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 ビートルズの『ザ・ビートルズ』(通称『ホワイト・アルバム』)が、僕はとても好きです。このアルバムはどういうわけか、聴く人に「喜び!」という印象を与えてくれます。喜びという感情さえあれば、苦しいときも結構やっていけるものです。「喜びなしに生きていくことはできない」。楽しみは一時的なものかもしれないけれど、喜びならいくぶん長く続いたりもします。「いいことがあった!」「良い知らせ(英語では good news)があった!」。知っている人が結婚するとか、一人の子供が生まれたとか、そういうときとおなじ気持ち(いずれも経験がないため、僕はよく分かっていないのだけど)。「いえ、あなた、はじめて赤ちゃんの笑顔を見た母親の喜びっていうものは、罪びとが心の底からお祈りするのを天上からごらんになった神さまの喜びと、まったく同じことなんでして」(『白痴』のムイシュキン公爵が出会った「乳呑児をかかえたひとりの百姓女」の言葉)。
「ぼくがこんなことを言うのは、万一ぼくたちが悪い人間になるときのことを思ってなんです」とアリョーシャはつづけた。「でも、どうしてぼくたちが悪い人間になる必要があるでしょう、そうじゃありませんか、みなさん? 何よりもまず、善良に、それから誠実にありつづけようじゃありませんか、そしてそれから、けっしてお互いを忘れないようにしましょう。(…)」 (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)
 自分の中にある「ある特定の人たち」に対する憎しみを正当化することは、それが何であれ、間違ったことである。憎しみを正当化し、おなじような憎しみを持っている人たちと共有し、連帯し、その憎しみをさらに大きくさせることは、間違ったことである。人びとの中にあるそういった憎しみを、人びとを連帯させるために利用することは、間違ったことである。

「良い原因」であろうとする!

 僕たちはみな、これまで出会った人の多くが親切であれば、人間本性は親切なものだと信じることができるし、他者に心を開くことも、人に親切にすることもできる。一方で、これまで出会った人の多くが冷淡であれば、人間本性は冷淡なものであると信じてしまい、他者におびえるようになり、うまく心を開くことができず、また、人に親切にしてやる必要もないと感じるようになる。  これまで出会った人のふるまいの総体が、僕たち一人ひとりの人間観を決めているのであり、それは、頭でどうこう考えて獲得するものではなく、一人ひとりの心のなかで、おのずと心理的に決められてしまうものなのだ。そのため、ある人が冷淡な人間であるからといって、その人自身にその原因(=責任)があるわけでは、 まったく ない。むしろその人は、心の奥深くでおびえている人、身に覚えのない不幸に苦しんでいる人である。しかもそれが誰のせいなのかといえば、僕たちみんなのせい、世界中の人びとすべてのせいなのである。すべての人びとが、まったくおなじ分だけ、その責任を負わなければならない。赦しを乞うべきはその人ではなく、僕たちの方である。  人間はどうしようもなく連鎖しあって生きている。そのため、かつて僕がはたらいた悪事の影響は、僕自身におよぶのではなく、僕の知らない遠くの人たちの生活におよぶ。顔も知らない誰かを人間不信にさせ、誰かと誰かが仲違いしてしまうことに、僕は加担しているということである。もしこの世界がそういったもの、原因から結果への絶え間ないくり返しで成り立っているもの、であるとしたら、一人ひとりのするべきことは、できるだけ「良い原因」であろうとすることでしか、もはやありえない(できるだけでいい!)。報復主義の考え——これはまったく自然な感情でもあるのだが——ではなく、「右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ」。冷淡な人にこそ、親切さで報いなければならない。  イエス・キリストは、その「良い原因」の最たるものとして、神からつかわされ、地上にやってきたとされている。このナザレのイエスが、本当に神の子であったかどうか、僕には知るよしもない。しかし、これだけは言える。イエスが語ったいくつかの言葉よりも、いっそう真実で、善良で、シンプルでもある言葉を、ほかの誰が言いえただろうか? おそらく、過去、現在、未来におけるどんな人間も、そんなことはできなかった
 人が他者に対して抱いてしまう、あらゆるマイナスの感情はすべて——怒り、憎しみ、軽蔑、優越感といったものはすべて——、初めからその感情であったのではなく、人間そのものに対する怯えの感情から、生じているものである。つまり、人間不信であることが原因となって、あらゆるマイナスの感情が生まれてしまうのである。人が他者を傷つけてしまうのは、その人の人間不信による結果であるし、人が他者に傷ついてしまうのもまた、その人の人間不信から生じる不幸なのである。人は「傷つきたくない」という怯えのために、人を傷つけてしまうのだ。  戦争についてもまったく同じことが言える。人は「殺されたくない」という怯えのために、人を殺してしまうのだ。つまり、戦争の本質というものは、「パンが足りない」という点にあるのではおそらくなく、信仰の違いによるものでもやはりなく、まさに、人間どうしが互いに怯えあっている、という点にあるのである(ただし、ここで言う「パン」とはもちろん、食料一般のことを指している。人間が人間的であるよりもまず、人間は生物である、ということが理由で、必要となるもののことである)。
 人と接するときには、相手のなかにある良い感情を引き出すことができるよう、つねに心がけなくてはならない。善い人間とは、その人が独立した善さを持っているというわけではまったくなく、その人の周囲の人びとも一緒になって善い人間となってしまうがゆえに、善いのである。

内側に隠れるものについての考察

 目に見えるもの、活動的なもの、外側に現れるものよりもまず、目には見えないもの、観想的なもの、内側に隠れるものの方にこそ、いっそう心を傾け、取り組まなければならない。前者は、後者があってはじめて、何かしらの意味を持ちうるからである。この二つの対比は、ヨハネ福音書における、「律法はモーセをもって与えられたが、恩恵と真理とはイエス・キリストをもってはじめてあらわれた」という箇所に、特にはっきりと言い表されている。折にふれてイエスが、自身とモーセとの違いについて述べるとき、話の中心となっているのは、つねにこの二つの違いについてなのである。  このことは、善行と善意の関係について考えてみるとき、よりはっきりと理解できる。善行は、それ自体に意味があるのではなく、それがまさしく善意から生じるからこそ、何かしらの意味を持ちうるのだ、というのがそれである。こういった善意とは、「見られ注目されることには耐えられないのであり、それは、相手が見る場合でも、善行をなす人自身が見る場合でも、そうである」。だからこそイエスは、「あなたは施(ほどこ)しをするときに、右の手のすることを左に悟られてはならない。これは施しを 隠しておく ためである」と言った。「見られ注目される」ための善行は、偽善におちいってしまうのである。  このように、また、この他の例にも当てはまることとして、とりわけ重要なのは、外側からことを始めて中身がともなわない場合、それは偽物となってしまう、という点である。そのため、愛し合う者どうしにとって重視されるべきは、彼ら/彼女らの精神的な結びつきの方であって、愛を証明してくれる何か、では決してない。あるいは、他者を愛するというとき、僕たちは、その人についての紹介文を見ているのではないし、その人が自分に与えてくれる体裁を気に入っているのでもない。その人と自分との間だけで交わされる、お互いがまさに「(何ではなく)誰であるか」という、目に見えないものにのみ、関心を寄せているのである。
 神秘的なことばかり書いているけれど、現実的なことについても述べておきたい。だけどそれは、きれいごとではないどころか、どこまでも過酷なものであるかもしれない。現実というものはときどき、どこまでも過酷なものであるから。  さて、僕の考える現実とはこうである。——人が自分のために行う努力は、そのすべてが、どういうわけか、まったくもって意味のないもの(せいぜい「薄汚れた幸福」くらいのもの)にしかならないということ、これである。不幸におちいっている人が、自分自身の力によって自分を助けることは、まったく不可能なのである。したがって、助けてくれる人がいなければ、その人は、決して不幸から脱することができない。もし仮に、表向き、自分の力で脱することができたように見えても、精神的にはまったく不幸のままなのである。  ある人の生き死にを決めるのは、その人自身ではなく、その人をのぞく全人類である。反対に僕たちは、一人ひとりが、自分をのぞく全人類の命綱を、少しずつ握っているのである。何かに向けて努力するとき、それが他者のためにではなく、自分のためになされたものであったなら、その努力は、誰にも何ものももたらすことがない。

人間が持つべき謙虚さ

 旧約聖書によれば、大人は「知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、《神のごとく》になった」。まさにそのことが原因で、人間は楽園を追放され、地上に縛りつけられる存在となったのである。こういった人間の(あるいは大人の)傲慢さ、神か何かであるかのようにふるまうことの思い上がり、については、その他、バベルの塔の寓話のなかにもよく表されている。  人の良し悪しを判断するだとか、自分は誰かよりも優れた考えを持っている、という態度のなかには、たとえそれがほんの少しであれ、また、その対象が誰であれ、思い上がり、傲慢さといったものが含まれてしまう。僕たち人間は誰も神ではないのだから、そういった判断はすべて控えなくてはならないところなのだ。ソクラテスが考えたように「誰も知者ではありえない」し、イエスが教えたように「神様お一人を除いて、誰も善人ではない」のである。  これと似たようなことは、福音書にもはっきりと書かれてある。「人を裁くな、自分が神に裁かれないためである。人を裁く裁きで、あなた達も裁かれ、人を量る量りで、あなた達も量られるからである」(『マタイ福音書』7 ・1−2) と。  しかし、実際には、こういった傲慢さを一つ残らず取り除くことは不可能である(そこでもやはり「誰も善人ではありえない」というわけである)。だがそれでも、せめて今より少しだけでも謙虚であろう、自己批判を忘れないようにしよう、と意識することはできるし、また、そうするべきであると僕は思う。
 僕がまったく個人的に想像し、勝手に思いを寄せている神様というのは、他でもない、一人残らず「すべての人びと」のためにある神様である。だからそれは、ある国家のためではないし、民族のためではないし、特定の階級のためではない。誰か一人のためではないし、大多数のためでもなければ、少数の人びとのためでも当然ない。誰かが選んだ人たちのためではないし、僕が選んだ人たちのためでもないし、ましてや、自分ひとりのためでは断じてない。それはもちろん、あの「キリスト」という名のもとに、あらゆる悪事や迫害をしてきた人たちの仕える、悪魔的な形相をした何かでも決してない。この「すべての人びと」のための神様は、僕の少ない脳みそで考え得るかぎりにおいて、他のどんな存在よりも優れているから、これよりも劣った何かを進んで信仰しようという気には、どうしてもなれないほどである。