社会的責任を一つずつ果たしていく。そういう仕事に就きたい。いま、そのための継続的な努力もできないようでは、頭の中にある理念がどんなに素晴らしかろうがすべて水の泡である。ファイト! 自分。マシな人間になってください。人並みに真っ当な人間になれるよう、いま、こつこつ頑張ってください。以上
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2月, 2023の投稿を表示しています
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ニュースを見ていると、くそっ、こんなやつ死んだ方がマシだ、と心の中で最大限の罵りを吐いてしまうときがある。衝動的とも言えるほど突然湧いてくる嫌悪感で、理性や正義とは別個のものとして心に発生する。この種の「負の感情」はどんな正当化も許されない。正当化された「負の感情」による大衆の連帯ほど恐ろしいものはない。一人の殺人犯、一人の権力者の方がまだマシ。 「負の感情」が発生してしまうことは仕方がない。それを自分の心の中だけで消化できないときがあることも仕方がない。それは良くないものだと分かっていることがまず大事。「負の感情」を正当化することに汲々とし、仲間づくりに励んでいる連中の仲間入りだけは避けたいもの。
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他者に怯えている人や、人間不信の状態にある人を相手にする時には、少し自信なさそうにするくらいが丁度いい。相手を怖がらせないことが一番肝心。自分のささいな言葉、態度が、彼らのその後の将来を決定する。それくらいの責任を持った方がいい。ほんの少しのキツい言葉が、彼らと社会との繋がりを永久に断ち切ってしまうかもしれない。心の檻に完全に閉じ込められたら誰もそこから出ることはできない。彼らは生きるか死ぬかの瀬戸際である。頼りにできるのは外からの救いの手だけである。 そういうのが面倒くさいと思う人は、そういうのが面倒くさいと思う人とだけ付き合うべきである。それはそれで健康的な社会ができあがる。 アリョーシャ。もしくは、アシタカみたいになりたい‥‥‥
邪悪なコミュニティ(?)
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宗教やカリスマ的人物には、部外者が悪口を言えば言うほど、そこに集まる人たちの結束が強まる(コミュニティが強固になる)という実に奇妙な現象がある。邪悪なカルト宗教なんか特にそうだが、真っ当な宗教にもこの現象は見られる(ことがある?)。 そもそも、邪悪か真っ当かの違いは何? → そんなの神さまにしか分からない(あるいは、違いなどないのかもしれない)が、 私が思うに: 閉じているか開いているかの違い。 中心人物(教祖、カリスマ)が、悪口を言ってくる人たちを進んで排斥し、閉じたコミュニティが形成されていれば、邪悪。中心人物が、彼をとるか彼以外をとるかの二者択一をあなたに迫ってきたら、邪悪。中心人物を頂点とするヒエラルキーや蜘蛛の巣があれば、邪悪。そして最後に、中心人物が以上を 意図していようがいまいが 、現にそうなっているならば、そのコミュニティは、私が思うに、邪悪(意図していないとすれば、その人自身、大変な苦しみを負っているのだ。あなたがその苦しみと心中するかは考えものだが)。 だが一般に、邪悪か真っ当かなんて、たかが人間にジャッジできるわけもない。目の中の梁ではないが、一体誰が公平にものを見ることができる? 解釈ではない真実などこの世界にあるのか。あったとして、誰がそれにたどり着けようか。もし真実などないとすれば、どうやってまともな気持ちで人生をやっていけるのか。恐ろしいことだ。自分の頭がまともか狂ったかをどう見分けるのか。何が正しいか分からないなんて、本当に、本当に恐ろしいことだ。正しさの尺度を与えてくれ。くそっ。
自分を例外化するな(自分と他人の入れ替え可能性)
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正義とは何か、それは誰にも分からないが、それがなければ正義とは呼べないという、基本的な条件が一つだけある。それは「自分を例外化するな」というもの。あるいは「自分と他人の入れ替え可能性」と表現してもいい。もっと分かりやすく言えば「自分がされたくないことを他人にするな」になるだろう。分かりにくく言えば「なんじの意志の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(カント)になるだろう。いずれにしても同じ一つの要請である。自分を例外化するな。 社会契約の思想は、このルールを発展させたものである。誰のことも害さないことを条件に、誰からも害されない権利を獲得するのが、社会契約である。たとえば私たちは、生まれながらに、憲法に契約している。そういうことになっているのだ。憲法によって私たちは相互に約束している。憲法がなかったらどうなるか? 無法状態。弱者を守る者はいなくなる。弱肉強食。いわゆる「万人に対する万人の戦争」である。そうならないために、警察という合法的暴力、言葉によって正当化された唯一の暴力が、非合法な暴力から私たちを守っているのだ。そしてわが国の法律は、憲法に反しない範囲でのみ制定される。 正義の根本的要請、「自分を例外化するな」は、選民思想への批判でもある。複数形にすれば「自分 たち を例外化するな」になるからだ。優生思想、格差社会への批判でもある。選ばれた者、優れた者、恵まれた環境で生まれ育った者たる、自分たちが、もし仮に、そうでない者側の境遇だったとすれば? サイコロを振り直して(ガチャし直して)、自分と他人を入れ替えてみる。思考実験である。自分はほかの誰かでもあり得た。いま憎んでいる敵でもあり得たし、犯罪者でも、貧しい者でも、この地上で一番不幸な者でもあり得た。しかもそれらの確率は同様に確からしかった。 “There but for the grace of God go I !(神の恵みがなければ自分がそうなっていた!)” 自分が自分であることは偶然の出来事だし、自分の所有物から頭の中に所有している観念まで、それらが自分のものであるのはすべて偶然(=運)である(ハードな運)。 自分を例外化するな。 これこそが正義を基礎づけるものである。梃子の原理のように、素朴だが確かな要請。自分と他人を入れ替える想像力のあるなしが、私自身の正義のあ
読みやすい文章
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ドストエフスキーの文章は読みやすいし、ジェイン・オースティンはもっと読みやすいのだが、ディケンズはなぜか恐ろしく読みにくい。翻訳の問題ではない。同じ翻訳者のオースティンとディケンズでも比べてみたので。どうしてだろう? ものの見方、キャラクターの描き方など、ディケンズの小説には素晴らしい点がたくさんあって、一生のうちに何度でも読みたい気がするのだが、僕にはどうしても読みにくいので、それだけに個人的に残念(『荒涼館』エスタが物語る章だけは、なぜか読みやすい気がする。本当に素晴らしい章)。 日本の小説は、あまり読んでないが、谷崎潤一郎の『細雪』がよかった。だいぶ長い小説なのだけど、再読もした。読んでいて、これほど心地よく、すっと入ってくる文章はめずらしいと思う。人の日常的な思考の流れに近いからなのか、なぜなのか、分からないけど、読書のわずらわしさがまったくない。心地よい、という表現がぴったりな文章。リラックス効果あると思います。論理的な文章でもあるから余計すごい。英語(ヨーロッパ言語?)みたいと思った。 プラトンの対話篇もすごく読みやすい。哲学の始まりにしてすべて(?)が、こんなにも読みやすい、素朴な思考の流れに適った文章であることを、世界に感謝したいくらい(いい気づきがあると、有頂天になって、世界としか言いようのないすべてのものに感謝したくなりますよね)。 思考、心理、意識、それらは流れていくものである。読みやすい文章は、人間のうちにある流れに適っているのだと思う。
アイ・ミー・マイン
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おれってすごいでしょ、僕ってすごいでしょ、みたいなことを延々とくり返しているだけのやつらは一体何なんだ。何について話し始めても最後にはいつも自分の話をしているのだ。話すこと、書くこと、何でも自分がテーマなのだ。たとえ桜のテーマで文章を書いても、桜そのものについて書くのではなく、桜について他人と違う着眼点を持っている自分について書いてしまうのだ。うるさい、黙れ、って思う。寝ても覚めても自分について考えながら生活しているのだ。いつも心の中の鏡に映った自分を見てはうっとりしているのだ。自分に関心が払われない場所では、不当な扱いを受けているみたいに心を害するのだ。くそっ、こいつらは一体何なんだ! 「朝から晩まで/ぼくが何してどうなった ぼく ぼく ぼく /そればっかり」