心のどこかにある〈理想〉/「ギュゲスの指輪」問題

 私たちは各々心のどこかに、「私は(あるいは人間は)かくあるべきだ」という一つの理想を持っている。もっとも、その理想を言語化することは難しい。というか、たいていの場合、そんなことはできないのだけど。それでも、そういった〈理想〉は心のどこかにあって、私たちは各々それを信じているのである。たとえば、私たちが「人を殺してはいけない」「友人を裏切ってはいけない」などと思うとき、それらは〈理想〉から導かれる信念である。あるいは「人を殺すべきだ」「殺してもいい」というのもまた、その人の〈理想〉に適った信念である。この〈理想〉という考え方は、まあ理にかなっているのではないかと私は思う。

 プラトンの『国家』に「ギュゲスの指輪」という有名な思考実験がある。もし不正をしても絶対にばれない能力(指輪)を持っているとしたら、どんなに正しい人であっても、欲望を優先してしまい、悪いことだと分かっていながらも不正することをいとわない、それが人間の本性である、と。これは「ギュゲスの指輪」という思考実験を通して、グラウコン(プラトンの兄)が主張したことである。この主張は、倫理のもっとも痛いところを突いている。正しいことは何であるか、善とは何であるか、そんなことが分かったところで役には立たぬ、外的な強制力がなければどうせ人間は欲望のままに行動してしまうのだから。これに反論することは容易ではない。

 しかし、人間はじっさい、内的な強制力も持っているのではないだろうか。少なくとも私の実感ではそう思われる。たとえば、私たちは人を殺してしまったとき、きっとひどく憂鬱な気分になるだろう。これは「逮捕されたらどうしよう」とか「人から非難されたくない」という恐怖(ある種の自己保存の本能)だけによるのではない。そこには罪悪感というのも確かにあって、これは悪事のばれる恐れが一切ないときにも生じるものである。私はさきに、人間は各々心のどこかに〈理想〉を持っている、と述べた。あるいはこれを〈正義〉とか〈善〉とか、はたまた良心だとか表現してもいいけれど、とにかく私たちは、心のどこかに内的な強制力をちゃんと持っているのである。人間はその〈理想〉から遠ざかっているとき、たとえ欲望のままに行動したとしても、決して幸福ではあり得ないし、そんなことを心の底では望んでもいないのである。

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