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 考えるとは、「少しのことを与えられ、そこから多くのことを理解しよう」とする営みのことである、あるいは、「多くのことを与えられ、それらを説明する少しのことを見つけよう」とする営みのことである。そしてもし「一つのことを与えられ、そこからこの世のすべてを理解する」ことができてしまうような、その「一つのこと」というのが存在するのであれば、それがまさしく真理であり、神であり、最初の光といったところだろう。もちろん、そんなものはこの世のものではなく、あの世のものである(ここにきてかなり神秘主義的な文章を書いてしまった)。
人間の孤立について→

人びとの憎悪が増幅されていく

 世の中にあふれている「ある特定の人たち」に対する嫌悪や憎悪といったものを、あの手この手たくみに言葉を使って、せっせと理屈をこねて、さらっと正当化してしまう賢い人たち、というのは一番危険な存在である。そういった人たちは、直接的に暴力をふるったり、感情に任せて人を侮辱したりする人たちよりも、はるかに大きな影響力を持ってしまうという点で、いっそうたちが悪い。  そういった人たちがしていることは、人びとの中に眠っている、本来ならば自制しなければならない恥ずべき憎悪を、外に放ち、公然と「特定の人たち」を憎悪してもいいという風潮(まずはネット上で、次第に人との会話で、さらにはヘイトスピーチで)を助長することである。しかもそれが、世間にこびを売るためであったり、自分は優れた存在であるということを宣伝したりするための、どこまでも利己的な動機によるものなのだからおぞましい。そして憎悪は、まるで「赤信号みんなで渡れば怖くない」といった具合に、その醜悪さが人びとにあまり意識されることなく加速していくのだ。  それは、暗い時代の、悪い政治体制で行われてきたことと、その規模は違えど、まったく同じことである。「特定の人たち」に対する人びとの憎悪を、それを正当化することにより、雪だるま式に増幅させているのだ。その延長線上にあるのは「集団的な迫害」である。自らの醜悪さと残酷さに人びとが気づいたときには、もう何もかもが手遅れになってしまっていることだろう。どこから自分たちは間違っていたのだろう、と。  そこで僕たちは、そういった危険な言説を耳にするとき、まず以下の点に気をつけなければならない。第一に、言葉ではどうとでも言えてしまうもので、間違ったことでも正当化してしまうことができる。第二に、人間はその欲求として、自分の中にある負の感情を正当化してくれる言説には、それがたとえ見かけ上しか正しくないとしても、喜んでまっすぐに飛びついてしまうものだ(なぜなら、これでもうこれまで抑えてきた憎悪を外に放ってもいい、自分の感情は良くないものであれ間違ってはいないし、間違っていないとなると良心の呵責を感じる必要もない! というわけであるから)。

精神的な生存のために

 ある人がどういう人間であるか、誰であるかは、その人の年齢や性別によって分かるのではないし、その人の趣味や経歴によって決められるのでもない。それは、その人がどのようなふるまいで何を話すか、どんな表情をしているか、どんな行動を起こすか、などによって決められる。つまり、目の前にいるその人が「何を話し、何をするか」である。  このように、僕たちは人前で「(能動的に)何かを話し、何かをする」ことによってのみ、他者に自分が誰であるかを知ってもらうことができる。もし仮に、どこで誰と会っても「(受動的にしか)何も話さず、何もしない」という人がいるとすれば、その人は、肉体的には生きていると言うことができても、精神的にはまったく死んでいるも同然である。なぜなら、生きているとは「人びとのあいだにとどまること」であるからだし、「人はパンだけで生きるものではない」からだ。  そのため、「お腹が空いているときに何か食べたい」ということと、「寂しいときに人と会って何か話したい」ということとは、どちらも、「生きていたい」という人間本来の欲求にもとづいている。前者が肉体的なものであるのに対し、後者は精神的なものである、という違いがあるだけで、人間が「生きている」状態でいるためには、そのどちらの生も必要なのである。  この後者の「精神的に生きている」ということの必要性は、現代の多くの人びとにとって、あまり真剣に考えられてはいない。それは、個人が人生設計をするにあたってもそうだし、国家が政治を行うにしてもそうである。また、この「精神的に生きている」ということは、その性質上、人間ひとりだけでは成立しない。したがって、目の前にいる人の精神的な生存は、この自分にかかっているのであって、その人自身ではないのである。
 権力あるいは暴力は、人目につきやすく、そのくせ人間ひとりを支配することすら容易ではない。しかしその一方で、愛の謙虚さは、誰からも気づかれなくとも、他のどんな強い力よりもはるかに強く他者に影響を与えてしまうことができる。そういった謙虚さは、その性質上、どこまでも人目につかないことを望んでいるが、それと同時に、自らの影響力をちゃんと知ってもいるのである。 「愛の謙虚さは恐ろしい力である。すべての強い力の中でも、これにならぶものは何一つないほど、強い力なのだ」と考えるとき、その思想の中にはひそかな情熱があるし、全世界を征服しようというかくれた野心すらある。こういった博愛精神は、「年寄りにありがちな優しさ」なんてものでは決してない。それは、せっかく生まれてきたのだから、人生をすべて味わい尽くしてやろう、と渇望する若者をも満足させるものである。
 あなたを傷つけ、人間不信にさせた人を憎まず、どうか赦してあげてください! その人は、あなたよりも深刻な人間不信におちいっている、誰よりも不幸な人間であるかもしれない(いや、きっとそうである)のだから。そしてよくよく考えてみれば、その人を不幸にさせたのは この僕 であるかもしれないし、仮にそうではないにしても、誰か他の人を不幸にさせることには加担しているだろうから、結局のところ、僕がその人を不幸にさせ、僕がその人にあなたを傷つけさせたのと同じようなものである(僕はふざけているわけでも、一時的な激しい感情にかられているわけでもない)。
 打ちひしがれていて、気が遠くなるほど神経が衰弱している、というときがある。それでもバイトなり何なりで外出しなければいけないときは、まるで自分の葬式にでも出かけるみたいな(これは自分で考えた比喩ではないのだが)顔で、自転車をこいだり、あるいは電車に乗ったりする。その最中も、どうにかして、散り散りになってしまいそうな精神をまとめ上げる努力をする。ときには、実際には思ってもいない侮辱を自分に浴びせてみたりして、むりやり憂鬱を晴らそうとする(僕みたいな人間は死んでしまった方がいい、とか、それと似たようなことを)。そして、心の中であれこれ自問する。——どうすればいいだろう、神聖なものを思い浮かべることに何の意味があるだろう? たとえば、自分の中には欲望があって、好奇心があって、一度きりの人生を他の誰よりも素晴らしいものにしてやるのだ、といった愚かな衝動があって、とにかく、もう何だか対処のしようがないくらいに分裂してしまっている。そもそもそんなことが問題になっているのだろうか? それすらもよく分からない……そういう感じのときがあるのだ。  しかし、最終的にはいつも次のように自分に言い聞かせ、気持ちを立ち直らせている。——自分のことについて考える必要はない、それは誰かが代わりにやってくれるだろう。自分のことについて考える必要はない、自分以外のことについてだけ考えればいいのだ。やらなければならないことはずいぶんある……「このロシアの国では、やらなければならないことはずいぶんあるよ! 私の言うことを信じてくれたまえ。私たちがかつてモスクワでよく顔をあわせて話しこんだことを、思いだしてくれたまえ……それに、私は今度こちらへ帰ってこようなんて気はまったくなかったんだよ! いや、こんなふうにしてきみに会おうなんて、まったく、まったく思いもよらなかったよ! でも、しようがないさ!……それじゃ、さようなら! ごきげんよう!」(なんてかわいい人なんだろう、このムイシュキン公爵という人は! この人の率直さといったら、もう、すさまじいくらいである! それはそうと、この文章がこんな終わり方をしてしまったことに、僕自身とてもびっくりしている。文章としてまるでなっていないが、もう何でもよくなってしまった)。
 ここ数ヶ月はドストエフスキーの作品、特に『カラマーゾフの兄弟』を何度もめくって読んでいる。いまの僕であれば、どんなことに対しても、自分の考えることよりむしろこの小説に書かれていることの方をすっかり信じてしまうだろう(だって自分の考えることの正しさなんて信用できないもの!)。  また、ドストエフスキーとサリンジャーの小説に出てくる登場人物は、どれもとても際立っているので、忘れてしまうことができない。善的なものも、美しいものも、正しいものも、それらとは対極にあるものもすべて、愛さないではいられない。どうしてこんなにも心を動かされなければいけないのか?