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「思う・口にする」の研究

人間には「思うことを口にして、それを人に聞いてもらいたい」という欲求がある。しかしその「思うこと」がつまらなかったりすると誰にも聞いてもらえないし、不快だと人を不快にさせるし、ダサいと人からダサいと思われる。だから人は思うことをなんでもかんでも口にするわけではない。 だからときとして、「思うこと」と「それを口にすること」との間には途方もなく長い長い距離がある。「何も喋らない人」は「何も思わない人」ではない。「思うこと」は止まない。その人にとって「思うこと」と「それを口にすること」との間には、物理的には頭から口までの距離なのかもしれないが、実際には、一人の人間を誰からもその存在が気付かれないくらい遠くの宇宙に放り投げてしまった、くらいの距離があるのである。 「思う・口にする」の研究は、すなわち「孤独」の研究である。思うことを口にしないよう我慢することは、孤独に耐えることと同じことである。しかし見方を変えれば、それは「秘密」の研究であるとも言える。口にされなかったことはすべて「秘密」となって、その人だけのものになるからだ。 「孤独」は楽しくない。でも「秘密」を持っているということは、ちょっと楽しいものである。少なくとも僕はそう思えるときがある。たくさん黙った末に手に入れることのできた「秘密」は、いつか誰かと(少ない誰かと)親密になるため最大限に利用されるのだ。 人は「秘密」を共有することで、誰かと親密になることができる。公的な空間(人がたくさんいる場所)では言えないようこと、見せないような一面(それが「秘密」)を、ごく限られた人にだけ明かし、その人と自分との周りを私的な空間に作り変えてしまうことによって、人は誰かと親密になることができるのだ。 誰かと深く結びつくためには、それだけたくさんの「秘密」を必要とする。思ったことを口にしないで黙れば黙るほど、それだけたくさんの「秘密」を抱えることになり、それだけ深くいつか誰かと仲良くなることができるのだ。したがって、「孤独」は確かに楽しいものではないかもしれないが、「秘密」を持っていることはちょっと楽しい。「秘密」はちょっといいものである。

切実さがある

あらゆるところにい あらゆるものを見 あらゆることをしてきた女 世界がなんたるかを知っているが 何も言わない 大小さまざまなたくさんの列車が 彼女の心と身体に入り込み そのまままっすぐ突き抜けてしまった そして何も残らなかった きれいな空っぽだけが残った それが悲しいことであるのかすら 彼女には少しも分からなかった 心は柔らかく弱いもので 機構は硬くて強いもので ふたつの仲介をするのが身体なのだとしたら 健康でいたいと僕は思う 科学者によると人間は 宇宙をさまようちりあくたである 血のつまったただの袋である そうだよと合点している人たちは 強がりの知ったかぶりのインテリやろうで ひとり寂しく死ぬ勇気なんてないくせに 口だけは誰にも負けないらしい 切実さがある 人間には切実さがある 助けて!と叫ぶ内側からの声 身体はそれを押し殺し なかったことにする 機構に顔向けできないからだ しかし彼女は叫ぶこともしなくなった きれいな空っぽに切実さはない 理由のない涙だけが頬をつたい 偽りのない感傷だけが彼女を包み込む それが悲しいことであるのかすら 彼女には少しも分からなかったが
素晴らしい二十歳の日々を送っているし、これからの二十代も(少なくとも半ばまでは)自分ではない人や物がすごい速さで自分を通過していって、頭が追いつかなくなるような、そういう「良くも悪くも典型的な二十代」を生きるだろう。 楽しいこともあるし、ごくまれにものすごく楽しいこともあるが、だいたいは苦しい、そういう配分でたぶん人生は進んでいく。何はともあれ進んでいく! 楽しいことも苦しいことも過ぎ去ってしまえば、残るは「うっすら楽しい」という気持ちだけになる。 悲観的になるのは間違っている。だとしたら、どう間違っているのだろう? でもえらい人たちがみんなそう言うから、言われた通りにやってみようと思います。川の流れに逆らう牛のように、大きな力でじりじりと進んでいくようなイメージ。いつも心に情熱を持っていて、人からはそれが分からなくとも、つねに体を光らせているような、そういう意識ですべてに臨みたい。 「悲観的になるのは間違っている」と言って、それが言葉だけではなく、本当にそれを僕自身が証明しているような、力強くて賢い人間にならなければならない。
ちょっと違った文体で書こうと思ったりするんだけどうまくいかない。分かりにくくなるだけだなあ。

悲観的になる

一度でも悲観的な時期をくぐり抜けると、その後どんなにたくさん「楽しいこと」が起こったとしても、それは人生を隙間なく埋めるほどに用意されているわけではないから、悲観的な時期に経験した「不安と孤独」は、その「楽しいこと」と「楽しいこと」の合間を縫うように思い出され、そのせいで、悲観的になる「くせ」がついてしまうことになる。そうして人生の色合いが暗くなる。「人生」というものに抱く印象そのものが大きく変わってしまう。こうなってしまうと、人生は、もう二度ともとの明るさに戻ることはないらしい。 「不安と孤独」は、心が空っぽになったときを狙って入り込み、一気に広がる。そして、人生に意味はあるのか? とか、誰か一人とでも心の隅々まで理解し合うことはやはりできないのだろうか、もしできないとしたら、人はそれに耐えられるだろうか? さらには、そもそも本当にそういうことを知りたいのだろうか、(やたらめったら「死」について考えたがる学生のように)どこかで耳にした疑問を並べたてて、それを自らの「不安と孤独」の代わりにしているだけなのでは? といった、あまりにもたくさんの解決されることのない考えが押し寄せてきて、もう、手の施しようがなくなってしまう。 誰かのことを思ったり何かに向けて努力したりすることが、それ自体の素晴らしさのためにあるわけではなく、心が「不安と孤独」でいっぱいになってしまうこの時間を何よりも恐れるあまり、心を空っぽにする隙を作らないことが目的なのだとしたら、「人生は明るいものである」と考えることなんてとうていできない。「悲観的になることは間違っている」と心の底から思わせてくれるような、エネルギッシュで力強い励ましがほしい、といつも思っている。
ビートルズいい… ビートルズ好き!

大きな知性

たくさんの偉大な人たちとおなじように 「あなたが生きているそれだけで あなたには大きな意味があるのだ」 とは言い難い そこまで大きな知性が僕にはまだない でも そういう悲しい世界の仕組みに 静かに怒って 考えて 抵抗したいと思っている たくさんの偉大な人たちとおなじように 間違ったことを言うきれいごとが大嫌いだ たくさん裏切られた 物事はみなちぐはぐだった 本当のことを言えば 僕は半分 諦めている でも 残りの半分で 真実なきれいごとを探している たくさんの偉大な人たちとおなじように 残りの半分で 大きな知性を予感している 彼女の言ったことは間違っていると いつかいつの日か エネルギーは湧いてくるのだろうか 期待を胸にゆれている
政治家を軽蔑しても、政治は軽蔑しない。「政治的であること」を軽蔑しても、政治は軽蔑しない。(言葉のもんだいか…?) 僕たちが軽蔑すべきは「政治ゲーム」であって、「ほんとうの政治」は(あるいは「ほんとうの政治」とは何か?という問いは)軽蔑してはならない。二人以上が集まれば、そこには(ある種の)政治がある。一人きりで生きていくことのできる人間は少ない(寂しいので)。

前提としての反権力

頭が良くて、かつ「自分が正しいとは限らない」ということを、ちゃんと心の底から思うことのできる人、というのは非常に少ない。僕はかつて自分が正しいと思っている大人たち(大人たちはたいてい子供よりも自分の方が正しいとか思ってしまうのだ)に心底むかついていたので、そうはなりたくないと、事あるごとに「なにが正しいとかは分からないんだぞ」と自分に言い聞かせて、自分なりに頭を訓練させてきた(それでも「僕は正しい!」と思うときは当然あるのだが)。 「なにが正しいとかは分からない」世界においては、 弱い立場にいる人を守る意見の方が、そうでない意見よりも、ただその意見が弱い立場にいる人を守るものでしかなかったとしても、はるかに正しい。 だから僕のやるべきことは、①誰が本当に弱い立場なのか、自分の持っている限りの知性を働かせて見極めること(例えば、路上で歌う女性シンガーソングライターに罵倒をするおじさんが、いかに社会的に弱い立場にいるか、考えてみてほしい。では、誰が(何が)本当に強いのか? 問題は深い)、そして②弱い立場の味方をすること、である。 力関係を度外視して、上から「正しさ」を持ってくるやからがたくさんいる。彼(彼女)らは言葉しか見ない。しかし、言葉ではどうとでも言えてしまうものだ。賢いだけの人は、力の強いものにさらに力を与えるような都合のいい理屈を、言葉をもて遊ぶことで、いくらでもでっち上げてしまうことができる。 僕の根底にある考えは「反権力」である。(おなじ村で暮らさなければいけないのなら、)権力は、その「正しさ」に限らず、その力を弱めるべきであると思っている。僕は自分が誰かに怯えることを「よし」としないし、僕が誰かを怯えさせることはもっと「よし」としない。僕は権力ある人の意見を鵜呑みにしないし、僕自身が権力のある人になりたいとも思わない。誰の信者にもならないし、誰も自分の信者であることを許さない。 僕たち一人一人がものを考えなければいけないのは、ものを考えなければいつの間にか権力のある方に流されてしまうからだ。(「政治に文句があるなら自分が政治家になればいいだろ」というセリフは、いったい「誰が」最初に言い出したのだろう?)
『犬は吠えるがキャラバンは進む』を聴くと、半年くらい前それを聴きながらたくさん夜の東京を歩き回った記憶が蘇って、半年しか経ってないのに、すでに懐かしい気持ちになってしまう。 ここ二年くらいの間だが、僕はものすごいスピードで変化しているため、半年前でも三年前(高校入学して卒業できるほどの期間)みたいな懐かしさを感じる。二年前だともう十二年前(小学校入学してから高校卒業するまでの期間)みたいな懐かしさを感じる。あらゆることを考えては考え終わり、考えては考え終わりを繰り返しているうちに、ほとんど僕は別人になった。 この『犬は吠えるがキャラバンは進む』は、実に「渋い」アルバムである(どこかで誰かがそう書いていたような)。そして「思想的」である。ところで、ジョン・レノンの『ジョンの魂』というアルバムもまた「渋い」(これもどこかでそう書いてあったような)。そしてやはり「思想的」である。どちらもほとんど装飾のないシンプルな音だから、一回聴いただけで分かりやすく「いい!」とは思わないだろうが、長い目で見れば一番たくさん聴くことになるタイプのアルバムである。そしてこの二つには、バンドを解散してソロになってから出した最初のアルバムである、という共通点がある。 この二つのアルバムは、良いこともあれば悪いこともある「人生」を平均化したとき、それと最も近い「肯定と否定のバランス」を表現している、心地の良い、「良い」アルバムだと思う。(『ジョンの魂』の方は卑屈な感じが多少あるから、ちょっと否定的要素が強いかもしれない。『イマジン』だともう少し明るくなる。)
最近ハマっている曲。 バック・イン・ザ・U.S.S.R. Our House (クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング) 人… 怖いと思うし、でも仲良くなりたいと思うし、でもたいていは一人きりでいたい、誰からも認識されたくない、そうかと思えば本当に寂しい。どうしようもない。

心を水晶に例える

人間の心を(占い師が手をかざしたりのぞき込んだりしているような)まん丸の水晶に重ね合わせて考えてみる。そして「感情」や「思考」といったもの(広く言えば「意識」)は、水晶の表面に映った模様のことである、と想像してみる。われわれは自分の水晶をどんなに注意深くのぞいてみても、その表面に映った模様を見ることしかできず、その中に何が入っているのか、模様を作り出しているものそれ自体の正体はいったい何なのかを知ることは決してできない。 一つの疑問が浮かんでくる。水晶の中には実は何も入っていないのではないか? 模様はただそれ自体として水晶の表面にあるだけで、それをもっと本質的な「何か」が作り出しているメッセージであると考え、模様からその「何か」について解釈したりすることには何の意味もないのではないか? と。 もしそうだとしたら、大変なことである。例えば、誰かを「愛してる」だとか「尊敬している」といった(一般的には)価値があるとされている気持ち(いわゆる「心のこもった」気持ち)と、「この料理おいしいな」や「眠いな」といった些細で気まぐれな気持ちとは、まったく同程度の価値しかないということになってしまうのだ。どちらも、ただ、そのとき水晶の表面に映っていたというだけであって、その人自身に固有の、その人自身の中にある「永遠不変のもの」から発せられているというわけではない、ということになるのだ。 僕たちが「人を信じる」というとき、僕たちはその人の発する言葉や、その人の行動といった「表面的なもの」について考えているのではなく、その人の一番内側にあるものについて、つまるところ「水晶の中身」について考えているのだが、それが「ない」となると、僕たちは他人に対して、そして自分自身に対しても、何も信じることができなくなってしまう。信じるべき対象がそもそもないからである。 それならそれでいいじゃないか、と思うことができれば何の問題もない。しかし、それで本当に耐えられるだろうか? 自分の心は単なる気まぐれの連続であるし、自分のことをよく思ってくれている人の心も、ただ、今はそういう気持ちになっているというだけでやはり気まぐれだし、ふとしたきっかけで消えてしまうような儚いものであるとして、納得できるだろうか? 人との関わりの中で感じる「親密さ」には何の意味もないということになってしまうのである。
ツイッターを(強い意志を持って!)やめてしまうことにした。僕が自分のアカウントにログインすることはもう滅多にないだろうから(全くないかどうかは分からない)、僕に用がある人はメールをするか何かしてください。とてもいい!に見てもらいたい、というひそかな動機から何かをツイートするという人がもしいれば(そういうツイッターの使い方以外に、つまり、特定の誰かに自分のツイートを見てもらいたい、というツイッターの使い方以外に、どういうツイッターの使い方があるだろうか、と思うことがある)、すみませんが僕はそのツイートを見ることはないと思うので、何か他の方法を使ってください。 僕はますます内向的になりつつあるので、期待されたときに期待された反応をしたり行動をしたりすることが減っていくかも分かりませんが、許してください。僕の気が向くのを待つか、諦めるかしてください。できれば、長い目でお付き合いください。 このブログはちゃんと更新するつもり。どんな人もここに来さえすれば、僕の安否確認ができるというわけです。また、この場所で僕はできる限り自分一人きりになったつもりでものを書いています。このブログ上に見られる僕は、ほとんど「特定の誰か」に対して無関心です。そういう意味で、このブログを書いている僕は誰に対しても公平中立です。このブログをのぞく際は、一人集中して絵を描いている人を遠くから眺めている、といった印象を受けてください(?)

『灯台へ』を読みながら

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』、すごく好きだ。読み終わる前からここにそれを表明したくなるくらいに……。自分は何かを「好きだ」と表明することで「こびてる」わけではない、と信じたい。読み終える前からこういう文章を書いてしまうこと自体がすでに怪しいけど。「好きだ」と表明することに満足してしまって、それをしなかったら失われることなく持ち続けられたかもしれない「ほんとうの関心」みたいなものが少しでも失われてしまうのだとしたら、それは嫌である。こういう文章を書くことが、この本を自分の中で半ば終わったことにしてしまうのだとしたら、書かない方がいい。けど、書いてしまう。「何かを好きと表明すること」に関わる葛藤みたいなものを、これを機に文章にしたかったから!(という言い訳を用意して。) でも、ちょっと読んだだけでも分かるくらいに、この小説は僕の中にあるものとすごくリンクしたのです(そう思う)。それは、この小説が「意識の流れ」という技法を用いて書かれていることと深く関係があると思っている。僕はこれまでずっと、文章を書こうと思うときには「自分が感じていること・考えていること」だけを題材にするしかなかった。それは、僕が日々をたいしたイベントもなく過ごしているため「今日こんなことがあってさ」みたいなことを題材にすることができなかったからである。この小説も、話の筋を読ませることではなく、登場人物の「感情の揺れ」や「一貫性のない思考」をそのまま垂れ流しにしたみたいな書き方(それが「意識の流れ」)が大事なのであって、それは、ふだん僕が文章を書いているときの書き方に近いものがあると思う(もちろん僕の方は全然洗練されていないんだろうけど)。 これは、大きく頷きたくなった一節。「まったくどう考えればよいのか。人を判断し評価するとはどういうことなのか? あれこれ考え合わせて、好き嫌いを決めるためには、どうすればよいのだろう。それに『好きだ』『嫌いだ』っていうのは、結局どういう意味なのか? 梨の木のそばに釘づけにされて立ちつくしていると、二人の男性のさまざまな印象が降りかかってきて、目まぐるしく変わる自分の思いを追いかけることが、速すぎる話し声を鉛筆で書きとめようとするのにも似た、無理な行為に思われてくる。しかもその『話し声』は紛れもない自分自身の声で、それは否定しがたく、長く尾を引くような、矛盾

テロル的思想・深い内省

「N国党」について僕が考えたことは、「彼らは、虐げられてきた人たちが『社会に対して自らを正当化する』という無意識にある動機から、『社会は間違っている、自分は正しい』という偏った考えを育て上げ過激化していった、テロル的思想を持った集団である」というものである。彼らは、自分たちが何を感じ、何を考えているのか、本当には何も知らないまま過激になっていくのである。彼らは自分たちが何をしたいのか、何を言っているのか、何をしているのか、知らない。 「社会を批判する者は、それと同時に、深い内省をしなければいけない」というのは、僕がずっと考えてきたことである。自分の中にある「悪」や「ごかまし」「コンプレックス」に対して無自覚な人間が、どうして他人や社会に対して批判的になる資格があるだろうか。『万延元年のフットボール』に出てくる、「社会に受け入れられていない」タイプの人間であり、革命思想を持った「鷹」のことを思い出す。 「正しいことは自分の外にあって、それに従っていればよい」という考えは一切捨てて、僕たちは考え続けなければいけない。「深い内省」をしなければいけない。自分がこれまでどういうことに傷つき、どのようにそれを克服しようとしているのか、するべきなのか、徹底的に自覚し、考えなければいけない。 それは「地に足をつけて」考えることである。神にも、神を非難するあらゆるイデオロギーにも頼らず、真に「人間の地平にとどまって」考え続けることである。内側にしか答えはない。答えを探そうと外側に向かっていって、そこでいろいろなものを見ることは良いことである。しかし、最後は、自分自身が考えたことにどこまでも忠実でなければいけない。それは、『魔の山』の主人公であるハンス・カストルプが、セテムブリーニの持つインテリ的いかがわしさにも、ナフタの持つ退廃的いかがわしさにも(彼らの影響を受けつつも)誘惑されず、最後は自分ひとりの力で〝愛と善意〟のヒューマニズムを体感したのと同じように。 そして僕は、「虐げられた人たち」を作り出すのは社会である、ということも知っている。「虐げられた人たち」がテロル的思想を持ってしまうことの責任は、「深い内省」を疎かにした彼ら自身にあるわけではなく、やはり社会にあるのだ、ということを知っている。(あるいは、誰にも何にもその責任はないのかもしれない。)

太陽の夢

なんの抑制もなくわんわん泣きたい そしてそれを人に見られたい そしたらその人は僕のところにやってきて 大きなハグをしてくれる それで僕は安心して眠ってしまうのだ 夢を見ると思う つらい夢ではないと思う 目が覚めたとき僕の輪郭がゆれてしまうような 戸惑いの夢ではないと思う 太陽の夢だと思う ためらいがちな太陽の夢 まぶしい光を放つことを遠慮してる 優しいんだなきっと

本当の心に決めた人の腕の中で泣きたい いつか そのときのためにこそ 涙は一滴たりとも流さないのだ 平然としている 人は僕のことを薄情なやつだと思う 冷たいやつだと思う 情と熱のないやつだと思う それもこれも きたるべきときのための鎧なのだ 涙はある 涙はちゃんとやってくる いつかきっと 自分の中にあるものを丸ごとぜんぶ引きずり出して ひとりの人間に差し出すときがくる 不安と戸惑いのない心地よさに出会うときがくる そのときのため きたるべきときのためなら ひとりの夜も耐えられる 孤独はただの伏線でしかなくなってしまうのだから

スーパーマンと神様

スーパーマンは「愛」と「善意」の象徴である。「愛」と「善意」をキャラクター化したものである。スーパーマンになりたいと思うことは、真実の「愛」と「善意」を持った人間になりたいということである。 しかし、僕たちは誰もスーパーマンになることはできない。というのは、「愛」と「善意」は、言葉が与えられて初めてその存在が認められている概念でしかないため、それらの象徴であるスーパーマンもまた、現実世界に存在することのできる人間ではないからである。りんごとはわけが違うのだ。(りんごも「りんご」という言葉が与えられて初めて存在し始める概念である、という難しい考え方もあるらしいけど。) それらに言葉が与えられているのは、それらが間違いなく存在していてほしい、という世界中の人々の「願い」があってこそなのだと思う。そこから、それらと反対の「憎」や「悪意」あるいは「偽善」といった言葉も作られ、作られると同時にそれらの概念もまた存在するようになる。したがって、スーパーマンは「願い」に中にしか存在できないし、スーパーマンをスーパーマンたらしめる悪役もまた「願い」の中にしか存在することができない。 僕たちの心の中には、誰しも「愛」「善意」「憎」「悪意」「偽善」などの言葉で表現されるものの全てが含まれているのだが、これは実際には、そういった言葉で表現することがナンセンスなほど心の中は混沌としているということを意味する。混沌とした心の中にあっては、「愛」と「憎」、「善意」と「悪意」、「善意」と「偽善」の境界もなくなっている。 誰もスーパーマンになることはできないというのは、誰の心の中も混沌としていて、スーパーマンのような無垢さを持っている人間などいない、ということの言い換えである。自分の中にある「愛」や「善意」を無垢なものであると信じすぎる人間は、それらのために暴力をふるったりすることもできるけれど(例えばスーパーマンが悪役を倒すときのように)、その暴力が正当なものであったかどうかの評価は、その人のいる環境や時代に影響を受けるだろう。あるいは、暴力をふるった後の状況に影響を受けるだろう。自分では「愛」や「善意」であると信じて行ったことも、それは「憎」「悪意」「偽善」でしかない、という評価がくだされるかもしれないのである。 環境や時代、状況に左右されない絶対の評価をくだすことができる

ゆれる

いいよ いやだね 分かるよ 分からないなあ うまくいきそうだよ だめなんじゃないかしら

部屋にこもる

世の中にはすでに たくさんの言葉があふれている なにをいってもそのどれかになってしまい 僕は黙る 言葉はこころを ざっくりとしか表現しない それはピザを切り分けるようでしかなくて 僕は黙る たくさんの人たちが 湯水のように言葉をたれ流し たくさんの「正しさ」を並べ立てるのを聞く 僕は黙る 黙ってくれないか 自分にいう くだらないことをいうくらいなら 黙ってしまわないか 自分にいう どこかで聞いたこと 思ってもいないこと 偉そうに口にしやがる壊れたラジオと おんなじになりたくなければどうか 黙ってしまえ 黙ると僕はいなくなる それは部屋にこもっているようなものである 誰にも知られない 誰にも気づかれない ひっそりとしていて じめじめとしていて 暗いニヒリズムのたちこめる 部屋

正直なこと

僕は、「正直さ」が最後のとりでであるような気がしている。それはいついかなるときも嘘をつかないとか、演技をしないとか、そういうことではない。ただ、「正直に話そう」と望めば、話すべき「正直なこと」を自分の中にちゃんと持っている、という意味である。 自分の中にある、他人には言えないようなこと。それらをうかつに口に出したら人から軽蔑されるかもしれない、非難されるかもしれない。しかしそれらは、他人には言えないというだけで、多くの人が少なからず頭の中に持っているようなことだったりする。それをあたかも「自分はそんなひどい・汚い考えは持っていない」かのようにふるまい隠蔽することは、最終的にその人自身を苦しめることになる。 「ひどい・汚い考え」も「きれいな考え」も全部含めた「正直なこと」を、僕は自分の中にちゃんと持っていたいと思う。自覚しておきたいと思う。話すべきときにそれを話して、他人と共有できるような「正直なこと」を、一人きりでいる時間にしっかりと用意しておきたいと思う。そういう「正直さ」だけが人と人との結びつきを作ってくれるのだと、僕は信じているからである。

快楽主義とヒューマニズム

最近、快楽主義とヒューマニズムについて考えている。カミュさんは「愛についてぼくの知るところは、ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望と優しい感情と知力の混じりあったもの、ただそれだけだ」と書いている。さて、「優しい感情」とはいったい……。 人生に目的なんてものはないし、人間や世界にも意味はない、と仮定しよう。それでも間違いなく僕たちは考えたり・感じたりする。つまり美味しいものを食べたり、寝たり、「ぼくをあるしかじかのひとに結びつけるあの欲望」を満たしたりする。本を読んだり旅行をしたりすることで、知的好奇心を満たしたりする。 だから、こういったことの総数を増やしていくこと、考え・感じることの体験を大きくしていくことが(矛盾しているようだが)人生の目的であると思い込んでみて、それらを大きくするために自らの知性を使えばよいのだ、と考えて、たいした問題はないように思われる。が、どうだろうか。(しかしこれだと結婚はなんのためにあるのか分からない、という問題が出てくる。結婚は、考え・感じることの体験を大きくしてくれるのに「効率的」ではないような気がするのである。いやな言葉を使った。) (資料?として。)『異邦人』の主人公ムルソーについて、カミュさんはこう言っている。「……母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑を宣告されるおそれがある、という意味は、お芝居をしないと、彼が暮す社会では、異邦人として扱われるよりほかはないということである。ムルソーはなぜ演技をしなかったのか、それは彼が嘘をつくことを拒否したからだ。嘘をつくという意味は、無いことをいうだけでなく、あること以上のことをいったり、感じること以上のことをいったりすることだ。しかし、生活を混乱させないために、われわれは毎日、嘘をつく。ムルソーは外面から見たところとちがって、生活を単純化させようとはしない。ムルソーは人間の屑ではない。彼は絶対と真理に対する情熱に燃え、影を残さぬ太陽を愛する人間である。彼が問題とする真理は、存在すること、感じることの真理である。それはまだ否定的ではあるが、これなくしては、自己も世界も、征服することはできないだろう……」(ところで、ホールデンも決して人間の屑ではない。)
「精神的引きこもり」という言葉を考えました。「引きこもり」と違ってちゃんと外にも出るし、場合によっては学校や職場に行って人と話したりさえするけど、「精神的には」引きこもっている人のことを言います。あるいは「精神的隠遁者」と言ってもいい。それから「精神的引きこもり」は SNS もしません。ツイッターなど、もってのほか! 僕はと言うと、「ああ、もう! 『精神的引きこもり』になってやる、ばーか!」と思うときがときどきあるくらいで、厳密には「精神的引きこもり」ではありません。でも、なんびとも百パーセントの「精神的引きこもり」にはなれないし、ゼロパーセントの「精神的引きこもり」にもなれない、その間なのである、ということを踏まえると、今の僕はわりと「精神的引きこもり」度数が高めな人間だと言えるかもしれない。

青少年の唄

少年ははつらつとしている 口から ことば 体の うごき それらすべてが率直で 隠すべきものなにひとつなく 全身がひとつの心のよう 瞳は好奇心に燃えていて じっとしていることができない 青年は黙りこくっている ひとつ 彼が黙るたび ひとつ ひそかに心を燃やす それは誰にも気づかれない ひそかに彼は燃えている ひとり静かに燃えていて いつか全身をひとつの心にするときまで それは誰にも気づかれない

「真実の自分」と「混沌」の狭間で

「自分が考えていること・感じていることはこうかもしれない、いや、ああかもしれない」とひたすら迷っているうちに、僕は、ほとんど何の意思表示も感情表現もできなくなってしまう。だから黙ってしまうし、無表情になるし、何の行動も起こせなくなるのだ。すると、他人が求めている会話のリズムや即決即断に応えることができず、ただ、そういう自分が人前に出ていることを恥じるだけになってしまう。 「自分の考えていること・感じていること」に固執するのをやめてしまって、「他人が期待していること」「その場が盛り上がること」を重視して話したり、表情を作ったり、演技したりすることは、一つの好ましいやり方だろう。そしてこれは、ほとんどの人が(意識的であれ無意識的であれ、上手であれ下手であれ)やっていることでもある。 でも僕は、そういうことをできる限りしたくないのだ。そういうことをするくらいなら、誰とも会わない方がマシだと思ってしまうくらいである。なぜなら、演技をすると寂しいからだ。また、演技をすると真実の自分というものが少しずつ埋没して、最後なくなってしまうと思うからだ。なくなってしまえば、もう二度と、真実の自分を自分の中から引きずり出して他人と接することができなくなるだろう。それは、なんだか、恐ろしいことであると僕は思う。 しかし、僕が「自分の考えていること・感じていること」に固執してこうもうまくいかない理由もだいたい分かっている。それは、実は、僕は「本当のところ」では、何も考えていないし、何も感じていないからだろう。つまり、さっき書いた「真実の自分」といったものは、埋没するしない以前に、そもそも存在しないのかもしれないということである。 それは「 人間の持つ混沌さ(自分と他人) 」で書いていることとも関係している。人間は確かにいろんなことを考え、いろんなことを感じもするが、それはどれも断片的で、統一性がないのである。それを僕は「あらゆるキャラクターを自分の中に住まわせながら、あらゆるキャラクターが次々に『個人』を乗っ取っていく状態」と表現し、さらにそこから、人間の中にあるのは「混沌」である、としている。秩序ある、「真実の自分」とも言うべき、「本当のキャラクター」といったものは、どんなに探しても見つけることができないのだ。 しかし、ここで僕は「ああ、そうか、

宇宙的孤独・異邦人

考えれば考えるほど分からなくなるということの、怖さ。「僕はどうしたいのか・どうすればいいのか」や「僕は今いったい何を感じている・考えているのか」といったことは、考えれば考えるほど、分からない。理想は、考えれば考えるほど「考えがまとまっていく(収束していく)」ことなのに、実際は、考えれば考えるほど「考えが散っていって(拡散していって)」しまうのである。 つまり、僕はひたすら「○○だけ守っていればお前は確実に幸せになれるよ」と言うところの「○○」を求めているだけなのに、その「○○」に近づくことが全然できそうにないのである。「○○主義者」になりたい。しかし、僕にはどんな主義も似合わないらしい。だから僕はいったい何を信じてこれから先を生きていけば、考えていけばよいのか、全く分からなくて途方に暮れているのだ。 一番怖いのは、自分の気持ちすら、真正面からは理解できないということだ。強がっている、「人のため」とか言いつつ本当はどこまでも「自分のため」である、嫉妬しているがそれを隠している、コンプレックスからの反動、同情を求めている、などなど。人は、自分で「そうだ」と認めたくない自分の気持ちに対して、とことん盲目的であるものだ。すると、自分の気持ちですら、なにも確かなものはないという気がしてくるのだ。 つまり僕(たち?)は、僕(たち)自身を含む世界のすべてから、裏切られているようなものである。誰のことも、何のことも、そして自分のことも、理解することはできない。人間は「混沌だけ」に投げ込まれた、ちっぽけな意識のようなもの。すべてのものから切り離されていて、誰とも何とも自分自身とも結びつくことのできない、寂しい悲しい存在。宇宙的孤独。異邦人。 いつか、誰か一人だけでもいいから、その人のことなら僕はちゃんと知っているし、その人も僕のことをちゃんと知っているという確かな関係がほしい。とりあえずそれを(仮の)人生の目標とした!(果たして、僕の中に、誰かに知ってもらうに足る何かが入っているのだろうか? 空っぽなんじゃあないの……。その反動で、空っぽであるということの反動で、こんなにたくさんの文章を書いているだけ、という可能性だってあるのだ。)