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本当にめちゃくちゃな気持ちになってばかりいる。いま僕は、会う人すべてに優しくしよう、どんな人のことも大切にしようという気になっているし、僕の好きな人たちが僕のことをほとんど気にかけてくれなくても構わない、ただその人がその人にとっていちばん良い状態を手に入れてくれさえすればいいとすら感じている。でもこれは一時的な病気みたいなものだと理解していて、こういう極端に素晴らしい気持ちになることもあれば、極端に何もかも嫌になったりすることもあるのである。いずれもあまり正気とは言えないのだけど、それでもなんか、そういうわけの分からない感動が、いまの僕の何かしらの原動力になってはいるのである。どんな感情もくみとって、そこには苦しみとか悲しみもあるだろうが、それでもなおそういったすべてを祝福しようという気持ちになっているのだ。
自分の心がせまいのを感じます。それというのも、人の心のせまさを目の当たりにしたからなのだけど。きっとそういう心のせまい人たちも、他の心のせまい人たちの心のせまさを目の当たりにしたから一時的にそうなっているのだろう……と想像するとき、少しだけ心をひろく保っていることができる気がする。
傷ついた心を持つ人は気持ちがすさんでしまって、「自分ではない誰かが傷つくのなんか構うものか、僕だってこんなに傷つけられたんだ」という考えを持つようになる。しかし一方でその人は、「傷つけられたことで僕はこんなに苦しい思いをしている、他の誰かにおなじような思いをさせることはできない!」という考えをも抱くようになる。 このまったく正反対のふたつの考えにはさまれ、押し潰されそうになる、まさにその点に、傷ついた心を持つ人の地獄があるのだ。自分の「欲望」を押し通すためなら他者を傷つけても構わないとする考えと、他者のそういう考えに傷つけられる苦しみをよく知っているからこそ抱く深い「良心」。欲望を押し通すとき、必ず良心の呵責がつきまとい、心が安らぐことはない。逃げ場がないのである。
人の悪口を言うのではなく、自分の苦しみ(とか悲しみ)について語ろうとしなければ。誰かに対する憎悪や非難はなるべく抑え(それはときどき難しいのだけれど)、自分がどういうことで苦しんでいるのかということだけに焦点をしぼり、考えたり話したりしなければいけない。もし仮に誰も悪くなかったとしても、人は苦しんだりするし、自分の苦しみを誰かに打ち明けることによってはじめて、人はそれに耐えることができるのである(負の感情を自分ひとりで抱えていることはできない)。
昨日にくらべて、今日は心が落ち着いています。
本当に「ありとあらゆることに、いささかの期待も」しないのであれば、ブログすら更新しないのだけど。だからもう……なんか、もう何も言えない。ああもうほんとに脳みそなくなってくれればいいのだけど。ものを壊したり、壁に頭を打ちつけたりしたい。つらい、すごく苦しい。ほんとにどうすればいいか分からない。
つらいです、さみしいです。もうダメです。もう……ほんとに……きびしい。ちょっと、いくらなんでも流石に、どうしてこんなにずっと辛くて寂しい目に遭わされなきゃならないのか? と何かを糾弾したくなってきました。これから良くなっていくと思っていた矢先にこれなんだもの。どうしようもない。とりあえずコロナが収束するまでは、ありとあらゆることに、いささかの期待もせず、淡々と日々を送ることだけ考えます。

誰も悪くない

僕が何よりも先に信じている考えは「誰も悪くない」というものである。どんなに凶悪な犯罪者も、独裁者も、その人自身が悪いわけでは決してない。何かに失敗した人も、その人の自業自得で失敗したのではない(「自己責任」なんて存在しない)。どんな結果にも原因があって、その原因にもやはり原因があって、原因から結果へと絶え間なく(どうしようもなく)物事は進んでいくだけなのだから、この世に悪い人など一人もいないのである。 ものすごく過激なことを書いていると自覚しているから、声を大にしては言わないのだけど。それでもなお、僕はこの考え(「誰も悪くない」)からすべてを始めるべきであると強く思うのだ。そうでなければ世の中は良くならないし、世の中が良くならなければ、自分が良くなることもない。 だから優しくない人に対しては、その人が優しくなってくれるまで、優しくし続けるしか方法はないのだ。優しくない人に冷たくすると、その人はますます優しくなくなって、誰かを傷つけるためによそへ行くだろう。あるいは優しくない人を仲間外れにするといつか、優しくされなかった人たちが徒党を組んで、すべてをぶち壊してしまうだろう。報復主義によって生まれるのは戦争だけなのである。 このような考えを抱いてもなお、しっかりと生きていくのはものすごく辛いことである。はっきり言って、死ぬほど辛いことであると僕は思う。泣きたくなるほどである。自分の中にある負の感情と、上に書いたような理屈(「誰も悪くない」)とを戦わせ、そのふたつに押しつぶされそうになる瞬間が、これから何度もやってくるだろう。でも僕の中にも優しくない部分はたくさんあるし、それを優しい人たちに許してもらうためにも、僕は人の優しくない部分をすすんで許し、自分にできる限りのことをしなければならないのだ。 そういう世の中の仕組みに気づいてしまった人は、辛いけれど、それが自分のやるべきことと信じて、自分を捧げなければならないのである。どこまでも賢くなって、どこまでも優しくなって。賢さが足りなくて、「優しいことをしているつもりが、本当は自分を押しつけているだけだった」ということもあるけれど、そういうときもやはり、優しい人たちが僕を許してくれるだろう。そうすれば僕はさらに賢く、さらに優しくなることができるのだ。何かが良くなるとしたら、そういう道のりでしかあり得ないのであ
心は少しずつ開かないと。でないとナイフで刺されてしまいます(刺されるとすごく痛い)。でもあまりにももたもたしていると、逆に愛想を尽かされてしまう(こちらがナイフで刺しているという場合も)。自分が傷つくのには無感覚になって、相手のスピードに合わせることができるなら、それが一番いいのだが。
黒子みたいに自分の顔を隠してしまう、それでも幸せに生きていけるようなやり方で、人は生きていかなくてはならない。 すべての人が心の底から望んでいるのは、自分がどういう人間であるかにまったく関係なく、自分のことを無条件に愛してもらうことである。顔とか身体つき、名前、年齢、肩書き、何を言うか、何をしているか……など、そういったもののすべて(自分にまつわるもののすべて)が自分から失われ、もはや自分が自分であることの確認ができなくなったとしても、以前とまったく同じように他者に受け入れてもらうことである(神様がいればそれができるし、愛とはそういうものでなくてはならない)。 ブログもツイッターも本当はやめたい。僕はこんなにも素晴らしい人間なのだと主張しているみたいな気持ちにさせられることがある。できることなら、そういうことのすべてをやめにしたい。
僕はどうやら、冷笑されると かなり 頭にきちゃうみたいです。 怒りとか嫉妬、憎悪はまだいいのです。でも冷笑は、冷笑だけはこの世界からすべてなくなってほしい。「冷笑」によって連帯しているコミュニティーはひとつ残らず解体されてほしい。冷笑している自分を発見することもあって、そういうとき、ものすごく反省します。
僕はめったに泣いたりしないのだけど、いまいつになく感傷的になっていて、暗い部屋の布団のなかでうずくまりながら、これはいったい何なのだろう? 僕たちがいままさにしていること、泣いたり怒ったり悲しんだりしながら、それでもなお全体としては祝福しなければいけないらしい人生について、すべての人がまったく同じように直面しているのにも関わらず、そのほとんどの部分を分かり合えない人生の意味とは、いったい何なのだろう? と考えをめぐらせながら、喜んでいるのか悲しんでいるのかもよく分からず、ただただ心が感じやすくなっている。いま月の裏側にいるような感じで、誰の手助けをすることもできないし、たぶん声も届かないけれど、すべての人をかわいく思いながら、すべてが良くなりますように、ちゃんと物事が正しい方向に進みますようにと祈っている(そうとう心が弱くなっているに違いない)。僕はいまとことん一人きりなのだけど、僕がいま遠くから地球を考えているみたいに、遠くから僕を考えている人がいることも知っていて、だからまったく寂しくはないのである。でもこれはいったいどういう感情だろう? とやはり思う。弱いけれど、すごく強い気持ちなのである。これで問題ない、大丈夫だと強く思うのである。
たとえ自分が幸せであったとしても、この世に不幸な人が一人でもいる限り、僕は自分の幸せを申し訳なく思わなければならないし、その幸せを享受することを恥じなくてはならないし、その幸せを公の場所で見せびらかしたりはせず、自分の生活を隠さなければならない。 自分が自分であって、他の誰でもない(ガンジーでもヒトラーでもない)ということは、僕が決めたことではない。ただのくじ引きでしかない。僕が幸せになるか不幸になるかもすべて、僕が決めることではない。僕が「幸せくじ」を引いたとして、隣の人が「不幸くじ」を引いたとして、僕はその人に「幸せくじ」を譲るようなまねはしないだろう。僕はその幸せを赤面しながら享受するだろう。自分が「幸せくじ」を引いたことをその場で喜んだりはせず、家に帰ってから喜ぶだろう。 公の場所で楽しそうにしていたほうが、みんなも楽しい気持ちになるというのは間違いない。それは自分の幸せを分け与えるようなものだ。
ツイッターをあまり見ないようにします。それからしばらく東京に行かないことにします。そうすると使いみちのないお金が増えていくし、こういうときなので、こういうときでなければ使っていたであろう場所にお金を送るのは当然の発想である(そして当然の感情でもある)。今のところ自分にできることとしてそれくらいしか思いつきません…… もうよく分かりません。何かを言うのも頭がおかしくなりそうだし、何かを言っているのを聞くのも頭がおかしくなりそうです。こうなる前にどうにかするべきだったのでは? ここまでひどくなる前に? 政治の話ですが…… 僕はいまもこれからも極端にお金に困ることはないと思う。でも極端にお金に困っている人がいまたくさんいるわけで、そういう人たちに対して国は何もしないわけで、そういう国の下でのうのうと生きている僕は、極端にお金に困っている人たちに対して、何らかの後ろめたさを感じるのです。それは頭がおかしい人の思考でしょうか? あるいはそうではなくて、僕はもっと個人的な問題を抱えているのかもしれない。つまり寂しいのかもしれない。寂しくなかったら僕は政治なんか気にもとめないし、顔も知らない誰かが生きるか死ぬかの生活をしていることに対して、みじんも想像力を働かせたりしないのかもしれない。僕は政治がどうとか言うことによって、自分がどういう人間であるかを人様に宣伝したいのかもしれない。 そんなことは僕にだって分からないのです。自分の頭の中でいったい何が進行しているのか、そのへんは僕自身にだってよく分からないのです。 本を読みます。ブログを更新します。物理の勉強をします。英語の勉強をします。たまにつくばにいる友達と会います。バイトは引き続きあるようなので頑張ります。六日から家庭教師の仕事も始まるので(予防をしっかりしつつ)頑張ります。情報によるとその家ではヤギを飼っているみたいです。ヤギ。
Aさんは、「Bさんが寂しがっているかもしれない」と思い、ときどき連絡をする。 Bさんも同じく、「Aさんが寂しがっているかもしれない」と思い、ときどき連絡をする。 でも二人はそれと同時に、「相手が連絡をくれるのは、『寂しがっているかもしれない』と自分を心配してくれているからなのかも」とも思っている。 じっさい二人はまったく寂しがっていないため、本当はあまり連絡をとる必要がない。それでいて連絡をとりあっているわけで、まさにそのおかげで、二人は寂しくないのである。
資本主義社会(すなわち競争社会)にいじめられると、父親は暴力的になり、母親はヒステリックになり、子どもは押さえつけられる。誰も悪くない。誰かが良いことをしなかった(したとしても足りなかった)というだけにすぎない。
僕がそうしたいと目指していることは、自分の欲望などを完全に棚に上げてしまって、できるだけ他人のために行動すること。しかもそれを「道徳的に正しいことだから」という単純な理由によってではなく、その他のあらゆるやり方をも考え抜いたすえに、それでもなお僕はそうするべきであると(どういうわけか)本気で信じている人間としてである。「自分の洞察や知性に対して理不尽かつミステリアスな感謝の念を抱」き、「終始つらい悲しみを味わっていながら、いささかも批判せず、すべてを赦しているよう」な人間としてである。そういう人間に僕はなりたいし、なることができなくても、それを目指している人間ではありたい。そういう人格を心のなかで何よりも大切にしている人間でありたい。
昼寝をして起きたあと、あまりのさみしさ(というかつらさ)に絶句して、どうしたらいいか分からなくなってしまった。すべてのことを悲観的に考えた。何もうまくいかないし、うまくいっていると思っているものはすべて自分の思い込みなのだろう、という考えが頭から離れなかった。夢が悪いのかもしれないけれど、まったく思い出せない。(時間が経てばだんだんと回復する。なのでいまはだいぶ平気である。) 恐ろしいのは、こちらの考え方ひとつで、世界の見え方ががらりと変わってしまうことである。どんなに人から好かれていて、どんなに人と仲良くしてきた場合であっても、それらを信じることができなくなり、虚しさや儚さにばかり目がいってしまう。しかもそれは一時的なもの(脳みそのバグみたいなもの)であると分かっているのに、気持ちを保つことができないのである。 悲観的になるとき「こっちが本当だ(現実だ)」という思いを抱くようになる。これまでの元気はすべて空元気だったのかもしれない、どうやら僕はむりやり気持ちを明るく保っていたらしい、と本気で思ってしまうのである(実際いくらかはそうなのだろうが)。 空元気はよくないし、悲観的になるのも間違っていて、ではどういう心の持ちようが正しいのか、それを知っておかなければならない。それが分からなければ、自分がいま大丈夫かどうかの判断ができないのである。心の持ちようをチェックするための客観的な指標があるといい(考え中)。