自分を例外化するな(自分と他人の入れ替え可能性)

 正義とは何か、それは誰にも分からないが、それがなければ正義とは呼べないという、基本的な条件が一つだけある。それは「自分を例外化するな」というもの。あるいは「自分と他人の入れ替え可能性」と表現してもいい。もっと分かりやすく言えば「自分がされたくないことを他人にするな」になるだろう。分かりにくく言えば「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(カント)になるだろう。いずれにしても同じ一つの要請である。自分を例外化するな。

 社会契約の思想は、このルールを発展させたものである。誰のことも害さないことを条件に、誰からも害されない権利を獲得するのが、社会契約である。たとえば私たちは、生まれながらに、憲法に契約している。そういうことになっているのだ。憲法によって私たちは相互に約束している。憲法がなかったらどうなるか? 無法状態。弱者を守る者はいなくなる。弱肉強食。いわゆる「万人に対する万人の戦争」である。そうならないために、警察という合法的暴力、言葉によって正当化された唯一の暴力が、非合法な暴力から私たちを守っているのだ。そしてわが国の法律は、憲法に反しない範囲でのみ制定される。

 正義の根本的要請、「自分を例外化するな」は、選民思想への批判でもある。複数形にすれば「自分たちを例外化するな」になるからだ。優生思想、格差社会への批判でもある。選ばれた者、優れた者、恵まれた環境で生まれ育った者たる、自分たちが、もし仮に、そうでない者側の境遇だったとすれば? サイコロを振り直して(ガチャし直して)、自分と他人を入れ替えてみる。思考実験である。自分はほかの誰かでもあり得た。いま憎んでいる敵でもあり得たし、犯罪者でも、貧しい者でも、この地上で一番不幸な者でもあり得た。しかもそれらの確率は同様に確からしかった。 “There but for the grace of God go I !(神の恵みがなければ自分がそうなっていた!)” 自分が自分であることは偶然の出来事だし、自分の所有物から頭の中に所有している観念まで、それらが自分のものであるのはすべて偶然(=運)である(ハードな運)。

 自分を例外化するな。これこそが正義を基礎づけるものである。梃子の原理のように、素朴だが確かな要請。自分と他人を入れ替える想像力のあるなしが、私自身の正義のあるなしである。私自身のその時そのときのあり方をジャッジする尺度である。「だって、ほんとうにぼくらはあの人と同じ人間で、とくにすぐれているわけじゃないんですもの。もし仮にすぐれていたとしても、あの人の立場に置かれたらやはり同じことですよ‥‥‥」(アリョーシャ)

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