人間のもつ混沌さ(自分と他人)

 ものを考えるためには、まず、分けなければいけない。分けて、名前をつけなければいけない。
 だから「自分」というものについて考えるためには(あるいは「人間」について考えるためには)、それをいくつかのキャラクターに分けてそれらに名前をつけてから考える必要があるだろう。

 すると、ひとりの人間の中には、およそ考えられないほど無数のキャラクターがあることが分かる。善や悪、惰性、偽善と偽悪、穏やかさ、過激さ、人間らしさ、あとは純粋さとか、性欲とか、それから「何だかよく分からないもの」。
 場合によっては、大人と子ども、というふうに大きく二つのキャラクターに分けて、自分のことを考えることもできるだろう。

 それぞれのキャラクターは、それぞれ全く異なった考え方をしている。ひとつひとつ個性が豊かで、主張が激しい。みんながみんな、自らの欲求を満たすために隙あらば「個人」を乗っ取ってやろうと企んでいる。
 「個人」とは、それらのキャラクターを俯瞰して見ている自分、つまり「僕」のことである。「僕」は考えるし文章も書くから、そいつに「理性」とかいう名前をつけて(つまりキャラクター化して)今後、扱ってみてもいいかもしれない。
 だから今の僕は、「理性」が「個人」を乗っ取って文章を書いているということになる。(話が分かりにくくなってきた。)




 こういったあらゆるキャラクターを自分の中に住まわせながら、あらゆるキャラクターが次々に「個人」を乗っ取っていく状態でもなお、統一感のある「自分」というものを他人に提供するのはほとんど不可能だと僕には思える。

 例えば、始めに僕が「優しさ」のキャラクターで人と関わりを持ったら、その人は僕を「優しさ」とともに記憶するだろう。
 しかし「優しさ」は僕の持つキャラクターのひとつに過ぎない。だから僕はその人の前で「優しさ」を演じ続けることはできない。(疲れるからだ。)長く関わるためには、他のキャラクターも受け入れてもらわなければならない。

 しかし他人は、特定のキャラクターを自分に期待してそれと反対のキャラクターを嫌うかもしれない。もし相手が他のキャラクターを受け入れてくれるような人であっても、こちらからはそれは分からないし、多分キャラクターを出してみなければ誰にもそれは分からない。
 いざ出してみたら(もしくは、ふとしたときに出てしまったら)不快に思われて、それで関係はおしまいになるということだってある。そういうときはすぱっと関係を諦めてしまうしかない。




 他人が期待する自分と、自分の中にある無数のキャラクターとの間で板挟みになるとき、人は不安定になる。自分の思うことや考えることには一貫性がなく、自分について自分でもよく分からなくなったりもする。
 でもとにかくそれは仕方のないことだから、気まぐれだろうが混乱したままであろうが、そのまま進んでいくしかやり方はない。怖がっていても始まらないのだ。(しかし、できるだけ人を傷つけないように。)

 それと同時に、他人の見せるあらゆるキャラクターに(戸惑いつつも)嫌悪することなく、幻滅することなく、できるだけ受け入れようとし、そしてそれを積極的に楽しもうとするような寛容さも学ばなければいけない。
 相手のことを「善」であると信じたり「悪」であると決めつけたりすることに意味はないのだ。ひとりの人間が「善」であるかどうかは問題ではない。人は誰でも、善も人間らしさも悪も惰性も「何だかよく分からないもの」もなにもかも全部乗っけて、人間を(栄光の軽トラックを)やっている。
 だから、僕たちが人と接するときいつも相手にしているのは混沌なのである。そしてもちろん自分も混沌だ。混沌と混沌が意志疎通をするのである。

 もちろん他人のそれを受け入れられないときはあって、そういうときは関係を切ってしまう。逆に、相手から関係を切られてしまうことだってある。
 しかし人間関係において、そういった「方向性の違い」が起こってしまうのは本当に仕方がないことなのだ。そこをすりあわせることができないのであれば、さっきも書いたようにすぱっと関係を諦めてしまうしか方法はない。
 僕たちはそういう覚悟とともに他人と関わる必要があるのである。