自己と他者との違い

「キリストの戒律のままに人間を自分自身と同じく愛すること——それは不可能である。地上における個としての人性の法則がわれわれを縛る。自我がさまたげとなる。ひとりキリストのみがよくなしえたが、しかしキリストは、太古から人間がそれをめざし、また自然の法則によってそれをめざさざるをえないでいる永遠の理想である」(ドストエフスキー)

 自己と他者とはまったく異なっている。「この自分」という存在と、それ以外のすべての存在との間には、とてつもなく大きな差がある。ここで、僕はいまどのような差をとくに問題にしたいのかというと、それは「扱い方」の差である。つまり、僕たちが「この自分」を扱うやり方と、他者を扱うやり方とは、あまりにも違いすぎているのである。この事実は、当たり前のように思えるかもしれないけれど、よくよく考えてみると、まったく当たり前のことではない。

 自己と他者とをまったく平等に扱うことのできる人間が、はたしているだろうか? 「自己」というものから脱し、あたかも自己と他者の頭上にいるかのような存在となって、自他を分けへだてなく愛することのできる人間が、はたしているだろうか? もちろん、すべてのまっとうな宗教的探究はそれを目指しているのだし、それにかなり近いところまでいった人間なら、いままでにも何人かいただろう。しかし、それも完全ではないはずだし、僕たちのような一般的な人間となれば、なおさら不可能である。

 それを不可能にしているものはいくつかあるけれど、その中でも一番分かりやすく、反論の余地のないものが一つある。肉体的な苦痛(それは死へと続いている)というものが、それである。殴られるだとか、ナイフで刺されるとか、飢餓状態になるとかいったことを想像してほしいが、これらの苦痛ほど、自己と他者とを分かつものは他にないのだ。苦痛を感じている自己は、それ以外との連絡を絶っているにも等しい。したがって僕たちは、それを恐れるあまり、誰かが餓死しなければいけないのであれば、自分が餓死することよりも、他人が餓死することの方を望んでしまう。そして実際、貧しい人びとのために全財産を寄付するようなことを、僕たちはしないのである。

 肉体的な苦痛というものを例にとったけれど、自己と他者とを分かつものは、もちろん他にもある。他人が選ばれて自分は選ばれなかっただとか、自分が持っていないものを他人が持っているだとか、自分が嫌悪する性質を他人が持っているだとか、具体例をあげればきりがない。以上のことから分かるように、僕たち(神ではない)人間は、自己というものにどうしようもなく縛りつけられている、不完全な存在なのである。僕たちはまずそのことを自覚しなければならないし、そういった基準で、つまり「どのくらい自己を扱うのとおなじように他者を扱うことができるか」といった尺度で、自分の気持ちと言葉と行ないとを評価し、そのつど省みなければいけないのである。

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