意識と数の感覚

 街中に出ていって、僕の視界にたくさんの人が入ってくると、脳みそは勝手におれとおれ以外の人との間に境界を引く。二人で会っているときは1対1だけれど、百人で集まれば1対99という実感が真っ先にくる。これは、僕が意識というものを持っており、しかもそれがかなり強烈な意識であるために、発生する実感だろうと思う。
 しかしよくよく考えれば、当然、他の人も意識を持っている。一人ひとりの人間が、僕と同じように、外部からの刺激に否応なく左右される脆弱かつ強烈な、自分でコントロールすることがときに困難な意識を、自発的ではなく強制的に持たされている。
 であるならば、正しい境界は1対99ではなく、1対1対1対……1対1である。これをいつも頭にたたき込む。忘れたら反省して、もう一回頭にたたき込む。こうもめんどくさい思考と感情に毎日毎日ふりまわされているのは、決しておれだけではなく、みんなだ。みんなときとして大変な思いをしている。平然としているように見えたとしても、だ。
 たくさんの人が集まれば集まるほど、1対99のような数の感覚が芽生えてきて、他の人にも自分と同じような意識があるということが、いとも簡単に分からなくなる。大きな組織に従事する人が、組織の末端にいる人も自分と同じような脆弱かつ強烈な意識を持っているということに、思いを馳せられるだろうか? 戦争によって何千万人という人が殺されたとする。しかし、殺されたのは一人ひとりである。おれが殺されるのと同じように、あなたが殺されるのと同じように、一人ひとりは殺される。「何人死んだか」よりも、「死ぬとはなにか」を考えなければいけないのではないか?
 人間は、一人であるときと1対1であるときが最も健全だ。人数が増えれば増えるほど分からなくなる。誰かを、その人は意識がないものとして、あるいはその人にも意識があるのだということを忘れて扱うとき、人は物になる。物プラス意識でやっと人になるからだ。人を、物ではなく人として扱うというのは、自分と同じくその人にも意識があるという感覚を、つまるところ1対1のときに感じるあの感覚(自分の発言や仕草はその人に対して向けられているのであり、その人の発言や仕草は自分に対して向けられているのであるという〝サシ〟の緊張感)を、常に忘れないで人と接することだろう、とか思う。

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