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 わたしが神さまを持ち出して何かを語るときでも、わたしは神の存在を疑う余地のない事実と見なしているわけではない。神さまが存在することの十分な証拠はこの世界のどこにもない。だが、ほんの試しに、神さまは存在すると仮定してみると、この世界の(全範囲ではないまでも)けっこう広い範囲を説明できるようになる。それ自体が驚くべきことである。たとえ神さまは存在しないとしても、神さまが存在すると仮定すれば、多くのことを説明できるようになる。
 人生はすべて運次第である。神さまは人間に対し、幸運を等しく分け与えてはくださらないので、私たちはその気まぐれに対抗し、自分たちで何らかの策を講じなければならない。神さまは互いに等しいはずの私たち人間を、等しく扱ってはくださらないので、思いつきに左右されやすい神さまの決定を修正し、私たち自身で運を分配しなおさなければ。神さまの見地からすればこの世界は公正なのかもしれないが、かもしれないことを頼みにして、何もしない自分を正当化したくはない、良心をなだめたくはない。あるいはこの良心こそ、神さまの意志なのだとすれば(そう考えてもいいが)、私はこの「運の再分配」という仕事を、神さまから委託されたのだと思うことにする(全能なんだから自分ですればいいのに)。
 自と他の隔たりからエゴが生じる。わたしが殴られるとき、わたしは痛みを感じるが、ほかの人は痛みを感じない。痛みを感じるのはわたし一人である。死も同じ。死ぬときはいつも一人である。わたしが死ぬとき誰かもまた死ぬ、ということはないし、わたしの中の一部が死に残りは生きている、ということもない。エゴの起源は、自と他のこの恐ろしい隔たりである。

私的なことに偏りすぎる「人びと」

 政治の腐敗は政治家のせいであって、私には何の責任もないのだから、国・社会という船が沈みかかっているとき、その船を修理するのは私の義務ではない、私は自分が生き延びることだけを考えてよい。——こういった態度は、政治の本質をあまりにも欠いている。というのも、選挙によって、そしてそれ以上に、私たちが常日頃なんとなくしている合意形成のやりとりによって、私たち「人びと」が政治家によって代表されていくそのプロセスにこそ、政治の本領があるからである。政治家とは「人びと」の 代表 にすぎない。したがって、政治家が腐敗するとき、それよりも先に「人びと」が腐敗していたのである。社会に問題が起こったとき、それまで自分の人生という私的な事柄への関心しかなかった「人びと」が、思い出したように政治の方を向き、政治家のていたらくを責め始める、そして今後ますます私的利益の追求に汲々としてよい理由をそこに見いだす、その責任転嫁のあり方は、およそ政治というものを理解していないとしか思えない。政治家を責めること・批判することはもちろん重要だが、それと同程度に、私的なことに偏りすぎる私たち「人びと」自身を責め・批判しなければいけない。