投稿

5月, 2021の投稿を表示しています
 伝道者ソロモン曰く、「空の空、空の空、いっさいは空である。……世は去り、世は来たる。……川はみな、海に流れ入る。しかし海は満ちることがない。……先にあったことは、また後にもある。先になされたことは、また後にもなされる。日の下には新しいものはない。……前の者のことは覚えられることがない。また、来たるべき後の者のことも、後に起こる者はこれを覚えることがない」。憂鬱の知恵はこう語る。行為し言論を交わしつつ人間が現われることのできる場所としての世界への信頼が消え去ってしまったとき、こうした知恵で人間はみずからを慰めるのである。 (ハンナ・アーレント『活動的生』)

メルヘン

わたしはわたしは 良くないことを考えていた 空恐ろしいとは思いつつも いやどちらにせよ はなからすべて空っぽだと 思うようになっていた それで…… 心がふっと 一瞬 浮いたかと思うと 体までもが 地上をはなれてしまった これで自由になったんだ そう思うと 胸が高鳴るのを感じた でもじきに もうもとには戻れないと気づくと ちょっとだけ不安になった いいや大丈夫よわたし これはわたしの望んだこと—— でもますます不安は大きくなった わたしの夢の実現は メルヘンで願いごとが叶う瞬間と同じく 夢見ていた幸せが呪いとして働くという 不幸なめぐり合わせとなった もうわたしの目をひたと見つめて ものを話してくれる人は どこを探してもいないでしょう

意地づく

いまここで 重心を低くしないと 体を丸めて 大地に額を押し付けないと この男はぱっと宇宙空間に 放り出されてしまう かなしい人工衛星みたいだ へその緒で繋がれていた頃の記憶は 失われつつある なんとかして泣きたい これらすべてに謝りたいのだけど この後におよんでまだ 強情を張っているらしい いままでに言ったことを 何一つ変更したくなくて 意地づくになっているのだ どうしたってもうそんな孤独で 生きていけるはずもないのに

誕生

とある政治家は ある日こう言いました 産めよ殖えよ いやはや偉大なお言葉です これこそまさに自然の命令 男は労働 女は出産のため 生まれて来たのだから 強さとは速さ 経済をもっと 速くまわさないと…… ものを考える人たちは とても真剣に議論し合っています こういった暗い時代 戦争のさなかに子供を産むことは あらゆる点において正しいことだろうか? 生まれるときから社会の犠牲になる運命を 背負わされる子供たちなど 生まれない方がいいのでは—— それでも神さまは 地球に生まれる子供とその日を 両手を上げて祝福する

人間の一生

のろりのろ 母なる大地をはいまわる 毛虫にも似ている 人間の一生はとても苦痛 さまざまな制約 良からぬ思惑 この肉体はいとわしく 第二の誕生はのろわしい それでも偉大な彫刻家は この作品に息を吹きこみ その独り子たる建築家は 自らを犠牲に土台を築く わたしは何も分からない すべてがいずれ あるべき場所に収まって 一つの流れになるという 人工衛星は地球をはなれ ゆらりゆら 蝶のように舞い やがて宇宙のちりになる わたしは何も分からない なぜ何から何まで こんなふうなのか? どんな意図があって 責任は一体誰にあるのか 目に見えるもの 心に浮かぶこと 衝動となって たえず訴えかけている それでも わたしは分からない——
 さっきね、一羽の鷹が入って来たのね、そしたらあたし、とたんにがっくりなってしまったの。「馬鹿ねえ、あたしの愛してるのはこの人じゃないか」——そのとたん、心がそうささやいたのよ。あんたが入って来て、たちまち何もかもはっきりさせてくれたの。「いったい、この人ったら何をこわがっているのかしら?」って思ったわ。だって、あんた、びくびくもので、それこそびくびくもので、ろくに口もきけなかったじゃない。この人のこわがってるのは、あの人たちじゃないって思ったわ。だって、あんたは人をこわがるような人じゃないもの。これはあたしがこわいんだなって思ったの、あたしだけがこわいんだって。 (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
「何を言うんだね。でもきみの恋は憎しみとすこしも区別がつかないものなんだね」公爵は微笑した。「もしその恋が消えてしまったら、もっと恐ろしいことがおこるかもしれないね。パルフョン、私は、それだけははっきり言っておくよ……」 「じゃ、このおれが斬り殺すってことかね?」  公爵はぎくりと身を震わせた。 「きみは現在の恋のために、現在うけている苦しみのためにこそ、あの女(ひと)をとても憎むことになるんだよ(…)」 (ドストエフスキー『白痴』)

かすかな風景

なつかしいもの わたしは好き でもちょっとさみしいような かなしいような気持ちになる 公園のわきを歩いているとき たとえば小学生の男の子から そのボールこっちに蹴って とか 頼まれたりしたらたぶんわたしは あわててしまってどうにも声が 出せなくなって あ ああ うん いますぐ蹴るからすこしまってて って 心のなかで返事をしながら 失敗しないようすごくていねいに ぎこちない動きでわたしは蹴る するとすぐに男の子は お礼を言って走って わたしから離れていく わたしは一人とり残されて 記憶のすみにもいさせてくれない なんだか遠いという気持ちになる 忘れているなにかを思い出せない という気持ちになる みんないなくなってしまった なんにもなくなってしまった という気持ちになる 心にかすかな風景がうかんで すぐにぼやけてきえてしまう

ずっと遠く

歩いて行けたら 空と地平線の接する場所まで そこには 一つの答があって すべてが瞬時に見出される 歩いて行けたら 平行線の二本が交わる点まで そこには 一つの扉があって すべての客人を迎え入れる 歩いて行けたら いいのだけど……

夜はとても

いまは亡き王女 きょうの夜はとても とても静か 光りかがやく満天の星 ちりばめられた蒼穹が 地の果てまでも どこまでも 大地と天空がふれあう 地点と—— どこまでも いまは亡き王女 子供とおなじ あなたの喜び 草花はぬれている 湖は人間の心のよう ふたつの静けさがとけあい ふたつの神秘が まじりあい つねにすべてを迎え入れ すべて真実で 美しいものたち

大海のよう

すべては大海のよう つねに流れ動き 隣り合っており どこか一端にふれれば たちまち宇宙の果てまで 波は伝わる 怖い顔をして歩けば それを見た子供は 人間不信に 悪態をつけば どこかで人が殺される 嘘をつくたび 世界から真実が失われる いつも体全体を 明るく美しく保っていなさい そのための灯りは あなたの心である 何を言おうかと 心配するな 明るい心にすべてを 決めてもらいなさい 何度でも 灯りを点けなさい

それなしでは

さあ これが私の秘密 それなしではとても とても 生きていけない 私はあなたにお仕えします もっともこれは 隠すべきこと それで? 私のことは 誰かが何とかしてくれる あなたのことは 私が何とかするつもり これが彼の約束 それなしではとても とても…… あなたはパンなしで 生きていくおつもり? いいえ 私はパンが大好きなんです 甘いものにも 目がなくて…… 禁止されていること 少年少女 砂糖と果物を鍋でぐつぐつ ジャムはお好き? ええ もちろん それなしではとても とても 生きていけないほど 好きですとも! もっともこれは 恥ずべきこと ひき臼を首にかけられて 海に放り込まれたいの? 悪魔にでも さらわれちまえばいいさ と思うよ