精神的な生存のために

 ある人がどういう人間であるか、誰であるかは、その人の年齢や性別によって分かるのではないし、その人の趣味や経歴によって決められるのでもない。それは、その人がどのようなふるまいで何を話すか、どんな表情をしているか、どんな行動を起こすか、などによって決められる。つまり、目の前にいるその人が「何を話し、何をするか」である。

 このように、僕たちは人前で「(能動的に)何かを話し、何かをする」ことによってのみ、他者に自分が誰であるかを知ってもらうことができる。もし仮に、どこで誰と会っても「(受動的にしか)何も話さず、何もしない」という人がいるとすれば、その人は、肉体的には生きていると言うことができても、精神的にはまったく死んでいるも同然である。なぜなら、生きているとは「人びとのあいだにとどまること」であるからだし、「人はパンだけで生きるものではない」からだ。

 そのため、「お腹が空いているときに何か食べたい」ということと、「寂しいときに人と会って何か話したい」ということとは、どちらも、「生きていたい」という人間本来の欲求にもとづいている。前者が肉体的なものであるのに対し、後者は精神的なものである、という違いがあるだけで、人間が「生きている」状態でいるためには、そのどちらの生も必要なのである。

 この後者の「精神的に生きている」ということの必要性は、現代の多くの人びとにとって、あまり真剣に考えられてはいない。それは、個人が人生設計をするにあたってもそうだし、国家が政治を行うにしてもそうである。また、この「精神的に生きている」ということは、その性質上、人間ひとりだけでは成立しない。したがって、目の前にいる人の精神的な生存は、この自分にかかっているのであって、その人自身ではないのである。

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