人間が持つべき謙虚さ

 旧約聖書によれば、大人は「知恵の実を食べてしまったために、善悪を知り、《神のごとく》になった」。まさにそのことが原因で、人間は楽園を追放され、地上に縛りつけられる存在となったのである。こういった人間の(あるいは大人の)傲慢さ、神か何かであるかのようにふるまうことの思い上がり、については、その他、バベルの塔の寓話のなかにもよく表されている。

 人の良し悪しを判断するだとか、自分は誰かよりも優れた考えを持っている、という態度のなかには、たとえそれがほんの少しであれ、また、その対象が誰であれ、思い上がり、傲慢さといったものが含まれてしまう。僕たち人間は誰も神ではないのだから、そういった判断はすべて控えなくてはならないところなのだ。ソクラテスが考えたように「誰も知者ではありえない」し、イエスが教えたように「神様お一人を除いて、誰も善人ではない」のである。

 これと似たようなことは、福音書にもはっきりと書かれてある。「人を裁くな、自分が神に裁かれないためである。人を裁く裁きで、あなた達も裁かれ、人を量る量りで、あなた達も量られるからである」(『マタイ福音書』7・1−2)と。

 しかし、実際には、こういった傲慢さを一つ残らず取り除くことは不可能である(そこでもやはり「誰も善人ではありえない」というわけである)。だがそれでも、せめて今より少しだけでも謙虚であろう、自己批判を忘れないようにしよう、と意識することはできるし、また、そうするべきであると僕は思う。

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