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  昨日書いた文章 、いくつか改行を加えたり書きかえたりしたので、多少読みやすくなってます。読んでほしい〜!  また、書きながらかつて読んだことのある この文章 を思い出した。(僕の文章ではありません。)分かりやすくて面白くて大事な文章だと思うので、ぜひ。

人間のもつ混沌さ(自分と他人)

 ものを考えるためには、まず、分けなければいけない。分けて、名前をつけなければいけない。  だから「自分」というものについて考えるためには(あるいは「人間」について考えるためには)、それをいくつかのキャラクターに分けてそれらに名前をつけてから考える必要があるだろう。  すると、ひとりの人間の中には、およそ考えられないほど無数のキャラクターがあることが分かる。善や悪、惰性、偽善と偽悪、穏やかさ、過激さ、人間らしさ、あとは純粋さとか、性欲とか、それから「何だかよく分からないもの」。  場合によっては、大人と子ども、というふうに大きく二つのキャラクターに分けて、自分のことを考えることもできるだろう。  それぞれのキャラクターは、それぞれ全く異なった考え方をしている。ひとつひとつ個性が豊かで、主張が激しい。みんながみんな、自らの欲求を満たすために隙あらば「個人」を乗っ取ってやろうと企んでいる。  「個人」とは、それらのキャラクターを俯瞰して見ている自分、つまり「僕」のことである。「僕」は考えるし文章も書くから、そいつに「理性」とかいう名前をつけて(つまりキャラクター化して)今後、扱ってみてもいいかもしれない。  だから今の僕は、「理性」が「個人」を乗っ取って文章を書いているということになる。(話が分かりにくくなってきた。)  こういったあらゆるキャラクターを自分の中に住まわせながら、あらゆるキャラクターが次々に「個人」を乗っ取っていく状態でもなお、統一感のある「自分」というものを他人に提供するのはほとんど不可能だと僕には思える。  例えば、始めに僕が「優しさ」のキャラクターで人と関わりを持ったら、その人は僕を「優しさ」とともに記憶するだろう。  しかし「優しさ」は僕の持つキャラクターのひとつに過ぎない。だから僕はその人の前で「優しさ」を演じ続けることはできない。(疲れるからだ。)長く関わるためには、他のキャラクターも受け入れてもらわなければならない。  しかし他人は、特定のキャラクターを自分に期待してそれと反対のキャラクターを嫌うかもしれない。もし相手が他のキャラクターを受け入れてくれるような人であっても、こちらからはそれは分からないし、多分キャラクターを出してみなければ誰にもそれは分からない。  いざ出してみたら(もしくは、ふとしたと

個人的な体験 と それを抽象化する/しないこと 1

 人の価値観、ものの見方、「考えていること」は、その人がこれまでにしてきた「体験」に影響を受けている。  体験とは、なにかを見ること、聞くこと、人と会って話すこと、どこかに行くこと、どんな両親を持つか、生まれ育った土地、どんな学校に行ってるか、どんな生活をしているか、なんて本を読むか、なんの仕事についているか、忙しいか暇か……などといった、挙げればきりがないほどたくさんの「原因」のことだ。  これらの原因が、その人の価値観、ものの見方、「考えていること」を決定する(原因と結果)。ひっくり返せば、それらの原因が違うから人は違う価値観を持ち、違うものの見方をし、違うことを考える。つまり「違う人」(=他人)なのである。 ………  体験から得られる感情を共有することで、人と人とは「分かり合う」ことができる。  同じ体験をしていれば同じ感情が得られるため、人と人とが分かり合うことはそこまで難しいことではない。例えば、同じ職場で同じプロジェクトに参加している人どうしであれば、そのプロジェクトを遂行するにあたって感じる喜びや苦しみを分かり合うことができる。  こういった体験を「集団的な体験」と呼ぶことにする。同じ集団に属している人どうしで分かり合いたければ、集団的な体験を用いればよい。  しかし、集団的な体験に頼って人と人とが分かり合うことには、欠点や限界がある。  まず、集団的な体験に頼った「分かり合い」は集団内部でしか適用できないため、集団に属していない人たちと集団との間に高い壁を作ってしまうということ。すると、集団の中にいる人は集団の外にいる人と分かり合う可能性を潰してしまうことになる。また、自分がなんらかの理由で集団から外れたとき、誰とも分かり合うことができなくなってしまう。  そして、集団的な体験なんてものは人が体験することのごくごく一部にすぎないということ。人が持つ体験のほとんどは集団的な体験ではなく「個人的な体験」である。だから、個人的な体験を用いることなくして、人と人とが「深く分かり合う」ことはおそらくできない。  したがって、個人的な体験から得られる感情を「正しく(!)抽象化する」ことによって人と分かり合うことを考えなければならない。

元気がないときに人と会うのは

 元気がないときに人と会うのはものすごく大変だ。  今日一日東京にいて結果的に複数人にお会いしたが、始めから終わりまで精神的にいっぱいいっぱいで、話し方、仕草、表情すべてがぎこちなかった。なんとか平然とした感じを装おう(よそおおう)としたが全然ダメだったと思う。(いわんやかっこつけることをや、である。)  人と会うときは大体緊張している。人にどう見られているか、どう思われているかを気にするから。つまり自意識があるからだ。  緊張すると少し頭が混乱状態になって考えるスピードが落ち、すらすら言葉が出てこなくなる。だからいつも意図的にゆっくり話すことで言葉が詰まらないようにしている。また緊張すると顔がこわばるが、それを隠すためにむりやり平然とした表情や態度をつくっている。うまくいけば緊張や自意識が相手に見透かされずにすむ。  (度が過ぎると、とっつきにくく、なに考えてるかわかんない、無表情で冷たいといった印象を相手に与えることになるかもしれない。緊張していても愛想良くにっこり笑ったりできればそれが一番いいのかもしれないが、今のところ僕にはそれができない。訓練が必要なのかも。)  しかし元気がないときは自分の緊張や自意識を隠す余裕がなくなってしまう。だから平然とした表情や態度をキープすることができなくなり、喋りや動きのすべてがぎこちなくなる。そして顔がこわばる。ゆっくり話をしても追いつかないくらいに頭が混乱しているので、言葉を詰まらせてなにが言いたいのか分からんと思われることもしばしばだ。  今日はそういう日だった。しっかりと落ち込んでいる。  去年の秋から今年の一月くらいにかけて、僕はまともに人と会ってコミニケーションをとることをせず基本的にずっと一人きりでいた。その間も寂しさはつのる一方だったからかなり元気がなくなっており、このままではやばい、なんとかして人に会わなきゃと思って、今年の二月に東京上野にある夜学バーというところに足を運んだ。  その当時(二月から三月にかけて)は気が滅入りすぎていたので、カウンターに座って人と向かい合うだけでいっぱいいっぱいだった。ひどいときは基本的にずっと黙っていて、話しかけられたときだけごく簡単な受け答えをする程度のコミニケーションしかできていなかったと思う。  今日はその当時の自分を少し思い出すほど

意味〜

 一度考え始めたことは、とりあえずどんなことでもちゃんと考えてみることにしている。試験的に。「仮に…」から始めて。そうやってたくさんの可能性だけを頭にストックしておく。  そういう姿勢は、なにかを信じることとは反対にあるのかもしれない。なにかを信じることは、それについて都合の悪い部分に対して盲目的になることだ。都合の良い部分だけしか見ないことだ。それに対し疑うことは、すべてを見てから物事を決断しようとする姿勢である。  だけどすべてを見尽くすことはできないし、見尽くしたとしてもどれか一つを選ぶための基準があるわけでもない。いろんな可能性だけが頭に残って物知りにはなるかもしれないが、結局のところなにも決められないままになる。なにも決められなければなにも言うことはない。  だから、自分の考えたことや感じたこと、良い(もしくは悪い)と思ったことがあまり信じられなくなっていて、だから今の僕はたいした意見も思想もない状態である。なにかに批判的になることはこれから減っていくと思うし、なにかを嫌悪することもなくなっていくだろう、多分。   andymoriの「トワイライトシティー」という曲の歌詞に「別に悲しくない 消えていくわけじゃない 流動するだけだ」「あらゆることに 深い意味はない」とある。  やまない雨はないが、晴れていてもいつかは雨が降る。人類が天候を操ることはできないのと同じように、人は物事が変化することにほとんど手出しできない。雨が降るも晴れるも黙って受け入れるしかない。  われわれは、大きなもの、大きな流れの中にいて、なんの意味もない世界をただあるがまま流されるしかないのもかも。かも、だけど。(遺伝子だか輪廻だか分からんけど。)  ふてくされているわけでは全然ない。いえ〜い、物事を楽しむつもりはあるし、人と仲良くしたいとも思っている。美味しい物は食べたいし、音楽も聴く。最近は働くことにも興味がある。自炊も頑張りたいし、大学もしっかり卒業するつもりだ。  しかしそれらの原動力は期待感や希望ではない。大きいところでは物事を諦めながら、小さいところで自分のよく分からないこだわり(的なもの)に従って行うこと(行いたいと思っていること)である。諦めつつも自暴自棄にはならないようにするための自前の行動原理みたいなものを作り上げていきたい。  意味、あるの

9月の目標

 ツイッターをやらなくなってライン以外のSNSをひとつもしなくなると(たまにタイムライン眺めたりはするんだけど)、ついにこのブログのみが、僕が今どうしているか、どんな感じか、なにを考えているかを外に伝えるほとんど唯一のものになっている。  しかも最近はちょっと家にこもりがちで、つくばに帰省中の友達一人を除けばほとんど誰とも会っていない。  僕はなんやかんや大学生になってから孤立しやすい人間になってしまって、加えてもともとだらしなくて怠惰だから、一日誰とも会わず散らかった部屋で不規則な生活を送る、みたいな日が増えた。そんな日は自分がまともな人間じゃないような気がして、社会からドロップアウトしたような感覚になってしまう。それは結構辛い。  孤立しやすい人間であること自体はそこまで悪くない。しかし誰とも会わない日があっても自分がまともな人間であるという感覚はほしい。だから規則正しい生活、部屋をきれいに保つこと、自炊……といった、まともな人間にありがちなまともな生活を手に入れようぜ、というのが今月の目標である。  ということで、つくばに帰省中の友達(ふだんは京都で一人暮らし)に手伝ってもらって、部屋の片付けから簡単な料理まで、生活のしかたをざっと教えてもらった。(部屋の片付け教わるって、なんやねん。)さらに一日のざっくりとした予定表も作成してもらった。以下の通り。 6:00 起床 6:10~7:10 ジョギング 7:15~7:30 シャワー 7:40~8:00 料理 8:00~8:15 朝食 8:20~8:30 洗い物・お米のセット 8:30~9:00 準備(家の片付けはここで済ませる) 9:00~12:00 何か 12:00~12:40 料理 12:45~13:20 昼食 13:25~13:40 洗い物 14:00~17:00 何か 17:00~18:00 休憩(買い物もここ)(洗濯もあるならこの辺かな) 18:00~19:00 料理(多めに作って翌日の朝に回せるとよい) 19:00~19:30 夕食(一緒にプリキュアを見ると良い) 19:30~20:00 洗い物 20:00~21:00 何か(液晶を見る系のはなるべくここで済ませるとよい) 21:00~21:20 シャワ

パターナリズム

 できるだけ親と、まあまあ建設的に(?)、仲良くやっていこうとしていたんだけど、昨日今日でやっぱり分かり合えそうにないことを思い知らされて、どうしようもなくて、家で一人で腕時計を床に叩き壊したり発泡スチロールを粉砕したりしてしまった。普段なら絶対にそんなことしないんだけど、もうどうすればいいか分からなくてどうしようもなかった。  親とは(特に父親)どんなに言葉を尽くして自分の思うことや考えていることを説明しても意味がないと分かったとき、ぐっと堪えて黙るしかない。それは、おれがだいぶ変わった考えを持っているからかもしれないけど、それはおれにはどうしようもない。もちろん親にもどうしようもない。誰にもどうしようもない。  誰かを悪く言うことはできないし、意味がないし、関係をぐちゃぐちゃにするだけだ。だから黙るし耐えるんだけど、せめてもう話しかけないでほしい。少なくとも、心が落ち着くまでは家族の誰とも話をしたくないし、誰の顔も見たくない。  こういうどうしようもなさ、怒りのやり場のなさ、やるせなさに昨日一人で憤って、それで物にあたってしまった。そして泣いてしまった。おれはいつかちゃんと安らぎを得ることができるのだろうか?

自意識について(再び)

 僕は、なにかを好きだとダサいとか、なにかを好きだとダサいとか言ってる奴らこそダサいとか、そういうことをたくさん喋ったり考えたりしたあげく、頭がパンクしてしまった。  どうにかこういう煩わしさを回避できないだろうかとあれこれ考えた結果、ひとまず黙ってしまうことにした。(それが賢明かどうかはさておき…。)  なにを好きだとか、なにを目指してるとか、どんな地位にいるかとか、どんな思想を持っているだとか、そういったことを表明することによって、空っぽな自分を“味付け”してるみたいな気分になりたくはない。あいつは空っぽな自分を“味付け”してるんだな、と思われたくもない。  それから、なにを好きだとか、どんな思想を持っているかとかで、自分の印象を下げてしまうことがある。嫌悪を持たれることがある。実際これまで僕も、そういう理由から他者に嫌悪を持ったことがある。  が、できる限りこれからはそういうことを一切やめにしてしまいたい。だから僕はなにも表明しないし、誰かがなにかを表明してもできるだけフラットな気持ちでいるよう、努めることにする。 ………  僕は、自分の発言によって(意図せず)他者の自意識を膨らませることがこれまでにたくさんあったのではないかな、という反省をしている。  それと同時に、あれこれ発言することで自分の自意識も膨らんでいって(発言は評価されるわけだから)、自分をものすごく疲れさせてしまうことも分かった。  だからこれからはたくさん黙ろうと思ったのだ。自分の思ってることや考えてることは、それほど表に出す必要はない。しかし、それでもちゃんとなにかを思ったり考えたりすることができるのであれば、という条件つきで。  (思ってることや考えてることを表に出すことなく、なにかを思ったり考えたりするためにはそれなりの訓練が必要なのである。だからブログには書いてるわけです。でもツイッターでは黙ろうと思った。人前ではこれまでもそんなにたくさんは喋らなかったからいいんだけど。)  自意識を抱えながら、同じように自意識を抱えてる人となにかが分かり合えればいいんだけど、その人からもどう思われるか考えなきゃいけないし、その人に対してもなにかを思ったりしてしまうから、やはり人と人とが仲良くなることは(僕にとっては)とてつもなく難しい。(こういう文章を書いてること自体が

「大きなもの」・人は弱くてもろい

 人は誰でも、「大きなもの(システム、社会、組織)」の前では、弱い。どんなに力の強い者も、お金持ちも、独裁者も、その人ひとりだけを取り上げれてみれば、とことん弱い。だから人は組織する。一人のままでは必ず負けてしまうからだ。  組織するためには、それなりの形式が必要になる。名前が必要になる。旗が必要になる。ルールが必要になる。スローガンが必要になる。  しかし、そうやってできあがった人の集まりはいずれ、とても硬直的で、画一的で、体制的で、想像力の入り込む余地のない「大きなもの」となり果てる。「大きなもの」は人間ではないが、それ自体で意志を持ち人々を従わせるようになる。  最初は一人ひとりの意志の集まりであったものが、だんだんと「大きなもの」の意志に従う人々の集まりになっていくのだ。「大きなもの」の意志に従う人々は、空っぽで、想像力の欠落した、考えることをやめた、うつろな人間である。  国家も「大きなもの」だし、国家を打倒するべく組織されたものもやがて「大きなもの」となってしまう。腐敗した「大きなもの」に勝つために組織した「大きなもの」もやがては腐敗するのだ。だから学生運動の結末は学生と学生の殺し合いだった。体制側はもちろん体制的だが、反体制側もりっぱに体制的なのである。  また、一部の子どもにとって、学校は耐えがたいものである。それは、学校が「大きなもの」であり、先生が「大きなもの」の一部になることを自分に強要しているように見えるからだ。一部の先生は、考えることをやめた想像力のない人間である。彼らは子どもに対して(というより誰に対しても)不誠実である。  人が人を傷つけるとき、殴るとき、殺すとき、傷つけられた(殴られた、殺された)人は被害者であり、傷つけた(殴った、殺した)人は加害者である。  しかし必ず、その背後には「大きなもの」の意志がある。傷つけた人は「大きなもの」の意志に従っているだけであり、なぜ「大きなもの」の意志に従っているかと言えば、一人のままでは弱くて負けてしまうからだ。その点で、傷つけた人も実のところ被害者であり、「大きなもの」が加害者である。  つまり、傷つけられた人と傷つけた人、ともに「大きなもの」の被害者なのである。一人の人間が悪いということはあり得ない。正確に言えば、誰も何も悪くはない。  戦時中の兵士は敵を殺すが、

便利屋を始めました

 便利屋を始めた。始めたと言っても、まだツイッターアカウントを作っただけで、依頼も来てないし何もしていない。これからビラをまくつもり。筑波大生を主な対象としている。これまでほとんど関わりを持ってこなかったし、積極的に関わろうともしなかった筑波大生(というか大学生)を相手に、なんとか頑張ってみようと思ったのだ。うまくいけば、筑波大学(そして、つくば)を自分にとって楽しい場所にできるかもしれない。つくばに住んでるんだから、つくばを頑張らなきゃいけない。ここ半年間、東京に頻繁に足を運んでいたのは、そのための準備期間(賢くなるための期間)だったとも言える。  賢い。一見すると冷たく、人を緊張させもするが誰かを傷つけることは(力の及ぶ限り)しない。控えめで欲がなく、ほとんど自意識が感じられない。公私混同は、本当に必要かつ安全なときにしかやらない。今のところ、そういう感じの便利屋を目指している。  便利屋として活動するときは、徹底的に便利屋としての顔しか見せないつもりだ。だから、これから依頼を通して関わる人の中で、僕が何を考えているのかを理解できる人はほとんどいないだろう。そういうとき、こいつ何考えてるか分かんないけどまあいいや、というパターンと、こいつが何考えてるのか気になる、というパターンの二種類の人間に出くわすだろう。前者の人たちとは縁がありませんでしたということになる。後者のように、僕が何を考えているか分からないことによって、逆に、僕に好奇心を持ってくれる人がいるとき(少ないとは思うが)、最も頭を働かせなければいけない。あくまで便利屋であるから、ほとんどすべては成り行きに任せる。  「ロング・グッドバイ」という有名な推理小説の主人公、フィリップ・マーロウを参考にしたい。彼は私立探偵だが、個人でやっていることや依頼を受けてから仕事が始まることは便利屋と同じである。彼ほどクールな演出は必要ないが、学ぶべきところは多い。彼は、自意識や自分の欲求をどこかに置いてけぼりにして、あくまでも私立探偵、そしてあくまでも「正しさ」に忠実に行動をする。そして賢い。  格好は、基本的には普段通り(キャップをかぶってtシャツを着てジーンズを履く)感じでやっていく。車(黄色いフィット)も必要があれば使う。その他のことは、活動しながら決めていく。