投稿

3月, 2019の投稿を表示しています

思考・言葉・行為(暴力含め)

 思考が、言葉と行為(暴力含め)を決定する。では、思考を決定するものはなにか。それは(他者から与えられた)言葉である。決して行為ではない。言葉がなければ思考はできない。(因果関係の話である。)思考は言葉を決定し、言葉は思考を決定し、思考は言葉を決定する。この思考と言葉の繰り返しによって、特定の思想が社会に広まっていく。思考を言葉にせず行為にだけしたとき、思想の普及はそこでストップする。  どれほど賢い人でも、善い人でも、言葉がなければ思考はできない。思考は、すでに与えられた言葉を編集する作業であるから、素晴らしい言葉が与えられなければ、どんなに素晴らしい人でも、素晴らしい思考をすることは不可能である。  暴力は、周囲を沈黙させる。暴力は権力的なものが行使することができる。権力的なものは、暴力を行使することで周囲を沈黙させる。沈黙した空間において、言葉を発することができるのは権力者だけになる。言葉が思考を決定するのであるから、その空間において、権力者の言葉だけがその空間にいる人々の思考を決定する。権力者の言葉を用いて思考した人々は言葉を発し、権力者の言葉を用いて思考した人々の言葉を用いて人々は思考する。こうして、権力者の思想は暴力を始まりとして広まっていく。言葉はますます偏っていき、思考はますます偏っていく。リベラルでない。  行為はなにも語らない。思考を、行為だけではなく言葉にするというのは、かなり大きな意味を持つ。たしかに、言葉にするというのは簡単で、行為のように直接的な効果はないため、言葉は偽善である。偽善でない言葉など、原理的には存在しない。しかし、言葉の総体が、思考の総体である。言葉の総体が、社会の風潮を決定する。自由にしゃべりしゃべられる空間においてのみ、人々は自由にあれこれ思考することができる。(ここではっきりと断っておけば、偽善は、当人がそれを偽善だと認識していようがいまいが有害なものである。)  偽善か沈黙か、そのバランスを考えたい。

耐えられない! という激しい衝動

 自分のなかにあるものを洗いざらいぶちまけてやりたい、という衝動が少なからずあるし、それは不可能である、あるいは抑えなければならないということに、耐えられないときがある。心の中にあるものをすべて外に出してしまいたい、という衝動。  不可能であるのは、表現の問題である。自分の中にあるものをすべて、自分自身が認識できるわけではない。ところで僕の場合、認識はたいてい言葉とともにある(ときどきイメージだったり、リズムだったりするのかもしれないけれど)。そして当然、認識できないものは表現のしようがない。言葉や行為にできないものは伝わらない。  抑えなければならないのは、人間関係の問題である。洗いざらいぶちまけたとき、それをすべて受け止めることのできるほど親密な人が、今のところおれにはいない。受け止めることのできない人に洗いざらいぶちまけたとしたら、その人を盛大に困らせるだけだし、暗黙の了解で(それから法律で?)これはやってはいけないことになっている。(もっとも、ちょっと踏み込んで反応を見てみないことには、受け止めてくれるかどうかの判断もできないのかもしれないけれど、ダメだと思ったら潔く諦めるのが理想である、という感覚を日々学んだり。)  そうなると、エネルギーだけが体の中をぐるぐるまわってしまって、そいつのやり場に困るわけだ。わけもなく叫び出したくなるときがある。もちろん、それでなにかがすっきりすることはない。無意味な行動だ。  寂しい、気が滅入る、耐えられないという感情、これはものすごく激しい衝動だ。というかそもそも感情というのはすべて(それが怒りだろうが喜びだろうが悲しみだろうが)激しいものだ。気が滅入っているとき、極めて元気がないことには間違いないが、それでもエネルギーがないというわけでは決してない。だから、そういうときは冷静、理性的ではいられない。  感情という激しい衝動……これがあってよかった、と思うときも、こんなもんなくてよかったのに、と思うこともある。そういう、いい部分と悪い部分をひっくるめてそれがまさに、いいなあ! と思ったりもする。しかしやっぱり、耐えられないときは耐えられない。そういうときは、自分(理性)で自分(感情)に「まったく……おまえはほんとにめんどくさくて世話のかかるやつだな。やれやれ」とか言いながら、優しい大人が泣いている子どもをなだめ
 一部の人から拒絶されたときに、まるで世界から拒絶されたかのような衝撃を受けることがあるけれど、実は全然そんなことはない、世界から拒絶されたわけでは決してないんだ、ということをおぼろげながら考えてきたし、ここでやっと言語化できた。  やるべきこととして、時間をおいて気持ちが落ち着いたら、世界を広げることを考えればよいと分かったし、これからもそうするつもりだ。  おれが拒絶した人たちにも、単におれが拒絶しただけだ、ということをできることなら伝えたいし(拒絶してるので無理だけれど)、彼らが元気になれることを祈っている……これはお世辞でもなんでもなくて、誰かから拒絶されたとしても、世界から拒絶されたわけではないんだ、ということをほんとにみんなに(おれの好きな人たちにも、嫌いな人たちにも)分かってほしい……いや、ほんとにみんな元気になれればそれがいいとおれは思っている……(少なくとも、今は)。  なんだ? このきれいごとの文章は、という感じなんですが。

意識と数の感覚

 街中に出ていって、僕の視界にたくさんの人が入ってくると、脳みそは勝手におれとおれ以外の人との間に境界を引く。二人で会っているときは1対1だけれど、百人で集まれば1対99という実感が真っ先にくる。これは、僕が意識というものを持っており、しかもそれがかなり強烈な意識であるために、発生する実感だろうと思う。  しかしよくよく考えれば、当然、他の人も意識を持っている。一人ひとりの人間が、僕と同じように、外部からの刺激に否応なく左右される脆弱かつ強烈な、自分でコントロールすることがときに困難な意識を、自発的ではなく強制的に持たされている。  であるならば、正しい境界は1対99ではなく、1対1対1対……1対1である。これをいつも頭にたたき込む。忘れたら反省して、もう一回頭にたたき込む。こうもめんどくさい思考と感情に毎日毎日ふりまわされているのは、決しておれだけではなく、みんなだ。みんなときとして大変な思いをしている。平然としているように見えたとしても、だ。  たくさんの人が集まれば集まるほど、1対99のような数の感覚が芽生えてきて、他の人にも自分と同じような意識があるということが、いとも簡単に分からなくなる。大きな組織に従事する人が、組織の末端にいる人も自分と同じような脆弱かつ強烈な意識を持っているということに、思いを馳せられるだろうか? 戦争によって何千万人という人が殺されたとする。しかし、殺されたのは一人ひとりである。おれが殺されるのと同じように、あなたが殺されるのと同じように、一人ひとりは殺される。「何人死んだか」よりも、「死ぬとはなにか」を考えなければいけないのではないか?  人間は、一人であるときと1対1であるときが最も健全だ。人数が増えれば増えるほど分からなくなる。誰かを、その人は意識がないものとして、あるいはその人にも意識があるのだということを忘れて扱うとき、人は物になる。物プラス意識でやっと人になるからだ。人を、物ではなく人として扱うというのは、自分と同じくその人にも意識があるという感覚を、つまるところ1対1のときに感じるあの感覚(自分の発言や仕草はその人に対して向けられているのであり、その人の発言や仕草は自分に対して向けられているのであるという〝サシ〟の緊張感)を、常に忘れないで人と接することだろう、とか思う。
 僕が大事にしているものについて、それを大事にしていない人に理解してもらえるように言語化することは非常に難しいし、例え、むりやり言語化できたとしても、おぼろげでつたない説明になってしまって、その説明を辛抱強く聴いて理解しようとしてくれる人は、それを大事にしていない人の中にはいないだろう。彼らは、早急さや、はっきりとした説明を求めているし、そのように説明できないものはすべて、くだらないものだと思い込んでいるんだから。  はっきりと言えるものを大事にしている人とは、あまり分かり合える気がしない。いざ面と向かって、分かり合おう! というとき、相手ははっきりとしたものを提示してくる。それははっきりとしているから、こちらはすぐに理解するし、たいていの場合、改めて理解するまでもないものだ。これまでに嫌と言うほど聞かされてきたものであることが多いからだ。対してこちらは、なんとかぎりぎり頑張って必死に言語化する。曖昧な言葉も使う。どもりながら、う、う、う! という感じである。そもそもがはっきりと言えないものを大事にしているんだからしょうがない。それなのに、はっきりと言語化できないことによって、なんだか不利な立場に追いやられる。理解されず、疎外感を感じる。  それでも! 分かる人には分かるのだ! と、分かってくれる人を前にすると感動する。もっとも、分かってくれる方もはっきりと言語化できず、これほどまでに自分は分かっているのだ! と伝えるための適切な言葉を見つけるのにも一苦労で、最後には、お互いが無言で頷き合うような形に収束する。はっきりと言語化できないけれど大事なものを、それぞれが心に持っており、それらはきっと同じものである、という感覚だけを共有する。(同時に、違うものかもしれない、という不安もそこにはある。)そういう人に出会えるのってまれだから、これからも機会を設けてお話をしませんか、とちゃんと言えば良かったな、と後から悔やんだりするのである。  ぱっと見では分かりづらいけれど、話してみたらものすごく分かり合えるという人が、きっと近くにもいるはずだ。そういう隠れた人を見つける嗅覚がほしい。そしてその嗅覚が反応するのであれば、一度くらいしか会ったことのない名前も知らない人とも、試しに話をしてみたいのだ。声をかけるのには勇気がいる。分かり合えないかもしれないし、仮に分かり合えるポ
 あ〜! ここに、ごちゃごちゃした思考と感情が渦巻いているの、耐えられん! ってときがある。目的に向けて努力するのも、本読んだり音楽聴いたりするのも、友人や恋人、家族と一緒に過ごすのも、渋谷のハロウィンで騒いだりデモに参加して大声出したりするのも、酒飲んだりコカイン使ったりするのも……全部、我を忘れるためにやるんだな。恐ろしく退屈なとき、なんかこう、自分の意識がどうしようもなくそこにあるのが耐えられなくなるでしょう? 自意識は怖い。太宰治の『人間失格』、読んだことないので読んでみたい。有名人とか、自意識やばそうで辛そう。  自分について考えるの、めちゃめちゃ怖い。なぜだ? なんなんだ、う〜ん。サルトル、すごく興味あります! 誰かと一緒に居ても、自分を俯瞰して見ているもう一人の自分なんてものが現れているときは寂しい。自分を見ているもう一人の自分が「本当の」自分で、そいつは人前には出ていない。自分は世界から疎外されているのだ、そりゃ寂しい。初対面の人と会うなんてときは、こういう理由ですごい神経を使う。仲良くなってきたら我を忘れて振る舞える。その人と居るときは我を忘れることができるというのが、素晴らしい人間関係なんですね、おそらく。どんなに好きな相手でも、その人からどう思われているかずっと気になって仕方がない、自意識が消えない、ってんなら関係を維持するのは難しいだろう。逆に、仲良くなりたい相手に対しては我を忘れさせようとすればいいのか? 驚かず、何食わぬ顔で、平然としていよう。それがどうした、全然どうってことないよ、みたいな感じで、ふ〜ん、とか言って、たまに核心をつけばいい。  お酒についてですが、ハイネケン飲みやすくて良かった。それからandymori好きなので、ウィスキー飲んでみたら、まあ、悪くなかったのでよく飲むことにした。今も飲んでる。体がポカポカしてとてもいい。ところで『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の主人公はウィスキー飲みすぎ。「ジントニックで踊ろうよ」とか歌ってたのを思い出してジントニック飲んでみたら、これも美味しかった。andymoriの『ダンス』という曲が大好きだし、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』という本も大好きだし、ミスチルの『Dance Dance Dance』という曲は、まあまあ好き、くらいだけど、これから大好きになるの
イメージ
『ファインマン物理学Ⅰ』 p47  自分のこれまで考えてきたこと、積み上げてきたことに対して、「どうでもいい!」と力強く言い切ってしまうことによってのみ、若さは保たれる。僕は死ぬまで若くありたい。経験なんて、くそくらえ。  他人の書いた文章や、他人の発した言葉なんてのは、参考にはすれど、縛られてはいけない。誰々がこう言っているんだから正しい、なんてのはあり得ない。瞬間、瞬間で、絶えず自分が腑に落ちるかどうかを問い続けなくてはならなくて、腑に落ちたときだけ、自分の言葉のように使うことができる。  もっとも、そういうことを繰り返しやっていくと、自分の脳みそで考えることをしたくなってきて、そうして書いた自分の文章や、自分の発した言葉の方が、他人の文章や言葉よりも腑に落ちるようになる。こうして自分の言葉を獲得する。これは大事なことである。  だけれども、自分の書いた文章や、自分の発した言葉もすでに過去のもの、つまり他人のものである。やはりここでも、現在の自分が腑に落ちるかどうかを、絶えず問い続けなければならない。  そんなことを突き詰めていくと、自分の文章や発言、つまり自分のこれまで考えてきたことなんてのは、全部忘れて現在に臨んだ方がとてもいいよ、と思う。もちろん、記憶喪失みたいに忘れてしまうことはできないんだから、「どうでもいい!」と力強く言い切ってしまうくらいしかできず、そしてそれがちょうどいい。  したがって、自分のこれまで考えてきたことに照らし合わせて、人や物事を評価するなんてのは、愚の骨頂だ! すべてを忘れて、今、目の前で繰り広げられているリアリティだけを信じて、まさにそのとき自分が感じること、思うこと、考えることに、どこまでも意識を開かなければならない。しかし、これを徹底して実践するのは難しく、たぶん年をとればとるほど難しく、だからこそここで「愚の骨頂だ!」と叫んで、自分で自分に言い聞かせている。ま、まだ僕はハタチですが……。  そして、おれはこの文章も忘れる! もう、終わったことだ。 どうでもいい!  はい
 人と人とが仲良くなるというのは、奇跡に近いことである。仲良くなるためのアプローチ次第で、仲良くなれるもんも仲良くなれなくなるし、それから運もある。そしてなにより、アプローチうんぬん以前に、双方が仲良くなりたいと思っていなければ決して仲良くなることはできない。それも、双方が同じくらいに仲良くなりたいと思わなければならないのである。こんなハードな条件をクリアしてやっと、人と人とは仲良くなれる。あまりにもハードだ。  自分が仲良くなりたいと思っているのに、相手が仲良くなりたいと思っていないと分かったとき、人は傷つくけれど、これは誰のせいでもない。誰一人として、悪い人間はそこにはいなくて、だから、そういうときは自分一人で静かに泣くしかないし、逆に、相手が仲良くなりたいのにも関わらず、それに自分が応えられないときは、相手に一人で泣いてもらうしかない。自分は相手に対してどうすることもできない。この種の悲しみは、基本的には一人で背負わなければならないものだ。ここに孤独が与えられる。ええと、「孤独」とかかっこつけて言う必要もないですね……要は、寂しさだ。まあ、僕はあんまり涙とかは出ないですけど。  やがて、一人で泣くのが怖いので、相手に期待するのをためらうようになる。ためらえばためらうほど、相手に、あまり仲良くなりたくないんだな、と思われたりもしてしまう。  だから、相手の考えていることはいつも分からない。仲良くなりたくないのか、期待するのをためらっているのか。仲良くなりたいのか、僕を傷つけたくないがために仲良くしてくれているのか。分からない、分からない……。それでも、分からないなりに最善を尽くして、期待して、一人で泣くのも覚悟して、相手に臨むのである。だから、人と人とが仲良くなるというのは、本当に本当に奇跡に近いことだ。  誰一人として、相手を傷つけてやろうなんて悪意を持っていない世界であるとしても、必ず人は傷つくはめになる。驚くほど誰も悪くないのにも関わらず、みんな必死に右往左往して、頭を抱えることになる。そういうのを考えると、やるせないな……と思うけれど、村上春樹の小説に登場するラジオMCは、「 僕は・君たちが・好きだ。 」とか言ってるし、僕も、そういう全部を、いいことと悪いことの全部をひっくるめてそれが、いいなあ……と、余裕のある日は思うことができる。  そして
 いろんなことを言っているけれど、根底ではいつも、わからない!    わからないん、だ!    と叫んでいる。僕が人前で自分の考えを話すようなとき、このわからなさを、できるだけ前面に押し出したい。う〜ん、って唸りながら、しどろもどろになりながら、丁寧に言葉を選びながら、これは僕の解釈でしかないとかなんとか前置きしながら、自分の発言が相手にとってどれほどの価値があるんだろうか、と悩みながら、こう思う、こう考えたことがある、と言いたい。(しかし、この釈然としない態度を見て、僕をなめてもらっちゃあ困る!) これは、子ども相手でもそうであるし、むしろ、子ども相手でこそそうでありたい。人によっては、歯切れの悪さにイライラするのかもしれないし、ズバッとわかった感じで言ったほうがかっこいいのかもしれないけれど、これは僕の強い思想である。わからないです。はっきり言いあげて片付けられるものなんて、なにもない。何事に対しても、わかることなんて一切できない。であるならば、わかることをしゃべるんではない。わからないなりにしゃべる。それしかないだろう。(ま、どうやらわかっているらしい人にぐいぐい来られると、こっちもムキになりますけれどね!    そういえば昨日しゃべり方を褒められたナ、嬉しい。)
 なんかもうだめだなあ、というときは部屋で穏やかに穏やかに過ごす。気が向いたら本を読んだり、それが嫌になったら映画を見たり、音楽が聴きたければ音楽を聴く。それでもだめなら、ただ、ざわざわした心の有り様を静かに丁寧に認識して、気分が落ち着くのを待つ。それでもだめなら、大抵の場合、体や顔や歯が汚かったりしているはずだから、シャワーを浴びて髭を剃って歯を磨く。体を動かしながら自分が少しずつ清潔になっていく過程で、ちょっと気分が明るくなってくる。それが終わったあと、ちょっと体が疲れて眠たくなっていたら昼寝をする。清潔な状態で昼寝をするのは最高に気持ちが良いです。昼寝に限らず、清潔な状態になってから寝るというのはいいものだと最近になって気がついた。規則正しい生活というのは、社会的に正しいという以上に、精神的に正しいという側面があるのかもしれないことを、こんなにも気分が落ち込むようになってからようやく分かってきた。ここまで実感した上で、規則正しい生活を実践した日には、なんだか自分が真っ当な人間であるように思えてきて、それが精神的な支えになったりもする。昼寝も済んでだんだん調子が出てきたら、コンタクトレンズを入れる。視界が鮮明になるので、さらに調子が出てくる。このときまでには完全に活動的人間になっているので、もう大丈夫です。問題ない!

5

   人間だけが、渇き、飢え、愛情、敵意、恐怖などのようなものを伝達できるだけでなく、自分自身をも伝達できるのである。(ハンナ・アーレント『人間の条件』)  わたしは、お前のいうことに反対だ。だが、お前がそれを言う権利を、わたしは、命にかけて守る。 (ヴォルテール)  私が世界に存在している、とはなんであるか? ここでの「世界」というのは、少し特殊な意味合いを持たせている。それは、部屋に一人きりでいるときには現れない、二人以上の人間が集まって、互いを認識し合うときに初めて、その姿を現すところのものである。人間以外の動物はこういったものを持たない。「世界性」という語の方がニュアンスとしては正しいだろうか? (注意。僕は明らかに『人間の条件』に出てくる「世界」という語に影響を受けているが、必ずしもこの本で使われているような意味で僕がこの文章を書くとは限らない。)  つまりざっくり言えば、僕が人前に現れるとき、僕は世界に登場するということになる。そして同時に僕は、そこにいる人をも世界に登場させるということになる。しかし実際は、ただ人と一緒の空間にいる、顔と身体が人によって見られているというだけで、僕たちが世界に存在することになるわけではない。やはりコミュニケーションがなければいけない。それは会話であったり、仕草であったり、アイコンタクトであったりする。  いやしかし、単にコミュニケーション、つまり相手がアクションを起こし、自分がそれに反応をするというだけで、自分が世界に存在していることになるわけでもない。キャラを演じているときや言いたいことを言えないとき、自分は世界に存在しない。例えば、人に承認されたいがために面白いと言われるようなことを、やりたくなくてもやる。あるいは、嫌われたくないがために自分の意見や欲求とは異なっていても、人に同意、同調する。このとき、自分はほとんど世界に存在していないと言っていい。  自分自身が他者によって知られること、これが世界に存在していることの条件である。つまりこれは、しゃべりたいことをしゃべり、ふるまいたいようにふるまうということ。他者が自分に期待している発言と行為ではなく、自らの欲求に忠実な発言と行為を、他者によって見られること。怒りたければ怒り、泣きたければ泣く。過去に自分がどうふるまったか、未来に自分が