投稿

6月, 2020の投稿を表示しています
最近の僕は「優しさ」に固執しすぎる傾向にある。それが一番大事なことだからなのかもしれないし、あるいはそうではなくて、僕が自分の抱えている問題(何?)を克服するために、その周辺をずっとうろうろしているだけなのかもしれない。しかし当然のことながら、優しいかどうかだけによって人間の価値が量られるのではない(そもそも、人間が他の人間の価値を量ること自体が間違っているのだけど、そういう面倒くさい話はさておき)。
優しくない人とも仲良くできる方がいいに決まっているし、優しくない人にこそ親切にしなければならないが、優しくない人のことを 必要としてはいけない 。自分より優しい人たちを必要とし、自分より優しくない人たちに親切にすること。
どんな人の、どんなささいな呼びかけにも反応すること。言葉を発しなくてもよい。話すことができない人たちがするように、仕草や表情や視線を使って「あなたのことを受け容れています」という合図を送ることができる。人は街中で知らない人とぶつかったとき、相手が怖い人ではないだろうかと怯えながら、小さく「すみません」と言う。そういった人たちを安心させる振る舞いをつねに心がけなければいけない。物腰の丁寧な老人を見習うこと。相手が自分に怯えているとき、こちらはあなたを傷つけるような者ではないということを、真っ先に分かってもらわなければいけない。地上にあるすべての争い、憎しみ、人間不信は、人間どうしが互いに怯え合っていることから始まっている。いつも変わらず穏やかでいること。砂漠にあるオアシスのような存在でいること。『大工よ、屋根の梁を高く上げよ』に登場する小柄な老人から多くを学ぶことができる。
相手によって態度を変えず、すべての人に平等に接すること。自分の目の前にいる人が誰であれ、自分のことを憎んでいる人であれ、こちらはつねに思いやりを持って温かく振る舞うこと。 それらしい理由をつけて、自分のできる最大限の親切を提供することを怠るとき、人は自分のことしか考えていない。相手が自分を利する人間であるか否かを天秤にかけ、他人をはるか高みから分析し、そして見捨てているのである。そのような思考に陥っているとき、僕たちは、他の誰よりも思い上がった、救いようのない人間になり下がる。人の上に立ったような気になってはいるが、その実、人から愛される資格を持っていない。そしてそのことを無意識でこそあれ自覚しているのである。 このように、自己嫌悪というものは、他人に対する自分の不誠実から生まれるのだ。他人を愛することができる人は、自分を愛することもできるし、他人を進んで許そうとする人は、自分を許すこともできるのである。
百人の村で人殺しが一人生まれたら残りの九十九人にも責任があるんです。それなのに、ある人たちは「人殺しを罰しろ!」と叫びながら石を投げるし、他の人たちはまるで自分とはまったく関係がないかのように(くさい物に蓋をするように)見て見ぬふりをして、考えず、それを話題にするのも嫌っている始末。ふざけるなと言いたい。すべての人が少しずつでいいからまったく同じだけ反省しなきゃいけないんです。悪いニュースを耳にするたびに「これまでよりも人に優しくしよう」と心に誓わなければいけないんです。