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7月, 2021の投稿を表示しています

誰もが子供である

 心をすっかり明るくして、正しい見方で世界を眺めるのであれば、私たちはどんな他人の心の中にも、かわいい無垢な子供の姿を見出すことができるものである。誰もが子供みたいにはしゃいでいたり、あっけらかんとしていたり、あるいはちょっとだけ怯えて内向的であったり、それでいて何か期待するような眼差しを向けていたりするものである。私たちがそのことに気づかないのは、私たち自身が未熟であるとか、余裕がないとかのせいなのである。この私自身、他人の心の機微に注意を払わず、自分の意識ばかりに気を取られているせいで、どれほどたくさんの可能性をどぶに捨ててしまったことだろう! 私たちは正しい心の準備さえあれば誰とでも意気投合できるのである。もちろんこれは綺麗事には違いないけれど、それでもどこか単なる綺麗事として片付けることのできない、一片の真理が含まれているように私は思う。

鳴らせ明るく

ああうん この憂鬱にもけりを つけなきゃあね 心をくるくるっと ひっくり返して きれいに蝶結びする 鏡は見ちゃおれん でもマスクあるから 気にするな 太陽あるうち外に出る 心のずっと奥の方 忘れられた小さな箱 遠い遠い記憶の庭園 ほのかな灯火 ふっと見えなくなる 底の底から どっかと揺るがせ 巨大な陽気な豪快な 鳴らせ明るく 光らせ そうそれでいい 結局ここにはまだ何か あるのだからな なんとか生きていたい 生きて生きていたい なんという真実の声 だろう! それはもう強引で うるさいくらい

その心臓

自分の足で立つこと やめてしまえ その心臓 誰かにくれてしまえ 通りすがりの誰かに 丸ごとくれてしまえ 孤立の果ての 魔物にくれてしまうよか まし からからと 笑い吹き飛ばす男たち ロシアの馬が通る 大地の力は 身体を燃やして
 勇敢に積極的に人間関係の中へ入っていくことは、ときにとても難しい。人間関係とは網の目みたいに複雑なものである。その中では何が起こるか予想がつかない、起こったことの責任を自分が取れるかも分からない、そして何より心に傷を負うかもしれないのが怖い……などということを考えているので、あまり大胆な行動が取れないのである。誰かを傷つけてしまったとき、僕はその責任を取れるのだろうか? また、自分が傷つくことを恐れている。それはどんなに心を奮い立たせようとしても、いざというときには役に立たず、僕はこんなにも臆病な人間なのか! と驚愕するほどである。あれこれ逡巡するだけで行動できなくなっているのである。  それというのもすべて、起こったことをそれが何であれ受け入れ、巻き込まれたなら進んで迎え入れ、関わる人たちみんなを心から歓迎するだけの「全体的な愛」が僕には欠けているからである。だいたい傷つくことがなんだろう、恥をかくこと、滑稽になることがなんだろう? 愛することによってしか愛することを学ぶことはできないと言うのに、それを学ばないまま大人になっていいものだろうか。ああそれにしても、ポール・マッカートニーの曲はなんと愛に満ち溢れていることか。「レット・イット・ビー」とか「ヘイ・ジュード」とか、なんと暖かくて力強くてシンプルなメッセージが含まれていることか。自分の未熟さがよく分かるのである。
 ビートルズの「 ビコーズ 」という曲は、どこか空恐ろしいけど、本当に純粋に美しい曲。ビートルズには、どうしてこんな曲もあるんだろう? といつも不思議に思う。これを聴いたときには、まとまったイメージを抱くことができない。嬉しいのか悲しいのか、安らかなのか恐ろしいのか、暖かいのか冷たいのか、明るいのか暗いのかよく分からない。ああ本当にどうしてこんな曲があるんだろう……といつも思う。どうしてこんな曲があるんだろう? 「ビコーズ」をビートルズの代表曲に挙げることはできないかもしれない、しかし、もしかしたらこれは一番の傑作かもしれないぞと思わせる何かがある。

わたしは心に決めた

わたしは心に決めた もう決して自分の心の内 もっともナイーブで センチメンタルで 大切な わたしの肉体の一部分を 切り取って誰かに 見せたりはしない お悩み相談 身の上話 くそくらえよ ハードボイルドになれ 家族にも友人にも わたしはいっさい何一つ 打ち明けないぞと そのせいで 一人くたばるんなら それで結構 ああでもどうして こうなったんだろう? どこで踏み外したのか かなしくない さびしくないけどでも いつか何もかもわたしが 間違っていたと それで一からすべて やり直さなきゃいけなくなる そういう大きな一撃が わたしを見舞って その時こそ本当の幸せ 純粋な喜びが わたしの体を包むのか そして自由になる…… ああその時まで 耐えていられるだろうか でもとにかくいま わたしは心に決めた お悩み相談 身の上話 くそくらえよ ハードボイルドになれ わたしは心に決めたのだ

その日その時

無数の小さな水の流れ あっちこっち散々な方向 丁寧に辿っていけば すべてが一つの 大きな川へと繋がっている その日その時 すべてがあるべき場所に パズルが完成するみたい きっとそう成りますよう 時々自信がなくなって ささやいている声 お前の心の中を覗いてみろ ほらこんなに疑わしい ああいつか何もかも それで良かったのだと 言える日が来るでしょうか 永遠という時を経て 平行線の二本が交わる場所 もの人みなが然りと叫ぶ パーティーの準備 料理を運ぶのにも手が ぶるぶる震えるわたしでも お役に立てることが あるでしょうか

暗闇の中を

白い蛍光灯の部屋 眩しくって つぶった目は 心の奥へと向けられる 私は暗闇になる うごめく魂 ふらふら彷徨って もう苦しくって 息もできない気がする そこで私は見る 大きな舞台の影に 一人 放り出される赤ん坊の影 影の影を眺めている たゆたう雲と雨と風 太陽はいつやって来る おおらかな海の青 桃色の春のにおいはどこ ここは暗闇 私は影を見ているだけの影ふと 灯台がぐるぐる回っている のが見えた あと少しこっちにそう ほんの少しだけ時間を ください すうっと灯火 一筋の光 ささやかに ぱあっと目が覚める 白い蛍光灯の部屋 なんということ そうね外はとても明るい 私は生き延びたのだ
汚れた傷を洗い流して 見上げた空に手を伸ばしてみた 綺麗になりたくて もがけばもがくほど この手も足も 獣臭くて嫌になるんだ いつもそうだよ 風も嵐も夢も涙も金も痛みも恋も明日も 恥も誇りも聖者も影も愛も轍もたゆたう世でも あの子をなぐさめるひとかけらの光 (AL「ハートの破り方」)

悲しみの道化

ぼくの頭の上にはな 大きなアンテナが 張ってあってな 耳に心地よい美しい台詞 読んで胸打つ力強い言葉 拾ってきては 空っぽの思想に履かせ その時々の目障りな やつら目がけて発射するのさ 神の名もみだりに唱えるよ! 自己矛盾もお手のもの 神秘は逆説の中にあり 嘘をつくこと 知ったかぶること 思い出の改ざん どれも癖になっちまってさ 何が本当かも分からなんや 本当の人格も 心も 私もなくなって もう止められないんだ 口が勝手に喋るんだな あはは 子供の時から自分を守るため そうしてたんだものな それがいまじゃ弱い者の 意志を食らって生きる道 いまさら引き返せないんだな つらいなあ

心を開いて!

すっかり心を 開いてしまうべきだ 心の中の複雑さ煩雑さ混乱 すべてをひっくるめ おのれのあらゆる人格を 整理してすべて説明 恋も愛も憎しみも 正直さはいつも最善の道 しかしそれは 不可能だということもまた よおく分かっている 雑多な感情 よくもまあ雨嵐 同時に降ってくるものだ! この本を開いたら最後 判決が待っている よしよろしあしわろし 相手の微細な反応 一つ一つ思い浮かべる どうしておれが 下手に出てさあ 心を開示せにゃならん? こいつにその 値打がある? この関係どうする 捨てちまうか ああまたそうすんのか お前はよお どこからか拳銃 取り出して 自分の頭に かち ずどん!

自己正当化の誘惑(日ごろの思考)

 ものを考えるさいの姿勢には、二種類ある。一つは、公平にすべてを考慮に入れて吟味する、 真理 (という言葉は大仰な響きだけれど)に仕える姿勢、もう一つは、自分を正当化するため、「自分にまつわるものは正しいが、それ以外のものはどこか間違っている」と言ってのける、 自己 に仕える姿勢である。たとえば哲学者が、哲学を擁護したり称賛したりするのはある意味当たり前で、たとえそれがもっともらしい理屈によって導かれているとしても、どこか不誠実な部分があるのではないかという疑念は残る。それは先の二つ目の姿勢、自己正当化の欲求を満たそうとする姿勢が含まれているのではないか、という疑念である(かの偉大な哲学者プラトンが導き出した結論を考えてもみよ!)。もっとも、哲学者よりも言葉を用いるのが下手くそな私たちが、そんな疑念を差し挟んだところで、簡単に言いくるめられてしまうのがおちだけれど。  また当然、これは哲学者に限った話ではなくて、すべての人間がものを考えるさいに頭の中で起こってしまうことでもある。どんなに意識して取り除こうとしても、どうしたって避けられない、それほどこの「自己正当化の誘惑」は大きい。私自身とて、口が裂けても「私は自分を正当化することなく、正しい道のりでものを考えている」などと言うことはできない。もし誰かに「あなたがそんなことを言うのは、あなた自身のため、あなた自身の立場を大きくしたいからにすぎない」などと言われたら、私は「一番の泣きどころを突いてきましたね。図星ですよ! 私としては十分気をつけているのですが、それでも足りないようです。私の頭の中でじっさい何が進行しているか、それは私自身にも分かりません」としか答えられないだろう(もっとも、私はこう見えて、本当に気をつけているのである。できる限りの努力はしているつもりだ……)。

心の中での暴言/善悪の知恵の実

 たとえ心の中でさえ、死ねとか殺すとか言っていいわけがない。それも子供がその時の勢いで言ってしまうとかならまだしも、いい大人が? 私は思うのだけど、大人は子供とはまったく違う生き物であり、何が違うのかというと、大人は善悪を考える能力があるのである。それゆえ、どんなに大人が「私は子供だ」と言い張っても、大人は不純である(ここら辺の説明は難しいのだけど)。だから子供には許されることも、大人には許されない。大人は善悪を素通りして好き勝手やることはできない。とはいえ、心の中でさえ死ねとか殺すとか言ってはいけないと私が思うのは、もちろん私の主観的な判断である。だからそんな綺麗事を言うと、「ああこいつとは分かり合えないな」と思う人が出てきそうだが、しかし……では一体、彼らは誰となら分かり合えると思っているのだろう? まさか心の中で死ねとか殺すとか言う人たち同士で、分かり合うつもりではあるまい? それとも、そんなことが可能だとでも思っているのだろうか。いいや分かり合うことは求めていないと主張するにせよ、では心の中で死ねとか殺すとか言う人たちが、互いを受け入れることができるとでも? あるいは、たった一人きりで生きて死んでいくつもりなのか。 ……などなど、好き勝手書き散らかしたところで、白状しなければならないことがある。よくよく反省すればこの私自身、心の中で死ねとか殺すとか一切言ってません、と断言することはできないのである。つまりそれくらい性格の悪い瞬間が私にはあるのである。ああ!
 体の明りはあなたの目である。目が澄んでいる間は、体全体も明るいが、悪いとなると、体も暗い。だから、あなたの内の光(である目、すなわち心)が暗くならぬように注意せよ。もし体全体が明るくてすこしも暗い部分がなければ、明りがその輝きであなたを照らしている時のように、すべてが明るいであろう。 (『ルカ福音書』11・34-36)  私はこの箇所がとても気に入っています。肉体的な目と対応して、心は精神的な目であるとされます(福音書に登場する「目の見えない人」はみな、精神的な意味においてだと解釈されるのが一般的)。内にある心が明るければ、おのずから体全体は照らされ、その光は外にまで溢れてくる。ゆえに、態度ふるまい言葉よりも先ず、心にこそ気を配っていなくてはならない。「隠れているものであらわにならぬものはなく、隠されているもので(人に)知られず、また現われないものもないからである」(『ルカ』8・17)とも、きれいに対応しています。
 ここ数ヶ月が一番楽しい気持ちで文章を書いている気がする。自分の文章を読んでうっとりするみたいな感覚には、どことなく間違ったものが含まれていると私は思うが、とはいえ、漠然と心の中にある書きたいものを心の中にある美的基準を満たしつつ記述することができたときには、やはり嬉しい気持ちになる。誰かに読んでもらいたいと思うことはある。でもどうして読んでもらいたいのか。褒めてもらうため、注目されるために読んでもらいたいとしたらいかがわしい(何も書いていないようなものである)。読んでもらうことで読んだ人に得るものがあるかもしれない、などと言い立てるとしたら自惚れもはなはだしい(じっさいそういうことがあるならそんなに嬉しいことはないけれど!)。もっとも、こういったことをいちいち指摘していくとしたら、最終的に「喋んな、お前は修道院にでも入ってろ!」ということになりそうである。

ある男の心境

あはは  してみるとお前の心の中にも おれの居場所はないらしいな なぜって このおれの心が おれ自身の居場所だけで 精一杯だからだ 誰のことも受け入れないよ まあいい それでもお互い干渉せずとも やっていけるさ 地球は別にそこまで狭くないし いざとなりゃ 公園にだって暮らせるさ 刑務所にだってね その時こそ本当に 神様がその気になって おれの心の扉を叩くかも しれないし ハントの絵みたいにね あはは だけどいまは分からんよ それに分かりたくもないのだ 行ける所まで行くだけさ いっそ地獄までな
神の手の中にあるのなら その時々にできることは 宇宙の中で良いことを決意するくらい (小沢健二「流動体について」)  なんと力強い逆説だろう!

心のどこかにある〈理想〉/「ギュゲスの指輪」問題

 私たちは各々心のどこかに、「私は(あるいは人間は)かくあるべきだ」という一つの理想を持っている。もっとも、その理想を言語化することは難しい。というか、たいていの場合、そんなことはできないのだけど。それでも、そういった〈理想〉は心のどこかにあって、私たちは各々それを信じているのである。たとえば、私たちが「人を殺してはいけない」「友人を裏切ってはいけない」などと思うとき、それらは〈理想〉から導かれる信念である。あるいは「人を殺すべきだ」「殺してもいい」というのもまた、その人の〈理想〉に適った信念である。この〈理想〉という考え方は、まあ理にかなっているのではないかと私は思う。  プラトンの『国家』に「ギュゲスの指輪」という有名な思考実験がある。もし不正をしても絶対にばれない能力(指輪)を持っているとしたら、どんなに正しい人であっても、欲望を優先してしまい、悪いことだと分かっていながらも不正することをいとわない、それが人間の本性である、と。これは「ギュゲスの指輪」という思考実験を通して、グラウコン(プラトンの兄)が主張したことである。この主張は、倫理のもっとも痛いところを突いている。正しいことは何であるか、善とは何であるか、そんなことが分かったところで役には立たぬ、外的な強制力がなければどうせ人間は欲望のままに行動してしまうのだから。これに反論することは容易ではない。  しかし、人間はじっさい、内的な強制力も持っているのではないだろうか。少なくとも私の実感ではそう思われる。たとえば、私たちは人を殺してしまったとき、きっとひどく憂鬱な気分になるだろう。これは「逮捕されたらどうしよう」とか「人から非難されたくない」という恐怖(ある種の自己保存の本能)だけによるのではない。そこには罪悪感というのも確かにあって、これは悪事のばれる恐れが一切ないときにも生じるものである。私はさきに、人間は各々心のどこかに〈理想〉を持っている、と述べた。あるいはこれを〈正義〉とか〈善〉とか、はたまた良心だとか表現してもいいけれど、とにかく私たちは、心のどこかに内的な強制力をちゃんと持っているのである。人間はその〈理想〉から遠ざかっているとき、たとえ欲望のままに行動したとしても、決して幸福ではあり得ないし、そんなことを心の底では望んでもいないのである。
 あの出来事があって以来、少年の内部では何もかもが複雑になってしまった。目に見える景色は以前とまったく変わりないし、世界は依然としてその歩みを進めているのだが。まわりの人々にしても同じことで、申し合わせたかのように何事もなかった顔をしている。もちろん、みんな出来事があったことは覚えているのだが、その意味を知らないか、あるいは知らないふりをしているのである。  しかし、まさにそのことが、かえって少年を混乱させたのである。この心の動揺、はげしい衝撃を共有することのできる大人がいないという孤独感、そしていつまでもその出来事の呪縛に囚われている自分は、もしかしたらどこか不潔で間違った存在なのではないかという疑念、これらのものが彼をひどく苦しめた。少年はまだ本質的には子供であったので、物事を客観的に見ることができなかった。そこで彼は、まわりの人々ではなく自分にこそ問題があるのだと思い込み、自分自身を責めたのである。これらはすべて大人たちの知らない場所、少年の心の内奥で起こったことである。

青ざめた馬

ああそう まったくよく分からんな どかんどかん 火を吹く蛇がぐるぐる そこらに渦巻いて おれの知ったことではない えさまいて種まいて知らん顔 そんなふうな言われ方 図星かなそうでもない よく分からんな あおいあおい 青ざめた馬が走る こっちにくる 幻想的なのは白い馬 青い森 その風景きらきら 光るすすき 夜 静かで 落ち着いていて 凍りついて 何もかも透明なのは まったく綺麗で 意識はとんで
 愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。愛のひとつの「対象」にたいしてではなく、世界全体にたいして人がどうかかわるかを決定する 態度 であり、 性格 の 方向性 のことである。もしひとりの他人だけしか愛さず、他の人びとには無関心だとしたら、それは愛ではなく、共棲的愛着、あるいは自己中心主義が拡大されたものにすぎない。  ところがほとんどの人は、愛を成り立たせるのは対象であって能力ではないと思いこんでいる。それどころか「愛する」人以外は誰のことも愛さないことが愛の強さの証拠だとさえ、誰もが信じている。 (エーリッヒ・フロム『愛するということ』)
 自分を不幸だと思っている人間は、じっさい不幸だから、自分を不幸だと判断しているのである。あるいは? 自分を不幸だと思うこと(さらにはそれを人に言うこと)によって何らかの利益が自分にあると見越しているから、そう判断しているのかもしれない。このような心の二面性は、不幸うんぬんにかぎった話ではない。一事が万事に当てはまる。私たちが心の中で、そうとは意識せず自分自身をだまくらかすそのやり方は、あまりにも巧妙なので(「人の内心を嗅ぎまわるスパイ」とはよく言ったものだ)、もう何一つ断定しない方が良いくらいである。  もっともこういった、人間の心の中に土足で入り込むような意地の悪い分析は、他人に対してするべきではない。自己批判のためにするのである。もし他人に対してそれをするのであれば、その人の内心がたとえどうであれ、それを受け入れるような愛情をもってしなければならない。意地の悪い心理学者みたいになってはいけない。それに結局のところ、人間の心の中がどうなっているのかは私たちには隠されているのだし、何一つ断定する資格はないのである。もししたいのであれば、どのような判断がより愛情に満ちているかを考えてみることである。
「(…)で……やつをどうするね? 銃殺にすべきだろうか? 道徳的感情を満足させるために銃殺に処すべきだろうか? 言ってみろよ、アリョーシャ!」 「銃殺にすべきです!」青白い、ゆがんだような微笑を浮かべて兄の顔を見あげると、アリョーシャは小声にこう言った。 「ブラボー!」とイワンは有頂天のような声で叫んだ。「おまえがそう言うとなると、こりゃもう……いや、たいしたお坊さんだよ! してみると、おまえの胸の中にも、ちょっとした悪魔の子供ぐらいはひそんでいるんだね、アリョーシャ・カラマーゾフ君!」 (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

虫唾が走る文章/道徳心理

 どう考えてもそれは悪いことだよね。どんなに上っ面よくキャッチコピーしても理屈をこねても、それは火を見るよりも明らかに悪いことだよね? それが人の道に外れていないと心から思っているとしたら(じっさいそうなのかもしれないから難しいのだけど)、ああやっぱり世の中にはまったく相容れない受け入れられない虫唾の走る人間がいるものだなと結論するしかないような気がしてならないわけでじゃあまた振り出しに戻るのかと。もちろん理屈としては彼女/彼らにはかくかくしかじかの理由があって事情があって過去があってじっさいは虐げ られ てきた側の人間でほんとうに悪いのはもっと強いやつらだということになる(もしかしたらこの僕自身もそうとは知らずその片棒を担いでいるのかもしれない。だとしたらどの面下げて僕はこんな醜悪な文章を書いているのか?)。してみるとまあ構図としては虐げられてきた側の人間が自分よりもさらに弱い立場にある人間を心の中でさんざ否定したあげく、こんなやつらには人権ないも同然だから何をしても許されるよね、でもそれを言うと角が立つからオブラートに包んでこっそり搾取しようねとまあこういうわけなのだろう。このようにどんな結果にもかならず原因はあるわけで人を断罪する資格はたぶん誰にもないけど 個人的な感情の話をすれば まったくもって虫唾が走る。これは間違った文章だからこんなものを公開すべきではないんだけどいま感情がおさえられずどうしようもないのだ。どうせこいつ人生上手くいってなくてむしゃくしゃしてるからこんな文章書くんだわ、自分の負の感情を他人にぶつけてるだけだわと思われてもしかたがない。

転機

外にあるものを 内に引っ張りこもうとする のではなく 内にあるものを使って 外に働きかけることが肝心 されようとするのとするのとでは まったく違うのだ これはなんだかぐっとくる教訓 そこでわたしは この世界を ゆっくり眺めてみました この 触ることのできる現実に 息つくひまない網の目に 足を踏み入れる心の準備を しています 頼れるひともいまはいない お母さんわたしは こわくて泣きそうですが 困っているひとはいつもいる よく観察すること 最初にすることはこれでしたね あとのことは どうとでもなるでしょう ではでは 明るい場所でまた

生活

あ  こうやって ただ座ってじっとしているだけ それだけでわたしは 頭の中で数々のスリリングな生活が できるの 現実の生活は何一つ必要ない そう思えてくるくらい い  なるほどたしかに それは安上がりで素晴らしい 生活だけど それを否定はしないけど…… 本当の驚きはきっとないだろうね 怯えることもないわけだけど
 嘘をつくことなしに自分について述べることは不可能である。どんなにごまかさないよう努力しても、どこかで自分に都合の良いように物事を解釈し、心の状態を改ざんしてしまう。言葉は自分を宣伝するための道具でしかなくなる。好きなこと、感じること、思うこと、考えること、すべて心のあるがままを記述することができたらどんなにいいだろう。だけどそれはどうしたって不可能なのである。「きみに喋るときはいつでも、今だってそうだが、ぼくが口に出しているのはぼくの考え そのもの ではなくて、きみに印象を与えて反応を起こさせるようなことなんだ。ぼくらの間でさえこのとおりだぜ——ごまかそうという動機がもっと強ければ、いくらだってこういう事態になるぞ。じっさい、人間はこういう点にはまったく慣れっこになっていて、とうていわかるわけがないのさ。言葉全体が嘘をつくための道具なんだ」。  ……してみると、このブログもやっぱり、ただ自分のことを読者に印象づけようとするだけのがらくたという感じがしてくる。ぶっちゃけいつでもそんな気がしています。かつてツイッターをしていたときには特にそれが嫌で、いつも自分のツイートにいかがわしさを感じていました。それで私はここ数ヶ月、できるだけ文章から我を取り除くよう努力してみました(まったくきりがないのですが)。お喋りだった中高のときの私は、そのときの友人と会話するときにしか残っておらず、いまでは黙っていることがベースになってしまいました。じっさい声を出さずとも、明るい表情とジェスチャーをしていれば誰も私を怪しい人間だとは思わないのです。あとは「ありがとうございます」と「すみません」をしっかり言えればもう言うことなしです(これに気づいたとき、そうか話さなくていいんだと思い、とても感動したことを覚えています)。
 これはどうせ再び読むことになるだろうから、いまはさっさと読み切ってしまいたい。ちょっと難しいところはあるけれど、すぐ理解しようとしても仕方がない。そう思いながら、自分としてはすごい速さで、アイリス・マードックの『鐘』という小説を読み終えました。とても良かったです! そして、これから読み返していくうちに、もっと良くなっていくことでしょう! 私はドストエフスキーの小説を読んでからというもの、ほかの作家の本を読んでみても、しっくり来ないことが多かったのです。感性が貧しくなってしまったのかと思いました。  ドストエフスキーとマードックの小説に共通しているのは、倫理の問題を扱っているということ、それでいてまったく押し付けがましくないということです。どちらの作家も、人間についてとても深い分析をしているのですが、とはいえ、現実を描写することを第一にしているように私には思われます。起こる出来事、登場人物の心の動きは、作家の恣意的なものではなくてただあるものだという感じがします。だけど、それをどのように描写するか、ここに作家のものの見方が反映されており、思想うんぬんよりも、この世界に対する愛着がかいま見える気がします。