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人を傷つけているような気がする。気のせいかもしれない。分からない。自分が誰から必要とされているのか分からない。どうすればいいか分からない。気のせいかもしれない……
僕が心の中でひそかに誰かを軽蔑するとき、その軽蔑は何かしらの形で必ず僕の態度に現れたに違いなく、そしてその軽蔑からくる冷たい態度というものが、その人を苦しめ、その人自身では解決しようもない立場にまで追い込むようなことがあっただろう。それなのに僕は、そういった自分の罪にまったく気付かず、苦しい気持ちでじたばたもがくその人を、さらに軽蔑しさえしたものである(こういったことと同じことが、まったく当然のこととして、至るところで行われているのだ。以前までの僕と同じように、多くの人はそのことに自覚的ではない。人間が、他の人間の良し悪しを高みから判断し、この人は尊敬に値するけどこの人は軽蔑してもいい、なんて決める資格を持っているだろうか?)。 そして、僕はかつて人間そのものを軽蔑し、あらゆる人の行動を疑いの目で見、近づいてくる人を冷たい態度で遠ざけていたから、あらゆる人間に対して罪があると言って差し支えないほど、僕は罪深い人間である(そのことを分かっているのにも関わらず、今でもまだ人を軽蔑したり、批判したくなったりするくらいだから、まったくどうしようもない人間ですらある。でも、少しずつ向上してはいる)。 以上の理由から言っても、僕はこれまでの行いを悔いて、これからは会う人すべてに優しくしなければいけないし、どんな人のことも大切にしなければいけない。感謝と懺悔の気持ちを抱きながら、すべての人間に対して心の中でひそかに忠誠を誓い、他者に奉仕しなければいけない。それを自らの生涯の仕事として、日々精進しなければいけないのだ(それに僕には、それ以外に自分の仕事にしたいと思えるものが、何一つ見つからないのである)。 大げさに思われるかもしれないし、実際、少し大げさに書きすぎた感がある。大体こういった決意を、一生を通して抱き続けることが本当にできるのか? それは、はっきり言って僕にも分からない。もしかしたら、この文章を書いたことを忘れてしまう日がやって来るかもしれない(そうでないことを願っているのだが)。でも少なくともいまは、この文章に書いたことを、何のごまかしもなく信じているのである。

怒り、憎しみ

傷ついたことによる悲しみ、苦しみ、辛さ、あるいは寂しさ、怯えといったものを、誰にも言わず一人きりで抱えていることはできないため、多くの場合、人はそれらを怒りとか憎しみに変えて、自分の外に吐き出そうとする。 人は「嫌われるかもしれない」という不安から相手のことを嫌いになるのだし、「殺されたくない」という怯えから「殺してやる」という憎しみは生まれるのだ。あらゆる負の感情は根っこでつながっているのである。 怒りや憎しみの状態にある人(誰にでもそういう瞬間はあるものだが)に必要なのは、ただ一つ、他者に面倒を見てもらうことである。とことん辛抱強く、慈愛に満ち、愛のある人からの援助を受けることである。その援助は、親が(あるいは兄や姉が)自分の愛するかわいい子供(弟や妹)の面倒を見るようなやり方でなければならない。子供を子供扱いするようなやり方ではなく、大人がかわいい子供に対して、心の中でひそかに忠誠を誓っているようなやり方である(もちろん、子供は例外なくみんなかわいい)。 怒りや憎しみを抱えている人が、誰からも面倒を見てもらえず、放ったらかしにされたとしたら、その人は死ぬまで暗い心を持ち続けることになる。孤独と疑いの人生を送ることになる。そのうち発狂してしまい、自分が何をしているのかも分からなくなるだろう。これはその人ひとりでは決して解決できない問題なのだ。必ず愛のある他者を必要とする。 ところで、大人が子供のように他者に面倒を見てもらうというのは、まったく当然のことであって、何も恥ずかしいことではない。なぜなら、人間は誰でもかわいい子供であるからだ。誰もが一人きりでは生きていけず、ときどき他者に面倒を見てもらうことを必要とする、ただの子供なのである。 それに人が怒りや憎しみを抱くのは、とことん不幸な偶然によってそうなるのであって、その人自身のせいではないのである! 全人類が共有して持っている負の感情の配分に偏りが生じて、たまたまその人に大きな負荷がかかってしまったのである。そのことをすべての人が承知しているべきなのだ。 だから、怒りや憎しみの状態にある人にこそ、丁寧に、愛を持って接しなくてはならない。自分が負の感情を抱えているときは、できるだけ素直に、他者に面倒を見てもらわなければならない。そしてそれは何もおかしなことではないのだ。心に余裕のある人は、