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信仰と政治の領域

 信仰はまったく個人的なものである。そのため信仰にとっては、法も警察も必要ないはずで、他者に介入することも他者の介入を受けることもない。あるのは自分の良心だけである。内にある良心が、外にあるどんな法や警察よりも厳しく、自分の心を問いつめるのである。「神による裁き」だとか、地獄とかいったものとはじっさい、この「良心の呵責」の物質的表現にほかならない(そのため、信仰を持たず、したがって良心もない人間にとっては、天国も地獄もないであろう)。  信仰が個人的なものでなくなったとたん、それは信仰ではなく、政治の(もしくは戦争の)領域へと侵入していく。そこで問題となっているのは、自分ではない者との共生というだけではなく、自分と意を同じくしない者との共生である。あらゆる僭主的な試みはすべて、この「他者との共生」を放棄している。これはもはや神を仰いでいるのではなく、神と等しくなろうとしているのである(神を非難することと、自らを神と等しくした人間を非難することとは、とかく混同されがちである。だがじっさい、その二つはまったく異なるというだけでなく、反対のことでさえある)。  政治の領域において、「複数のもの」が机にあるということがどれほど大事であるか、は歴史が教えてくれるだろう。知性、合理的な推論、計算によって考えられた政治体はどれも、「一つのもの」がすべてを決めるような具合であり、これはまるで人間が神であるかのようにふるまうことである。しかし当然のことだが、人間はだれも神ではないし、現実は理想のようには動いてくれない。政治の領域では、神を信じるということよりむしろ、人間はだれも神ではないということ(それでもこれは神を認めないことには始まらないように思う)を、その基礎としなければならない。
 この世的な生と自己と欲望とに縛られている、神でもなければ聖人でもない僕たち人間にとっては、福音書におけるイエスの教えを書かれてあるとおり実践することなど、不可能である。しかしだからといって、その意義が失われてしまうということはまったくない。およそ人間が想像し得るかぎりにおいてもっとも善い意志と行ないとが、福音書には書かれてある、ただそれだけであまりに偉大なのだから(おそらくこれは、他のすべてのまっとうな聖典にも当てはまるものである)。実際のところ、それなくして、僕たちはどうやって善悪を知ることができるだろう? あるいは、殴られたら殴り返すことが「平等」であると考えてしまうような生き物が、平等に愛が分け与えられている状態というものを、どうやって理解することができるだろう? 知性や富を与えられた人間が、神ということなしに、どうやって自らの傲慢さを反省することができるだろう?
 そもそも人間が生まれてくること、またそれとともに、生まれ出ずる存在のおかげで人間が行為しつつ現実化することのできる新たな始まりも生まれること、ここに「奇蹟」は存する。行為のこの面が完全に経験されている場合にのみ、「信仰と希望」といったようなものがはじめて存在しうるのである。(…)われわれはこの世で信頼をいだいてよいのだということ、そしてこの世に希望をもってよいのだということを、クリスマスのオラトリオが「よき知らせ」を宣べ伝えている次の言葉ほど、簡潔に美しく表現したものは、おそらくどこにもない。——「われわれに一人の子どもが生まれた」。 (ハンナ・アーレント『活動的生』)
 神学、哲学、それから政治学にとても心惹かれている。大学を卒業するために必要なことは、物理学を理解していることの証明だけなのだが。これから先の人生において自分が何に力を注ぐべきなのか、それをずっと考えているのだけどまったく分からない。とりあえず逃げるように本を読んでいる。いまは『全体主義の起原』を読んでいる。とても面白い。  父方の祖父母からクリスマスの手紙が届いた。その一枚目には、天使が羊飼いたちに「喜ばしきおとずれ」を告げるという、福音書のもっとも象徴的な箇所がそのまま引用されている。「こわがることはない。いまわたしは、民全体への大きな喜びのおとずれを、あなた達に伝えるのだから。実は今夜ダビデの町に、あなた達のために一人の救い主がお生まれになった。この方が救い主(キリスト)なる主である」(『ルカ』2・10−11。もっともこれは岩波文庫の訳だが)。  バッハの(と言っていいのか分からないが)「メヌエット ト長調」をくり返し聴いている。静かだけれど喜びに満ちた感じがあり、とても気に入っている。この「静かだけれど、喜びに満ちている」というイメージを、さらには「われわれはこの世で信頼をいだいてよいのだということ、そしてこの世に希望をもってよいのだということ」を、頭につよく思い浮かべている。
 人の行ないを赦す(なかったことにする)ことができるのは、その人の抱える苦悩を知るか、想像するかできる場合においてである。その人の抱える苦悩に頭を下げ、苦悩に免じて赦すのである。しかしそういった苦悩の多くは、悲しいことに、それを抱える本人にしか分からないため、僕たちはいついかなるときも人を赦せるというわけではない。これがたとえば、他者の経験および思考過程をそっくりそのまま自分の脳みそに移植できるとしたら、僕たちは、どんな人のどんな行ないをも積極的に赦したがるだろうし、さらには、自分の不寛容さと恵まれていることの方をむしろ責めるようになるのだろうが。
 愛には相反する二つの種類がある。人を選びかつ気まぐれな「欲求としての愛」と、人を選ばずかつ持続的な「秩序づけられた愛」とがそれである。前者は「愛されよう、与えてもらおう」とする人間の欲求であり、後者は「愛そう、与えよう」とする神に由来する愛、すべての人びとへの永遠なる愛である。僕たちの抱く愛はそのどれもが、この二つの愛の混合なのであり、どちらか一方だけであることはない。
 みんな好きに自由に生きたらいいと思います。そして迷ったとき、分からなくなったときだけ、自分はどうあるべきかを良心に照らし合わせ、勇敢になって、善いことの方へ進めばいいと思います! 良心とはすなわち、外から与えられる法律、道徳、教義ではない、内に見いだされる「人間の心に記された法」(アウグスティヌス『告白』第二巻四章・9)である。あるいは多分、このように言うこともできるだろう。「律法はモーセをもって与えられたが、 良心 はイエス・キリストをもってはじめてあらわれた」のだと。あと『カラマーゾフの兄弟』第六編「ロシアの修道僧」は本当にすばらしいので、そこだけでもぜひ読んでみてほしいです。
 ナザレのイエスの驚くべきところは、通常の人間がていねいに思考を重ねれば、当然たどり着くであろう帰結とは、まったく反対のこと——それでいて一つも間違ってはいないこと——を、いともたやすく述べてしまうところである。右の頬を殴られたら左の頬を差し出す、九十九人の正しい人のためよりむしろ一人の罪人のために喜ぶ、一番偉い者がそうでない者たちに仕える、といったことを説くのである。このような教えは、ほとんど革命的とも言えるのであり、イエス以降、彼の教えと似たようなことを少しでも述べたければ、どうしてもイエスのことを引き合いに出さなければならないほどである。

自己と他者との違い

「キリストの戒律のままに人間を自分自身と同じく愛すること——それは不可能である。地上における個としての人性の法則がわれわれを縛る。自我がさまたげとなる。ひとりキリストのみがよくなしえたが、しかしキリストは、太古から人間がそれをめざし、また自然の法則によってそれをめざさざるをえないでいる永遠の理想である」(ドストエフスキー)  自己と他者とはまったく異なっている。「この自分」という存在と、それ以外のすべての存在との間には、とてつもなく大きな差がある。ここで、僕はいまどのような差をとくに問題にしたいのかというと、それは「扱い方」の差である。つまり、僕たちが「この自分」を扱うやり方と、他者を扱うやり方とは、あまりにも違いすぎているのである。この事実は、当たり前のように思えるかもしれないけれど、よくよく考えてみると、まったく当たり前のことではない。  自己と他者とをまったく平等に扱うことのできる人間が、はたしているだろうか? 「自己」というものから脱し、あたかも自己と他者の頭上にいるかのような存在となって、自他を分けへだてなく愛することのできる人間が、はたしているだろうか? もちろん、すべてのまっとうな宗教的探究はそれを目指しているのだし、それにかなり近いところまでいった人間なら、いままでにも何人かいただろう。しかし、それも完全ではないはずだし、僕たちのような一般的な人間となれば、なおさら不可能である。  それを不可能にしているものはいくつかあるけれど、その中でも一番分かりやすく、反論の余地のないものが一つある。肉体的な苦痛(それは死へと続いている)というものが、それである。殴られるだとか、ナイフで刺されるとか、飢餓状態になるとかいったことを想像してほしいが、これらの苦痛ほど、自己と他者とを分かつものは他にないのだ。苦痛を感じている自己は、それ以外との連絡を絶っているにも等しい。したがって僕たちは、それを恐れるあまり、誰かが餓死しなければいけないのであれば、自分が餓死することよりも、他人が餓死することの方を望んでしまう。そして実際、貧しい人びとのために全財産を寄付するようなことを、僕たちはしないのである。  肉体的な苦痛というものを例にとったけれど、自己と他者とを分かつものは、もちろん他にもある。他人が選ばれて自分は選ばれなかっただとか、自分が持っていないものを他人が持って

それぞれの区画

人びとは それぞれの区画を与えられ そこにある喜びと それから 苦しみとを 受けとっている 私はあなたではないし あなたも 彼らではない 感情は 水のかたまりのように 流れ 作用し 反作用する となりの区画におしよせ おしのけ ひき返す おしよせ おしのけ そのまたとなりへ それから 遠くへ そして 私は この区画を与えられ ここにある喜びと それから 苦しみとを 受けとっている 感情は 水のかたまりのよう あなたは 私のとなりの区画を与えられ そこにある喜びと それから 苦しみとを 受けとっている 感情はやはり 水のかたまりのよう
 回心とはいったい何だろう? 徐々にではない、ある一つの瞬間を境にして、これまでの自分がいかに間違った考えにとらわれていたか、頭ではなく心の奥だけで理解し、良心の呵責にさいなまれるとともに、泣きながら大きな喜びを感じる、といった現象。家族、友人、知人と、これまで関わった人たちすべてを含む、世界中のすべての人びとに対して、感謝と懺悔と愛着の気持ちをおぼえる。ごくたまにある楽しいことをのぞけば、人生は苦しみの連続である、と信じて疑わなかった人間が、自分は幸せ者であると決めてかかり、いまこの瞬間から死ぬそのときまで、自分がどうあればいいかについての、確固たる指針を手に入れるのである。
 そしてまさに、ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きることを望まない——あたかも君と君の上司が、この世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように——政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねばならぬ理由、しかもその唯一の理由である。 (ハンナ・アーレント『エルサレムのアイヒマン』)
 私語厳禁の名曲喫茶が大好きで、そこでは、大音量のクラシックがかかっている店内に居座りながら、ものをじっくり考えることも、本を読むことも、文章を書くこともできるし、そして何と言っても、その場所では、いっさいものを考えず、ひたすら静かにしていることができる。「考えること、いや考えることでさえなく、ただ黙って一人になること(To be silent; to be alone)。(…)そこには自由があり平穏さがあって、さらに歓迎すべきことに、何かすべてを一つにまとめあげる力、安心感に支えられたくつろぎにも似た気分が感じられた」。店内にどれだけ多くの人がいようが、そして顔見知りがいようが、そこには、自分の家よりもはるかに私的な——あるいは内面的な、したがって一人きりの——空間がある。
 そのとたん、私はすっかりうろたえて、度を失ってしまったが、それでも私たちは馬車に乗るために外へ出た。「ちょっと待ってくれないか」と私は彼に言った。「すぐ戻るよ、財布を忘れたんだ」そう言って私は一人で家にとって返すと、まっすぐアファナーシイの部屋へ入って行った。「アファナーシイ、ぼくはきのうおまえの顔を二度も殴った、どうかぼくを赦してくれ」私が言うと、彼は、おびえきったようにびくりと身震いして、私の顔を見つめている。私はこれではまだまだ足りないと見てとると、いきなり、肩章のついた軍服を着たままで、彼の足もとにがばと身を投げ、額を床にこすりつけ、「ぼくを赦してくれ!」と言った。これにはさすがに彼も茫然となって、「中尉殿、旦那さま、いったいこれは……勿体のうございます……」そう言うと、ふいに自分も、さきほど私がしたように、両手で顔を覆っておいおい泣きだしてしまった。そして、つと窓のほうに顔をそむけると、あふれる涙にはげしく全身をうち震わせた。一方、私は同僚のもとへ駆け戻り、馬車に飛び乗ると、「やってくれ」と叫んだ。そして、「どうだ、勝利者を見たかい、きみの前にいるのがその勝利者だぜ!」と言ってやった。 (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)