福音書におけるイエスの教えでは、外見ではなく内心、形式ではなく内容、言葉と行為ではなく心がとても重視されている。イエスはこう言っている。「あなた達は(昔の人がモーセから)、〝姦淫をしてはならない〟と命じられたことを聞いたであろう。しかしわたしはあなた達に言う、情欲をもって人妻を見る者は皆、(見ただけで)すでに心の中でその女を姦淫したのである」。この言葉はとても顕著な例であろう。

「どう見える(seem to be)か」と「事実どうである(be)か」との対比は、聖書に影響を受けている文学のなかにも随所に見られる。『ハムレット』では「見えるですって、母上? いや、事実です。/「見える」ことなど知るものか」、あるいは『白痴』では「こまかい心づかいや品格を教えてくれるのはその人の心で、決して踊りの先生じゃありませんよ」という具合である。このほかにも、おそらく探せばきりがないであろう。

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