タイピングの練習・4

 __さあ、葡萄をどうぞ。お腹は空いておられなくとも、喉はお渇きのはず。
 それはその通りなのだが。一瞬周りがしんとして私の動きを注視したように感じた。これはいよいよ怪しいと、
 __私は、帰らねばならんのです。
 __何故です。
と、先ほどのカイゼル髭が面白そうに問う。何故と云って……私が思わず答えに窮すると、
 __此処にいればいいではないですか。此処はまだほんの入り口ですが、奥に行かれますとそれは素晴らしい眺めです。虹の生まれる滝もあれば、雲の沸き立つ山脈もある。金剛石で出来た宮殿もある。そこに住まいする涼やかな精霊たちもいる。心穏やかに、美しい風景だけを眺め、品格の高いものとだけ言葉を交わして暮らして行けます。何も俗世に戻って、卑しい根性の俗物たちと関わり合って自分の気分まで下司に染まってゆくような思いをすることはありません。
 思わず引き込まれそうになる。カイゼル髭はいよいよ優しく、
 __さあ、葡萄を。
 しかし、何かが私の手を動かさない。私は黙ったまま動かなかった。随分時間が経ったように思った。私は思いきって口を開いた。
 __拝聴するところ、確かに非常に心惹かれるものがある。正直に云って、自分でも何故葡萄を採る気にならないのか分からなかった。そこで何故だろうと考えた。日がな一日、憂いなくいられる。それは、理想の生活ではないかと。だが結局、その優雅さが私の性分に合わんのです。私は与えられる理想より、刻苦して自力で摑む理想を求めているのだ。こういう生活は、
 私は、一瞬躊躇ったが勢いが止まらず、
 __私の精神を養わない。
 言い切ると、周りはしんとした。カイゼル髭は気の毒なくらいに真っ赤になった。怒りのためというより戸惑いのせいのようだ。
 __私は……。
 カイゼル髭は何か云おうとしたが、一瞬で泣きそうにして黙ってしまった。
 __では、失礼。
 私は立ち上がり、一礼して踵を返し来た道を歩いた。いつの間にかゴローが再び前を歩いている。心中秘かにほっとする。ゴローがいなければ帰り道が分からない。
 ……遠くから微かに夜行列車の汽笛が聞こえる。ぼんやりした輪郭の向こう側で、意識がこれは夢だと再び告げる。外は雨が降っているようだ。雨の日は汽笛がよく聞こえるのだ。意識は幽明の境にあって今ならまだ夢に戻れそうだ。私の中の何かが、向こう側に引っかかっている。雨の気配が障子を通して室内を侵してゆく。……そうだ、あのカイゼル髭の泣き顔だ。弱くて優しい人なのだ。それなのに私は随分力任せにあの人をはねつけたような気がする……。
 雨は音もなく降っているが、時折破れた雨樋から雨滴がまとめて落ちるのが聞こえる。私はただそれを聞いている。次第にそれが遠く微かになってゆく。最初は草原だった。ゴローが出てきて先を行くのだ。そうだ。そしてどこまでも下ってゆく。切り通しがある。そうだ。楽隊の音が聞こえてきて……。広場だ。私は真っ直ぐに円卓に向かって歩いた。先ほどと全く同じしつらえ。カイゼル髭は何事もなかったかのように穏やかな顔をして此方を見ている。
 __先ほどの件ですが。
 私は何よりも先にそのことを伝えようとしている。
 __お心遣いは有り難いと思っています。私はあなたを否定するつもりは毛頭なかった。それどころかあなた方に憧れる気持ちさえある。さっきは少し、自分に酔い、勢いを付けなければ誘惑に負けそうだった。だがそれは大変失礼な態度でもあったと帰ってから分かった。言葉足らずですまなかったと思っています。私には、まだここに来るわけにはいかない事情が、他にもあるのです。家を、守らねばならない。友人の家なのです。
 カイゼル髭は目を閉じてにっこり頷いた。隣のご婦人が、
 __そのことに気づいたのだわ。
と、扇子を口に当て、驚きを込めたひそひそ声で周りに囁く。向かいの紳士も、
 __良く覚えていて戻ってきた。
 __重畳、重畳。
 皆に安堵と優しさの波が拡がってゆく。私は葡萄を見ながら、美しいなと思っている。ふと、はて、ここは夜なのか昼なのか、という疑問が頭を掠め、空を見上げる。すると空は月長石で出来た巨大なレンズのよう、まるでこれは水の面、此処は水底の国のようではないか……湖底か、と思う。(梨木香歩『家守綺譚』)

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