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 昨日書いたのは、その人の苦悩の大きさによって、その人の罪が免除されてしまうということについて。あるいは、人間は「この人は苦しんでいる(苦しんできた)」という証拠を見つけない限り、他人を許してやる気にはならないということについて。それも、他人の苦悩の度合いを正確に知ることなんて、決してできないのにも関わらず?
 他人の苦悩の程度を軽く見積もってしまうことが問題なのである。いつも自分が見下している、あるいは軽蔑している人間が、実際はものすごい傷を抱えており、家で人知れず頭を抱えているらしい、ということを知ったら? その人は、おそらく自分にはとうてい理解もできないほど大きな苦悩を持った、不幸な人間なのだということが、後になって判明したら? もしそんなことになったら、僕たちはこれまでの自分の行いや考え方について、またそれを恥ずかしげもなく周囲に見せびらかしていたことについて、そして自分は恵まれているのだということについて、赤面しなくてはならなくなるだろう。そして、猛省しなくてはならなくなるだろう。今後いっさい、他人の欠点について、鬼の首を取ったようにべらべら喋るなんて資格は自分にはないのだということが、痛いほど分かるだろう。他人の苦悩の大きさを知ることはできないし、地上にどれだけたくさんの不幸があるのか、見ることはできない。もしかしたら、もういっさい黙ってしまって、道徳的に気をつけの姿勢をとっていなければならないほどなのかもしれないのだ(もちろんそんなことは度が過ぎているのだが、しかし……)。
「ねえ、リーズ、長老さまがいつかおっしゃったことがあるんです。人間というものはだれでも、ちょうど子供を見るように面倒を見てやらなければいけない、ある者に対しては、それこそ入院している病人の世話を見るようにしなくてはいけないって‥‥‥」(『カラマーゾフの兄弟』の主人公、アリョーシャ)
 大人が特定の子供について、その良し悪しをあれこれ評価したり批判したりすることは、絶対にあってはならないことだと思う。子供がただそのままの状態であっていけないという理由は何もないのだ。問題が生じるとすれば、いつも大人あるいは社会の責任であると言って、何も言い過ぎではない。子供は与えられたものを内側に取り込んだあと、それをほとんどそのまま外に向けて放っているだけである。子供にとやかく文句を言うより先に、僕たち大人はまず反省をしなければいけないだろう。  そしてよくよく考えてみれば、それとまったく同じように、大人が特定の大人について、その良し悪しを評価したり批判したりすることも、あまり褒められたこととは言えないはずだ。なぜなら、人間は誰しも、与えられたもの以上のものを他者に与えることはできないからである(これについてどうかよく考えてみてほしい)。したがって、僕たちはまず穏やかに、それから謙虚に、必要に応じて反省的にならなければいけないのだ。