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子供みたい

とにかくこの人は ついさっき人を殺したばっかりで いまもまだ気が立っているから いまにも気が 触れてしまいそうだから 私がこの人のそばを離れるわけには いかない 外ではもうすでに大変な 騒ぎが持ち上がっていることだろう たぶん朝がきたら 警察がやってきて この家を押しあけて 暗くてこわい場所に連れて行って しまう そうしたらこの人はどうなって しまうんだろう(だって いまもなにやらぶつぶつ言ったり いきなり笑ったり ぼーっとしたり 子供みたいに笑ったり している その間もずっと涙はとまらないのだ) 私はこうやって ひたすら背中をさすってあげて 頭をなでてあげて すると 幸福そうな目をするから(まるで 死の床にある 老人みたいに優しい目をする) それをうっとり眺めている ちょっとでも私が離れると すぐにも気が触れて 叫んだり 怒鳴ったりしてしまうから 私がこの人のそばを離れるわけには いかない こうやってずっとさすってあげて なでてあげて 安心させてあげる必要がある
 福音書におけるイエスの教えでは、外見ではなく内心、形式ではなく内容、言葉と行為ではなく心がとても重視されている。イエスはこう言っている。「あなた達は(昔の人がモーセから)、〝姦淫をしてはならない〟と命じられたことを聞いたであろう。しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、(見ただけで)すでに心の中でその女を姦淫したのである」。この言葉はとても顕著な例であろう。 「どう見える(seem to be)か」と「事実どうである(be)か」との対比は、聖書に影響を受けている文学のなかにも随所に見られる。『ハムレット』では「見えるですって、母上? いや、事実です。/「見える」ことなど知るものか」、あるいは『白痴』では「こまかい心づかいや品格を教えてくれるのはその人の心で、決して踊りの先生じゃありませんよ」という具合である。このほかにも、おそらく探せばきりがないであろう。

私たちが一致するとき

 私はいまでは、自分の中にある感情と思考のどれ一つをとっても、それが私独自のものであるとは思わなくなった。私が心の中で感じることはどれも、ほかのすべての人間がすでに感じたことのあるもの、まさに感じつつあるもの、これから感じる可能性を秘めているものである。考えることについても同様である。  私たち一人ひとりが互いに異なっているのは、与えられる環境あるいは影響がそれぞれ異なっているので、異なる性質が引き出され誇張されてしまうためである。しかし、私たち人間はみな、もとをたどれば同じ場所から来ているのだと私は信じている。正しいやり方で心の準備をするのであれば、私たちは誰とでも見事に一致することができる。「世界中にいる傷ついた人びとの/心が一致しあうとき/一つの答えが見出されるだろう/『そう成りますように』」(ビートルズ「レット・イット・ビー」)。 「相手の立場に立って考える」という言葉がある。もしも私たちが、 完全に 相手の立場に立って考えることのできる、 完全な 知性と想像力をそなえているならば(それができるのは神様ただ一人だけだろうが)、いやがおうでも互いに慈悲深くならざるをえないだろう。だけど私たちはしょせん人間であり神様ではない、そこまでのことを期待するのは無理である、と言う人がいるかもしれない。それはもっともな意見である。  しかし、その考えはどうか、自分のいたらなさの言い訳に使うのではなく、他人のいたらなさを受け入れる理由として使ってほしい。そうしてこそ、言い訳ではなく心によって、自分のいたらなさをも受け入れることができるようになるのだ。互いのいたらなさを受け入れ、赦しあうことによってのみ、人びとの間にある平和、さらには一人ひとりの心の平和が生まれてくるのである。
きみがまだ若くて 心がまだ 開かれた本であった頃 よく言っていたねえ—— 生きる そして生かしてやる って…… だけど ぼくたちが生きている 変化してやまない世界が きみを挫折させ 泣かせるんであれば こう言ってやれ—— 生きる そして死なせてやる と! (ウイングス「007 死ぬのは奴らだ」)

きょうの朝のこと

きょうの朝 私の愛しい人がやってきて とっても嬉しそうにしているから どうしたの? って聞くと 大きな目を輝かせながら やっとあの人が赦してくれたんだ! って言って 思いきり私にとびついてきた よくもまあこんな時間まで って思ったし あんなやつほっとけばいいのに とも思ったけれど(だって 本当だったらこの人は何も悪くなくて むしろあっちがこの人に 謝らなければいけないんだから…… 少なくとも私の見解ではね) でも このお人好しさんが あんまり嬉しそうだから こっちまで楽しくなってきて そういったことはみんなどうでも よくなってしまった だって彼はもう ほんとに子供みたいに はしゃいでいるわけだから! ああ この人はいったい何なんだろう どうしてこんな 子供みたいで…… でもやっぱり大人なんだろう だってどうして あの人の赦しがほしいんだろう しかもちゃんとそれを持ち帰ってきて こんな はしゃいで喜ぶなんて! ほんとに変わっている…… この人に会うまでは こんな人がいるとは夢にも 思わなかった
 たいていの人は「恥をかくこと」を何にもまして恐れている。私たちが互いに仲良くできず、避けあい、恐れあっているとしたら、それは人前で恥をかくことを恐れているからである。とことん恥ずかしくて滑稽で、みんなから嘲笑を浴びるけれど、まったくそれを気にしないような人間がいるとしたら、そのまわりにこそ大勢の人びとが集まるだろう。なぜなら、みんなその人の前では恥をかく心配はないと分かっており、安心して近づくことができるからである。このような人間は、もしかしたらかっこ悪いかもしれない。しかし、ほかの誰よりも尊敬に値する人間である。このような人間の性質だけが、私たちに平和をもたらすことができるからである。それに対して、「恥をかかないこと」を第一の心配事としているような人間は、なるほど、分別(といった意味での賢さ)ならたくさん持ち合わせているかもしれない。しかしそれらは、どこまで行っても利己的である。

人間の心のはかり知れなさ

 人間の心のはかり知れなさについて考えるとき、私はいつも驚きと感動を覚えずにはいられない。他人の心についてはいまさら言うまでもないことだが、自分自身の心のはかり知れなさについても、やはり同じことが言えるのである。ためしに、過去に自分がした行動(できるだけ突飛なもの)を一つ選んで、その原因が何だったかを探ってみてほしい。おそらく、二つ以上の意図がとても複雑に絡みあっていたことに気づくはずである。  たとえば私たちは、仲直りするつもりでできるだけ穏やかに話し合いを始めたとしても、どういうわけか最終的に、とことん悪口を浴びせあう結果に終わってしまうことがある。どういった話の流れで、どういった心の動きで、自分の意図していた反対の結果になってしまうのか、いくら考えてみても理解することはできないだろう。あるいは、もはや愛しているのか憎んでいるのかも分からないような相手に、困っているときの援助の手を差し伸べることがある。援助の手を差し伸べようとするまさにその瞬間、相手をこっぴどく中傷することもできるわけだが、紙一重のところで憎しみではなく愛が発揮されるのである。  このような曖昧な心の動きにふり回されながら、私たちは互いに影響を及ぼしあって生活しているわけだが、そんな中、たとえば「あなたはなぜそんなことをする気になったの?」という質問を投げかけられることがある。いや、投げかけられなかったとしても、私たちはいつもそう質問されるんではないかとびくびくしていて、行動しながら同時にその言いわけを考えているかのようである。このような質問にはすぐに答えられるものではない! どうかじっくり考えさせてほしい、できるだけ正直に話すためにはどうしても時間が必要なのだから、と言ってしまいたくなるのである。しかも、その「じっくり考える」にしたって、日頃から考える訓練をしている者でなければ、「内省」とはどういうものかを知っている者でなければ、できない性質のものなのである。  私たちはたぶん人を殺してしまったときでも、人を殺すその最後の最後の瞬間まで、自分がまさか本当に人を殺してしまうことになるとは想像もつかないのだろう。それでいて、よくよく考えてみれば、自分はいつか人を殺してしまうであろうことに、もうずっと前から気づいていたような気さえしてくるのである。人間の心とはどういうわけか、それほどまでにわけの分か
 ドストエフスキー『白痴』の第一編(新潮文庫で四百ページほど)を読み直した。人間関係に起こるあれこれの出来事を、こんなにもスリリングに描いている小説はほかにない! のっけからアクセル全開で面白く、読者に登場人物についてのさまざまな空想をさせたところで、彼ら全員が一堂に会して常軌を逸した大騒ぎをくり広げる、といった構成になっている。しかもその大騒ぎは、第一編が終わる最後の数ページまで、加速度的にぶっとんでいくのである。私たちはただでさえ興奮しながらそれを見守っているのだが、物語はその興奮の火にますます油を注ぐかのようである(思わず目を疑ってしまうくらいに!)。ドストエフスキーの小説は思想の面で難解だと言われるけれど、この小説に限ってはそれほどでもなく、それ以上にただただひたすら楽しいものである。