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諦めつつ、ベストを尽くすこと

 どんな人のどんな性質にも必ず理由があるし、自分勝手に見える人の行動にもたいてい事情はある。だから、何が起きても、誰も何も悪くない。どれほど人が傷ついても、被害を受けても、孤独になっても、驚くほど誰も何も悪くはない。  理不尽はどこにでも転がっている。  人と人、人と社会との間で起こる悲しい衝突はすべて交通事故のようなものだ。車社会である以上交通事故がゼロになることはないのと同じように、人と人、人と社会との間で起こる衝突も決してゼロにはならない。  僕たちにできることはただ、注意深く(賢く)運転して、事故が起こる確率を減らすことだけである。誰が悪いかを特定することに意味はない。  自分がどんなに事故が起こらないよう注意深く人と(社会と)関わる賢明さを持っていても、相手が不注意であれば(賢くなければ)事故は起こる。  そういうときも、相手の不注意を責めて「お前が悪い!」と言うことはできない。なぜなら、人の賢明さは、その人が生まれ育つ過程で与えられる条件にまるっきり由来するからだ。  どれくらい恵まれた条件を与えられて生まれ育つかは、人それぞれ異なっている。だから、自分は悪くないからといって、相手を批判することは一切できない。  何が起ころうが、すべて仕方がないことだ。諦めるしかない。  そういった「誰も何も悪くなくても、人は傷つくし、被害を受けるし、孤独になることがある」という理不尽さを受け入れて、それに反抗することを諦めて、それでもなお生きていかなければならない。人と、社会と関わっていかなければならない。  悟りの境地で(?)、できることを淡々とすること。自分の脳みそで考え自分自身が用意した規範に従って、何が起きてもそれを受け入れると覚悟しつつ、後悔しないようにベストを尽くすこと。できる限り賢く、注意深くなること。  それしかない。

すべては退屈しのぎ(?)

 「すべては退屈をしのぐためにあるのだ」というひとつの考えが、ちょっと前から自分の中にあって、それをふと思い出すたびにちょっとだけ悲しくなるというか、なんというか…。すごくやるせない気持ちになるのだ。(僕は頻繁にやるせない気持ちになっているな。)  人間の根底には恐ろしい退屈さがあるのだ、と仮定してみる。  人間には、悲しいでも寂しいでもない「ただひたすらに退屈」な状態が、なによりも先にあるのだ、として考え始めてみる。  必死になって(死にものぐるいで)恐ろしい退屈さから逃れるためだけに、いろんなことを思いついては飛びついて、飽きて退屈になったら他のもの、他のものへと探し回る。本を読むのも、音楽を聴くのも、働くのも、戦うのも、話すのも、愛するのも、そして考えるのでさえ、退屈さから逃れるためにすることに過ぎないのではないか?(あり得ない話ではない。)  例えば、「人を愛する!(恋するでもいい)」あるいは「大切な人がいる!」というのも、退屈が耐えられないからそういうのに真剣になってるだけなのかもなあ、と妙に冷めた目で見てしまうのだ。愛してるんではなく、愛してるということにするわけ。それを自分で自分に信じ込ませる。愛に(恋に)夢中になってる間は、退屈から逃れられるから。  「将来の夢は〇〇です!」と顔を輝かせるのも、そういうことにしておかないと人生が退屈で死にたくなるからなのかもしれない。必死になって自分で自分に言い聞かせるのだ、「お前の将来の夢はこれだ!」って。夢に夢中になる間、夢に向かって努力してる間は、退屈から逃れられるから。  つまり、それだけ…。愛がどうとか夢がどうとか、そういうのではない。すべてはいかに退屈から逃避できるかに集約されてしまう。キラキラしたもの(愛とか夢とか)に向かっていくのではなく、単に退屈さが耐えられないだけ。そういう消極的な動機がまずあって、なにかに積極的になる自分をでっち上げてるのだ。そうすれば、退屈から逃れられるから。  なんて、悲しい考え…! (注意!: 考え方はひとつではない。僕はこれを、考え方のひとつとして持っていますというだけで、これを信じているわけでは決してない。)

過剰な自意識・「はずれ」

 僕は自意識がものすごく過剰で、そのために、ときどき頭がおかしくなりそうなほどだ。僕が何かをすれば、誰かがその評価をする。「はずれ」の評価をされるのを僕は病的に怖がっていて、そのために多くの場合は何もできない。  だけど、ずっと何もしないわけにはいかない。長い間一人きりで家にいるのはかなり寂しく、とても耐えられるものではないからだ。  何かをするときは、「はずれ」にならないように人一倍考えているつもりである。人を不快にさせたり迷惑をかけたりしないよう、考えているつもりである。いつも極限まで考えているつもりである。(つもり…)  僕はどこかの集団に属しているわけではないから、「はずれ」にならないために「他のみんなと同じことをする」を選ぶことはできない。何かをするときは、すべて一人きりで考え一人きりでそれをするしかない。  しかし、僕はかなり未熟で世間知らずで、客観的に自分を見ることが全然できていないので、精一杯たくさん考えてから注意深く行動を起こしたのにも関わらず、それは「はずれ」だったということが定期的にある。  そういうときは、本当に惨めな気持ちになって泣きそうになる。これまで自分がした行動の中にも、自分では気づいていないだけで本当は「はずれ」なものもたくさんあったのではないかと思い始めてしまって、吐きそうになる。客観的に自分を見ることがどういうことなのか分からなくなり、混乱し、頭がおかしくなりそうになる。布団にうつ伏せになって枕に顔を沈めながら、自分を肯定するために他を否定してしまう自分を抑えるのに必死になる。精神的に息切れし、誰に合わせる顔もない。  こういうのをくり返しながら、スマートになっていくのだと信じたい。できることならこれから一度も惨めな気持ちにはなりたくないが、きっとそういうわけにもいかないのだろう。そのたびに人を不快にさせたり迷惑をかけたりする。考えるだけでも憂鬱で、次、耐えられるのかすら分からない。(今のところ、自分のことしか考える余裕がない。)
 今、お酒を飲んでいます。家です。最近ブログで文章を書いてないな、と思って書いています。書くことないのにむりやり書くのもなんかあれだしな、とか、書くのめんどくさいな、とか、どうせ書いてもたくさんの人に読まれるわけではない、とか。ブログを更新していない理由を思い浮かべてみればいくつか思い当たりますが、結局のところブログを更新してない理由なんて一つには決まらないわけです。より正確に言えば、ブログを更新してない理由なんて「ない」わけです。そこで例えば誰かが仮に(そんな人はまわりには一切いないし、そんなこと言われる筋合いは全くないし、言われてもなにも思わないけど、書きたいことの例としてむりやり持ってくると)「最近ブログ更新してねえじゃねえか、三日坊主かよ」みたいなことを言ってきたとして、おれはそれに答えようとしたとき、上に挙げた理由のどれを言うべきだろうか? 理由が「ない」のだとしたらなにも言わないことになるが、そんなんだったら、誰のなんの問いかけにもなにも答えないことになってしまうんではないかなあ。おれのする・しないほとんどすべての行動には、理由なんてないのかも。でも他人は(そして自分も)おれのする行動の理由(動機)についてあれこれ推測するだろう。少なくともおれは他人の行動の理由について、そんな必要ないんじゃないかってくらい推測してしまう。そして勝手に嫌気がさすのだ。場合によっては距離を置いてしまう。本当に勝手である。こういう推測が、ときどきわずらわしくてたまらない。こういう推測をされてることを想像するのも、うっとおしい。そしてこういう推測をしなきゃいけない人間関係は結構つらい。心が安らぐことがない。こういう推測をしなきゃいけない人間関係しか持たないとき、人はどうしようもなくひとりである。  正直に話すためには、ものすごくたくさん考えなければいけない。考えれば考えるほど正直になれる。逆に言えば、百パーセント正直であることはできない。話すときは必ずうそをつかなければいけない。たくさん考えていくらか正直に話せるようになれば、孤独は幾分マシになると思う。この文章で書いてるようなこと(動機を推測するとかうんぬん)が共有されるだけでもかなり違う。ほとんどの人は、中途半端に賢くて利己的で(自分のことを含む)、でも自分のそういった偽善とかエゴには無自覚である。無自覚なんだから罪はない

タイピングの練習・4

 __さあ、葡萄をどうぞ。お腹は空いておられなくとも、喉はお渇きのはず。  それはその通りなのだが。一瞬周りがしんとして私の動きを注視したように感じた。これはいよいよ怪しいと、  __私は、帰らねばならんのです。  __何故です。 と、先ほどのカイゼル髭が面白そうに問う。何故と云って……私が思わず答えに窮すると、  __此処にいればいいではないですか。此処はまだほんの入り口ですが、奥に行かれますとそれは素晴らしい眺めです。虹の生まれる滝もあれば、雲の沸き立つ山脈もある。金剛石で出来た宮殿もある。そこに住まいする涼やかな精霊たちもいる。心穏やかに、美しい風景だけを眺め、品格の高いものとだけ言葉を交わして暮らして行けます。何も俗世に戻って、卑しい根性の俗物たちと関わり合って自分の気分まで下司に染まってゆくような思いをすることはありません。  思わず引き込まれそうになる。カイゼル髭はいよいよ優しく、  __さあ、葡萄を。  しかし、何かが私の手を動かさない。私は黙ったまま動かなかった。随分時間が経ったように思った。私は思いきって口を開いた。  __拝聴するところ、確かに非常に心惹かれるものがある。正直に云って、自分でも何故葡萄を採る気にならないのか分からなかった。そこで何故だろうと考えた。日がな一日、憂いなくいられる。それは、理想の生活ではないかと。だが結局、その優雅さが私の性分に合わんのです。私は与えられる理想より、刻苦して自力で摑む理想を求めているのだ。こういう生活は、  私は、一瞬躊躇ったが勢いが止まらず、  __私の精神を養わない。  言い切ると、周りはしんとした。カイゼル髭は気の毒なくらいに真っ赤になった。怒りのためというより戸惑いのせいのようだ。  __私は……。  カイゼル髭は何か云おうとしたが、一瞬で泣きそうにして黙ってしまった。  __では、失礼。  私は立ち上がり、一礼して踵を返し来た道を歩いた。いつの間にかゴローが再び前を歩いている。心中秘かにほっとする。ゴローがいなければ帰り道が分からない。  ……遠くから微かに夜行列車の汽笛が聞こえる。ぼんやりした輪郭の向こう側で、意識がこれは夢だと再び告げる。外は雨が降っているようだ。雨の日は汽笛がよく聞こえるのだ。意識は幽明の境にあって今ならまだ夢に戻れそ

タイピングの練習・3

「覚えているかい?」彼は言った。「あの初めての日、森のはずれでツグミがぼくたちに歌ってくれたこと」 「わたしたちのために歌っていたんじゃない」ジュリアが言った。「自分が楽しくて歌っていたの。いえ、そうですらないわ。ただ歌っていただけ」(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)

タイピングの練習・2

 彼はジュリアに母が姿を消したときのことを話した。ジュリアは目を閉じたまま、身体が窮屈だったのか、ごろりと寝返りを打った。 「その頃はとんでもなくひどい子だったみたいね」寝ぼけて聴き取りにくい口調で彼女は言った。「子どもってみんなそんなものよ」 「そうだね。でもこの話の本当のポイントは……」  息遣いからして、彼女はどうやら再び寝入ったようだ。聞いてくれるなら、是非とも母の話を続けたいところだった。どんなに思い出してみても、母は際立った女性ではなかったし、まして知的な女性でもなかった。しかし彼女には一種の気高さ、純粋さがあった。それはひとえに彼女が自ら用意した規範に従って行動したからだった。彼女の感情は彼女自身のものであり、外部からそれを変えることはできなかった。実を結ばない行動は、そのために無意味であるなどとは、夢にも思わなかっただろう。誰かを愛するなら、ひたすら愛するのであり、与えるものが他に何もないときでも、愛を与えるのだ。チョコレートの最後の一かけらがなくなってしまったとき、母は我が子を胸に抱きしめていた。それは無駄なことであり、そうしたからといって何も変わらない。チョコレートが新たに出てくるわけでもなく、我が子の死や彼女自身の死が回避されるわけでもない。しかし彼女にはそれが自然だったのだ。船に乗っていた避難民の女性も小さな男の子を自分の腕でかばった。銃弾に対して紙切れ一枚同様、まったく無力であるにもかかわらず。党がどんな恐ろしいことをしてきたかと言えば、単なる衝動、単なる感情などとるに足らないものであると思い込ませる一方で、同時に、物質世界に対する人間の影響力を根こそぎ奪ってきたのだ。ひとたび党の支配に絡め取られたら最後、何を感じようと感じまいと、何を行おうと行うまいと、文字通り、何ら違いがなくなってしまう。蒸発ということになれば、その人の存在も行動も二度と話題にならなくなる。歴史の流れからきれいさっぱり取り除かれてしまう。それでも二世代前の人々にとっては、こうしたことはそれほど重大視されなかったのだろう。歴史を変えようとまではしていなかったのだから。かれらは個人の引き受ける忠誠義務というものを疑うことなく信じ、それに従って行動した。重要なのは個人と個人の関係であり、無力さを示す仕草、抱擁、涙、死にゆくものにかけることばといったものが、それ自体で

タイピングの練習・1

「いいかい、君が相手にした男の数が多ければ多いほど、君への愛が深まるんだ。分かるかい?」 「ええ、とってもよく」 「純血なぞ大嫌いだ。善良さなどまっぴら御免だ。どんな美徳もどこにも存在してほしくない。一人残らず骨の髄まで腐っててほしいんだ」 「それじゃ、わたしはあなたにぴったりね。骨の髄まで腐ってるもの」 「こうしたことをするのが好きなのか? 僕を相手に、というだけじゃない。その行為自体が?」 「好きで好きでたまらないわ」(ジョージ・オーウェル『一九八四年』)
自分がどういう人間かなんてのは、ほとんど隠してしまった方がいいなあ、と思う今日この頃。知らない人と話すときやSNSなどで、自分の好きなものや習慣、今なにをしてるかとか(今日はこういうことをしただとか)、そんなのは少ししか語らない方がいいらしい。自分が面白い人間であればあるほど、その面白さは隠してしまって、それでも自分のことを面白そうだと思ってくれた少しの人と仲良くなろうじゃあないか! 誰もなにも見てないときにすることだけが、本当に自分が必要としていることなのである。というのは建前かもしれないけど、こういう建前なら大切にするべきだ。