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 社会主義者であるプルードンは、財産とは盗みなり、と言ったが、まったく同じ内容のことを『レ・ミゼラブル』のミリエル司教も言っている。ジャン・バルジャンに銀の食器を盗まれたあと、曰く、「マグロワールさん、わたしはあの銀の食器を間違って、しかも長いあいだ、じぶんのものにしていた。あれは貧しい人たちのものだったのです。ところで、あの男はなんだったかね? 明らかに貧しい人でしたよ」。  とはいえ、社会主義者たちとこの「正しい人」を、一緒にすることはできない。財産とは盗みなり、の一点においては、意見が一致するとしても、本質的には、両者はまったく正反対の思想の持ち主である。
 これだけ科学技術も発達しているのに、人間はいまだ生活の大部分を労働に費やしている。貧しい人たちもいまだに存在している。科学技術のおかげで生産力はアップしているし、一人の人間が食べることのできる量など限られているのに。資本主義は、使用する物を消費する食べ物のように扱っているので、いくら生産力があってもそれで十分とは言えないのである。  足るを知るな、もっと欲せ、もっと働け、経済を回せ、というのが資本主義のスローガンである。そのために企業には、便利で新しくはあるが、すぐに壊れる物を開発することが求められる。生産のスピードについて行くため、過剰な宣伝広告が、人々の無自覚のうちにある欲望をかき立てる。それらすべてが、人間のためではなく、経済を回すために行われる。
他人の幸福の手助けはできても 自分のそれを自分で掴みとることはできない 血へどを吐くような努力をして得た成果の手柄を 私は神さまにお返ししたいと思います 自分の持っている物は自分の力で得た物だと主張する人たちへ あなたと私は敵どうし

存在に拘束されて

愛し方が足りないと言うのか 私を世界に投げ入れた者に もっともっと! と けしかけられる だけどそもそも 一体誰の許可を得て そんなことをしたのか 私がそれを望んだと言うのか どこからやって来て どこへ行くのか 誰も知らない 始まりと終わりの外のことは 神さまだけが知っている すべてなすがまま 彼女の自発性は いと狭き空間に 閉じ込められている 若紫の人生とは何だったのか 生まれ直しても 彼を愛しただろうか 何はともあれそれはあった あったはあるので なかったを想像することは 語り得ないことである あったことの外のことは 神さまだけが知っている 私がそれを望んだと言うのか 私がそれを望むことを あてにしたのか 目に見えるものの外のことは 神さまだけが知っている 目に見えるものの意味も
 ドストエフスキーの『白痴』はもう三度目、話の筋も知っているので、さらさらと読み流していたのだが、十数ページに一度、鋭い洞察に富んだ文章にぶつかる。たとえば、以下のようなもの。「忘れずに言っておくが、人間の行動の原因というものは、ふつうわれわれがあとになって説明するよりもはるかに複雑なこみいったもので、それがはっきりしている場合はまれである」。自分の行為の原因についても、人類の歴史についても、まったく同じことが言える。『フラニーとズーイ』のズーイのセリフを引用すれば、「僕の頭の中でじっさい何が進行しているか、それは僕自身にも分からない」。