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 どういうわけかふと怖くなって、自分はいますぐにでも学生相談室かなんかにかけ込んだ方がいい、それくらい重症かもしれない、と思うことがある。どんなに一人が好きであっても、一人で大丈夫だとしても、友達と会って話をすることをおこたるべきではない。自分よりもまともで、人付き合いに問題を抱えていない友達と会って話をすることは、一人であれこれ考えているうちにおかしくなっている頭に現実感をもたらしてくれる。  私が思うに、「孤立していること」の怖いところは、さみしさよりもむしろ、何が現実であるかを他者と共有できないことである。目に見えているもの、心に浮かんでいることの確かさに自信を持てないことである。たとえば何かがうまくいきかけているとする、しかしその次の瞬間には、みんなに嘲笑され、軽蔑され、自分は騙されているだけだったことを思い知る(じっさいは誰も騙そうなどとは思っていないのだが)、それと似たような恐怖がつきまとっているのである。
 何かに失敗したり悩んだりしている人に向かって(まさに面と向かって)、あなたの「ものの見方」のせいでそうなったのだ、人生に対する向き合い方がはなから間違っていたのだ、とはっきり言い渡すことほど残忍なことはほかにない(いったいなぜ、そうでなくてもすでに苦しんでいる人間を、それ以上責めなくてはならないのか?)。これは人間のもっとも繊細な部分に土足でずかずかと入りこむことであり、人間がそのおかげでばらばらにならないでいられる当のものを壊すことである。すでに尊敬を得ている人間がこれをすれば、他人を自分なしでは生きていけないように作り変えることができる。そのような人たちは、自分と自分の意見と自分の好きなものを押しつけることによって、弱い者に「改宗」を強いる、カウンセラーのふりをしているがじっさいは単なる病人である。他人を自分の意志のなかにゆっくりと引きずりこみ、その泥沼のなかで身動きをとれなくさせるのである(もしかしたら私は言いすぎているかもしれない)。

内なる生活

ここは内なる生活です すべてを決めている場所です さあいすに座って お茶を用意してあります 怒鳴らず静かに話してください できれば敬語で ここでお行儀よくすることが 一番大切です どうやら嵐がきているらしい ここは安全ですから落ち着いて ろうそくを灯します 決して吹いてはいけません ここに明かりがないとしたら 外はずっと嵐のままです ここでは正直に話してください ゆっくり考えながらで かまいません とても難しいことですから 練習してやっと身につくことです ここは内なる生活です すべてを決めている場所です ちりの一つひとつにいたるまで あらゆる人とものとこと すべてを
 心の動きははかり知れない。感じることはおろか、考えることすらもそうである。いまこの瞬間には気分は晴ればれとしていて、なにもかも赦すことができる(きっと赦してもくれるはずだ)、そしてすべてを愛することができる、という情熱を心のうちに感じているとしても、それを口に出して宣言できるほどの勇気はない。明日になればまったく変わっているかもしれないからである。この心の動きは間違いなく私のものだけれど、それを決めているのは私ではないのだ。こういう心でありたい、ということに迷いはないけれど、そのような理想とはべつに、現実としての心の動きがある。目で見えるこの世界の現実ともまたちがう、私たち一人ひとりが対峙している心の現実というものがある。きれいな心でいるためにはさまざまな条件が必要で、その条件の数だけ人は未熟であると言うことができる。
この地上にだれか一人でも 苦しんでいる者がいるかぎり それを思いだすたび いつでも僕はおしゃべりを中断して ただひたすら黙って 静かにしていなければならない 媚びへつらいと自画自讃 かげ口も愚痴もけんかもやめて 派手ばでしい浮かれ騒ぎをあとにして 喪服を着なければならない そのとき僕はうつむいて 恥ずかしさに呼吸もできなくなる 目がくらみそうになる
 自分の美点や他人の欠点について、あれこれ考えたりつべこべ言ったりすることは、ひかえた方がいいだろう。たとえするとしても、そのような判断はどれもあまり当てにならないことを強く心にとめておくべきである。なぜなら私たちは、自分自身とは死ぬまでつき合っていくしかないわけで、そのかけがえのない自分が他人より劣っているかもしれないという事実にはどうも耐えられない! そうした内心の葛藤から、自分の(そして他人の)イメージを勝手に作り変えてしまうことがあるからである。いや、ことがある、と言うだけでは足りないかもしれない。この点についての「公平な判断」などまったくありえない、とさえ言うことができる。だれもだれかの裁判官になる資格を持っていないのであり、判断はいつも保留にしておかなければならないのだ。  したがって、そのような思考のあれこれ(私はこうだけど、あの人はああである)は、ほとんど当てにならないと考えていい。そして、さらにそれだけではなく、私は次のことを信じきっている。すべての人間があれこれの点では違っていても、 その本質においては まったく同じなのであり、だれ一人として例外はないということ、これである。なぜならどんな人間も、条件がそろえば「ほかのだれか」でありえたはずだし、しかもそれを決めたのは当人ではないのだから。私が私であることに理由はないのであり、私がなにを感じなにを考えるかすらそうなのであり、すべてはサイコロによって決められたようなものなのだから。「サイコロをふり直して、今度は違う目が出れば、ミス・キルマンのことが好きになることだってあるかもしれない!」のだから。

会話

どうされましたか? もう、うんざりなんです あなたは苦しんでもいる? ええとても それで、すでにあるおきてを  蹴っとばしてやりたいと思っているんですね そうです 新しいおきてをつくるのですか? その必要があるでしょう だれがそれをつくるのですか? 私がするしかないでしょう なるほど、それで……  あなたはだれなのですか? 私は自分です それだけですか? みんなでもあると思います それなら、お金持ちも含まれますか? それは含まれません 人殺しは含まれますか? 含まれません 役人は? 含まれません 異教人は? 含まれません だれが含まれるのでしょうか おそらく、それは  あとで私が決めることになるかと この私は含まれるのでしょうか それは分かりません  が、たぶん含まれないと思います では、私はどこに行けばいいのでしょうか…… それは自分で考えてもらうしか…… まあいいでしょう(書類にはんこをおす)  ひとまず、やってみてください ありがとうございます
 だれと仲良くするかを決めること、だれを助ける代わりにだれを見捨てるかを考えること、私たちが「人を選ぶ」ということ、これらはすべてまったく褒められたことではない。自分の欲求をおし通すため、こういったことは美徳であると言いくるめるさまざまな説明が、世間にあふれてはいるけれど、それらは自分の良心が痛まないようにする工夫でしかない。いつどこでどんな人が自分の目の前に現れるかは分からない。私たちは心の中にどんな人のための場所も用意しておく必要があるだろう(あるいは、せめてその努力くらいは)。