暇人の知的なお遊びではない。考えるという営みが、いわゆる「観念のお遊び」に成り 下がって しまわないため、地に足をつけたもの、生活に根ざしたものであるためには、ときに、考えるという営みそれ自体を中断しなくてはならない。外の世界に目を開いて、目に見えないもので構成される空想の世界から、目で見ることができ、手で触れることのできるこの現実の世界へと、降りて来なければならない。そこには他人がいるし、生活がある。  金持ちの坊ちゃん、モラトリアムの学生、奴隷を所有している主人、ブルジョワなどなどのような、生活の必要に追い立てられることのない、他人の労働で自らの生命を維持している者には、なるほど、少数者のための哲学はあっても、人間一般に通用する哲学はあり得ない。