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9月, 2022の投稿を表示しています
 ソクラテスは人の語ることにいちいち疑問を呈し、前提から疑い、そのまた前提から疑い、そうやって議論を後退させるので、こんなにたくさんお話ししたのに、最初よりも一層分からなくなってしまったネ(袋小路)みたいなことになる。結局いつも何も分からないネ、で終わるので、ソクラテスには理論もイデオロギーもないし、それらしい思想もない。対話という方法があるだけである。結論まで持っていくプラトンとは大違いである。ソクラテスの不思議なところは、自分は何も知らないと言いながらも、虚無主義にはならないところ、価値なんてものはクソくらえ、という冷笑主義にならないところである。神さまに疑問を呈することはしない。理屈ぬきで、神さまを直接的に信じている。どういう思考の回路なのかよく分からんのだけど。
 頭の中で理屈をこねこねしている私なんかよりも、心の深いところにある知恵で動いている人たちの偉大さたるや計り知れない。日常的な言葉づかいで、学者に勝るとも劣らないほどの真実を言い当てる。言葉にするだけじゃなく、実践もする。頭ではなく、心と体で考える。
 人前で話したり、ジェスチャーしたりするとき、私たちは何も考えることができない。目で見、耳で聞き、手で触れることのできる外の世界に注意を払っているとき、私たちは何も考えることができない。なぜなら、話すことと考えること、見ることと考えることは、まったく正反対の営みだからである。話すことや見ることは外の世界の営み、考えることは内の世界の営みであり、私たちは、両方の世界に同時に存在することはできないのである。そのため「見ながら考えている」とき、実際はそうではなく、直前に見たものを思い出しながらそれについて考えているのである。考えているとき、網膜に外の世界の事物が映っていても、もはやそれを知覚はしておらず、内の世界に現れるイメージだけを「見て」いる。
おいこらこっち来い いま殺してやる 無理やり首根っこつかんで 地にひざまずかせ こめかみ入口に 脳天ぶち抜いてやる おいこら  自分! いま絶対に殺してやる 罪と恥ずかしさに 息が止まりそうになるだ? その気持ちに終止符うって いまラクにしてやるから 死んだ方がマシだから ほらやるぞ いいかっ!
グローバル規模で考え ローカル範囲で act せよ! 行為と演技 関係の網の目と因果律 始まりの終わりは 始まりの始まりに接続する 終わることのない連鎖 世界は海 私たち一人一人は波 すべては干渉し合い 一つの結果を 共有する

社会的責任論を再考する(犯罪者は悪いのか?)

 自由意志が存在するとはあまり思えない。この意見はずっと変わっていない。私が何かを しよう と意志するとき、自由に選択してそれを意志したのだと脳は錯覚するが、実際は必然的に意志させられている。何によってか? たとえば、時代や場所に依存する社会の価値観、その場その時の状況、生まれ育った環境、これまで見聞きしたこと、経験、無意識、遺伝、などによって。人格はどこからやって来るのか? いまある「この自分」の人格が形成されるにいたった原因をさかのぼって探れば、必ず、自分ではないものに帰着する。私の人格を形成したのは、私以外のもの(私以外のすべて?)である。私は自分の人格形成に一切関与していない。ロールズの「無知のヴェール」ではないが、私は私以外の誰かでもあり得たし、その確率は同様に確からしい。  だとすれば、罪の概念と罰の正当性はどこから生じるのか? そういう疑問が浮かんでくる。自由意志がないとすれば、犯罪の責任をその加害者に帰することはできない。加害者は自由に意志して罪を犯したのではない。必然的に意志させられたのだ。犯罪以外の選択の余地が彼にはなかったのだ。と、そういう解釈になるからである。もしそれが本当だとすれば、罪の概念と罰の正当性は、道徳的な償いのために生ずるのではなく、最大多数の最大幸福のために生ずると考えるよりほかにない。刑務所に収容される犯罪者の犠牲のもと、それ以外の一般市民の自由と安全は成り立っているのだ。被害者は事件の犠牲者だが、犯罪者もまたこの歪んだ社会の犠牲者である。私たち一人ひとりはその社会の一員であるから、犯罪とは一見無関係に思える私たちにこそ、その責任の一端はあると言わねばならない。  このような考え方は、私たちの常識的な道徳感情を満足させないかもしれない。どんな凶悪な人殺しにも罪はない、ということになってしまうからだ。しかし、感情を満足させるために、ものの見方を恣意的に選んではいけない。私たちは、常識的な道徳感情より一段高い、善悪の観念を模索すべきである。誰かが犯罪の責任を負わなければならないなら、私たち一人ひとりが少しずつそれを引き受けるべきだ。社会に悲惨な事件が起こったとき、私たち一人ひとりにその原因があると反省すべきだ。完全な善人などこの世にいないから、これまで悪いことをしたことは一度もないし、すべきことを怠ったことも一度もない、と主張でき

拝啓大統領殿

  ユーチューブで見つけた音源 。ボリス・ヴィアンというフランス人作家の曲を、高石友也さんというフォーク歌手が翻訳し、それを小山田壮平さんがカバーしたもの。反戦歌であるということよりも、人間の健気さ、いじらしさ、哀れさにとても心を動かされます。これを聴いたあとには、せめて一瞬でも、ふりでしかなくても、道徳的に気をつけの姿勢になります。 ✻  世界と一定の距離をとり、カッコつけて、のらりくらりと、物事を茶化したり、皮肉を言ったりする人たちが大勢いる(私自身もそういう人間になることがある)。もちろん、現実を和らげるため、人びとの緊張をほぐすための、そういったシニカルさは、たくさんの人を救ってもいる。だけど、本当の話、人生はゲームではないし、日々の生活は切実なものだし、人間の苦しみは大真面目なもの。喉もとにナイフを突きつけられるまで、それが分からないような冷笑家ども、言葉遊びが大好きなお喋り連中は、悪魔にでも誘拐されてしまえと思います。 ✻  苦しみ、悲しみ、恐怖があって、私はそれを本当の意味では知らないけれど、いまもそれを経験している人たちが大勢いるし、それを経験しながら、死んだり、殺されたり、殺したりした人たちが大勢いる。人生は大真面目なものだから、陽気に笑ったり、浮かれ騒いだりしているまさにその瞬間にも、心のどこかに、人間の苦しみに対する真剣な黙祷がなければならない。

願望という名の詐欺師

人びとの あるいはあなたの中にある強い願望 しかしそれをそうとは知らないでいる 無意識の中にあるそれは この上なく 恐ろしい かつ 禍々しいもの だなんて わたしは信じないし 信じたくない(だって そんな不公平なことを神さまが お許しになるはずがないもの) たとえば 根無し草的な大衆の足もとを かっさらい すべてが終わったあと 目が覚める しかし それは夢ではない たとえば わたしの恋人の無意識に 「お金をもらってあれする女」 かつ「偉大なるマザー」が 潜伏していて それを上手に模倣する結婚詐欺師が いつか彼をわたしから奪い去る そんなこと わたしは想像しないし 想像したくない 無意識 ゆえに意識 天国があってほしい ゆえに 天国はある だなんて 暴論にもほどがある 心の願望を 現実と見間違える それが人間の愚かな宿命 だなんて わたしは知らないし 知りたくない

未熟な考え

 音楽を聴きながら夜を歩いている最中、心にふつふつと湧き上がってきたのは、いかにも未熟な若者が考えそうなこと! 私たち(僕たち?)は新しい時代の担い手であり、社会を改革する者であり、人々に働きかける人々の一人である、なぜなら「百万の頭は一人のそれよりも優れている」から! ——若いねえ、まだ、そんなこと考えてらっしゃる? ええ、ずっとこんなこと考えながら、きっと歳をとると思います(文句ありますか?)。——だけど、そういう決意だけで、お前はどうせ何もしないし、するにせよ、大したことはできないでしょうよ。たしかにそうかもしれない。未熟といえども、そう言われてすぐにかっかするほど、未熟な自分ではない。分かっています、「社会を改革する」うんぬんは、人々のエンパワメントと解放は、スポットライトに照らされた舞台でなされることではないし、ファンファーレもない! 暗いところで、少しずつ地道になされる活動で、結果が目に見える形で与えられるかも分からないような、気が遠くなるほど、途方もない道のりである。分かっています! ——お前にそれを耐えぬく覚悟があるんですか。ふん、いまは何も言うまい(何も!)。すべての結果は、死ぬその寸前に、神さまがおれの心の中で答えてくれる!