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2月, 2020の投稿を表示しています

クジラ

かたかた音がする 心臓のあたり それはナイフとフォークがぶつかりあうときの 冷たい金属のしんどう ひとりきりで 布団のなかで 夜もすがら ほら穴に逃げこんで出てこれなくなった 小さな動物を抱きしめている おびえながら じっと耐えているとき ふいに 遠くから クジラの鳴いている音がきこえて 力が抜ける 動物たちは眠ってしまう 地上の悲しみをすべて知っているみたいに ひくく にぶく 泣いている 大きな身体をもつクジラ 悲哀にも似た 海の底から
「深く隠されていないような強い感情というものはない」。だから人間は、どうやったって他人の考えることをすべて知ることはできないのである。他人の心を理解し尽くすことはできないのである。そして自分の心でさえも。 そこに「強い感情というもの」が隠されているのか、あるいは「何もない」のか。隠されているとしたら、一体どんな「強い感情」が隠されているのだろう…

与える対象

他人を愛することはできても、社会(組織されたもの)を愛することはできない。ひとりの人間が社会に「惜しみなく与える」ということは、その人の心と身体がゼロになるまで「奪われ続ける」ということを意味する。「搾取される」ということを意味する。そしてその「奪われたもの」は、全体の利益に還元されるわけではない。一部の権力ある存在(人なのか何なのか分からないけれど)が、僕がもっとも軽蔑しているものを大きくするために、それは使われる。 与える対象をよく見きわめなければいけない。そしてそれが一番難しいのだ。ものすごく賢くならなければ、どこに力を注ぐべきなのか分からなくなってしまう。なにを愛してなにを退けるべきなのか、間違えてしまう。僕は自分より大きなもののために自分を犠牲にしたりはしない。自分自身に対して、そして自分とおなじように「生身の」人間に対してのみ、力を尽くしたい。そのために僕は賢くならなければいけないし、力をつけなければいけないのだ。
いらいらしたり嫉妬したりは、小さいことも含めればしょっちゅうしている。「なんだっていらいらしたり嫉妬したりせにゃならんのだ、まったくその必要がないうえに、僕にはそんな資格もないことは分かっているのに」とは思うんだけど、してしまうときはしてしまう。僕は自分の想像力のつくりだす「ある種の幻想」に対して、いらいらしたり嫉妬したりしているのである。誰も僕がそんなことでいらいらしたり嫉妬したりしてるとは思わないだろうな、というくらい意味のないいらいらと嫉妬である。分かってはいるんだけど…

見返りを求めない

神さまに(たくさんの他人に)愛されてきた人は、何の見返りを求めることなく、たくさんの人を愛することができる。この場合の「愛する」とは、いらいらしないだとか、許すだとか、軽蔑しないだとか、嫉妬しないだとか、だいたいそんな感じの意味を含む。象徴的な言葉選びをすれば「惜しまずに与える」みたいな感じである。「右の頬を」とか「汝の敵を」とかいったやつである。 ①AさんがBさんに優しくしたとして、でも②BさんはAさんの優しさをあだで返したとする。そしてその結果、③AさんはBさんのことを軽蔑したとする。 ① → AさんがBさんに優しくできたのは、Aさんがこれまで人から愛されてきたからである。 ② → BさんがAさんの優しさをあだで返したのは、Bさんがこれまで人から愛されてこなかったからである。 ③ → AさんがBさんのことを軽蔑したのは、Aさんは確かにこれまで人から愛されてはきたけれど、優しさをあだで返すBさんを許すことができるほどには愛されてこなかったからである。 ③’ → もし仮にAさんがこれまでもっと人から愛されていれば、AさんはBさんのことを許すことができ、Bさんに対する優しさを保ち続けることができる。そうすればBさんはいつかAさんの優しさに感謝するようになり、Aさんの優しさをあだで返すようなまねはしなくなるだろう。そしてむしろ他の誰かに優しくすることができるようになっているだろう。 たくさん人から愛されてきた人は、これまで愛されてこなかった人のことを、見返りを求めることなく愛し続けなければならない。そして「愛されてきた人」の数を増やさなくてはならない。それはツリーのようなもので、上から下へと愛が流れているイメージである。(ツリーのいちばん上にいるのは神さまであるということにしておきましょう。) 見返りを求めることなく、できるだけたくさんの人を愛すること。どれくらいそれが実践できるかどうかは「これまで受けてきた愛の大きさ」と「人を愛するための努力」にゆだねられている。(宗教っぽいですね……。それは仕方がない。)

ゴルフ練習場のアルバイト

個人営業のゴルフ練習場(打ちっぱなし)でのアルバイトを週に二回、かれこれ一年半ほど続けているのだが、僕はこのアルバイトがわりと好きである(あるいは自分に似合っている)ということがだんだん分かってきた。 火曜日と木曜日(たまに他の曜日に入ることもあるけど)の夜八時、自転車で二十分ほどかけてゴルフ練習場に行き、それから九時半に閉店するまでの一時間半、機械にゴルフボールを入れたり(機械は七台あるのだがうち四台は自動で球入れされるので三台だけでいい)、打ちっぱなしに使うマット(人工芝がついているやつ)の位置を整えたり、客の吸ったタバコの吸殻を回収してまわったり、自動販売機の横にあるゴミ箱(これがたしか六個くらいある)の中にある缶やペットボトルや瓶を分別したり、燃やせるゴミをまとめて焼却炉に入れたり(いまどき焼却炉なんてほんとに使っているのかと初め疑っていたが、次に行ったときにはちゃんとゴミが灰になっているところを見るに、ほんとに使っているのだろう)、機械の中にあるコインを集めてまわったり(コインの数でその日の売り上げが分かるのだ)、そして最後、戸締りをしたりする。それで仕事は終わりである。もしこの時点で雨が降っていれば、オーナーが軽トラックで自転車もろとも僕を家の近くまで運んでくれる。 一時間半、やるべきことがないときはぼーっと過ごして、二千五百円である(客がいないと早く店を閉めることもある)。時給にすると約千六百六十七円。勤務時間が短いからたくさんは稼げないけど、小遣い稼ぎとしてはこれ以上にないほど素晴らしいアルバイトである。 しかし、それだけではない。僕は単に「ラクだから」という理由でこのアルバイトを気に入っているわけではないのだ。 まず、コミュニケーションをほとんど必要としないこと。客に「いらっしゃいませ」を言う必要もなければ、仕事は一人で行うので他のバイト仲間と連携する必要もない(受付ではバイトの女の子が雇われているがまったく別の仕事をしている)。唯一のコミュニケーションはオーナーとのちょっとした会話(それからたまに顔見知りの客に挨拶をする程度)であり、まじめに働いているかぎりにおいてオーナーは優しい。(当然さぼると怒られる。ごくまれに不機嫌なときがあって理不尽な怒り方をしてくるときがあるが、そういうときは黙って心の中で反抗してい

「他人」とは

他人の考えることは分からない。それが当たり前なのに、かつての僕はむりやりそれを分かろうとし、あれこれ考え、たくさんの想像力を働かせた。そしてその想像のひとつひとつに感情移入した。たくさん想像すればするほど、たくさん感情を自分の中から引っ張り出してこなければならならず、その結果、不必要に自分の感情をゆさぶることになった。そして最後「分からない」という思いだけが(恐怖をともなって)強く残るのだ。「どんなに考えてみても一向に分からない」と。 他人は「真っ暗闇」に似ている。そして僕はその暗闇のなか一人きりで突っ立っており、「そこに何かがいる」という気配だけは感じるけれど、それが何なのかは分からないまま混乱していた。それは自分の味方をしてくれるものなのか、それとも邪悪なものなのか。傷を癒してくれるのか、それとも傷つけてくるのか。近づいてもいいのか、遠ざかるべきなのか。耳をすましたり、おそるおそる手を出して触ってみたりもするけれど、「分からない」という思いが消えることはない。 あまりにも長いあいだ暗闇のなかに立たされていると、だんだんそれが「不当なもの」であるように思えてしまう。「真っ暗闇」とかそこにいる「何か」が、僕を蔑んでいるように見えてくるのだ。僕だけが何も分からないまま混乱させられているのであり、僕以外の人やものは事情をすべて知っている、そしてその上で僕だけを仲間はずれにしているのだ、という考えにとらわれてしまうことすらあった。 しかし、そうではない(ということを僕はいま知っている)! その「真っ暗闇」なり「何か」なりは、確かにその実体をつかむことはできないけれど「邪悪なもの」では決してない(あるいは、僕がかつて考えていたよりははるかに「邪悪なもの」ではない)。「分からない」という思いが消えることはない。しかしそれが「いいもの」であるということだけは(ある程度まで)信じてもかまわないのである。不安を感じる必要はない!のである。 さらに言えば、僕以外のすべての人も僕とおなじように「真っ暗闇」のなかにいて、おなじように手探りしているのだ、という情景を思い浮かべることもできる。誰もがそこにいる「何か」について分かろうとしているのであり、そのために右往左往しながら、はからずも人を傷つけたり、誰かにつまずいたりしているのだ。するとやはりおなじよ

遠くから

遠くから あるいは自分自身から 助けをよぶ 声がきこえる 鏡をみると 平気な顔をしているし 一人でも生きていけそうな 歩き方をしているけれど 遠くから あるいは自分自身から 助けをよぶ 声がきこえる それはほとんど 声とはよべない うめきであり 気づいてほしい 気づかれないでほしい と つよく祈っている 恥をさらすと逃げだして それでも望んでいるのは 引きとめてもらうことであり 攻撃して 泣きだして それでも望んでいるのは 抱きしめてもらうことであり 遠くから あるいは自分自身から 助けをよぶ 声がきこえて いるうちに

「大きなもの」の言葉(あるいは規範)

人に対して怒りを覚えたり攻撃的になったりすることは、力のおよぶかぎり控えたいと思っている。それは言い換えると「誰も悪くない」ということである。(かつての母親はヒステリックになりやすい傾向にあったけど、今ならその理由がよく分かるし、僕はそのことで母親を嫌いになってはいけないのである。) でもこれは、何にも怒りを覚えないということでは決してない。人を人でなくさせるものに対しての強い怒りが僕にはある。それは「大きなもの」に対する怒り、そして「大きなもの」のために犠牲を払えと要求する言葉(あるいは規範)に対する怒りである。「大きなもの」が、それ自体の利益のために人々にばらまいているいくつかの言葉に対する怒りである。 個人営業ではない、名のある会社の支店でバイトをしていたときの経験から気づくことだが、そこで働いている会社員はみんないい人ばかりなのに、ときどきすごくうさんくさくなるときがあった。どう考えても、彼/彼女ら自身が生きて学ぶことによって得た言葉ではない、誰かから教わったみたいな言葉をぺらぺらと使い始めるときがあった。そういうとき、僕はひそかにうんざりしていた。そして「この人のせいではないのだ。仕方のないことだ」と自分に言い聞かせながら我慢するようにしていた(単なる考え方の違い、ということはもちろんあり得るけれど)。 僕はいま人間不信ではない(かつてはそういう傾向にあったけど)から、人のことを怖いとは思わないし、人が僕に話しかけてくる言葉を疑ったりすることもない。だけどそれは「お互い」で交わされる言葉にかぎった話である。「組織される前」の僕たちが話す言葉にかぎった話である。組織すると、人は「大きなもの」の言葉を使い始める。僕はそれだけは決して受け入れない。受け入れる「ふり」はするかもしれない。でも、内側までそれらを取り込むことはしない。「内側まで無感覚にな」ることは絶対にしない。 「大きなもの」が悪い虫みたいにばらまいているいくつかの言葉を、徹底的に自分の中から追い出して、二度とふたたび取り込まないようにしなければならない。そして「自ら用意した規範に従って行動」しなければならない。それは「党や国や観念に忠誠を尽くしたりはしない」で、「お互いに忠実であろうとする」ことである。 ※「大きなもの」については一度文章( 「大きなもの」・人は
「性欲」について、恥ずかしいからという理由で書くことはしてこなかったし、これからもあまり書くつもりはないのだが・・・、当然(?)よく考えるテーマのうちの一つでありまして、特に、性欲があるのとないのとでは気持ちの面でどういう違いがあるのかに興味がありまして・・・、つまり「性欲」は体の問題なのに対して、「さみしい」だの恋心だのは心の問題なのであるから・・・てきなことについて考えることが多い。
お金と性欲には注意せよ(てきどな距離を保て)

好きなビートルズの曲たち

題のとおりです。『ラバー・ソウル』から『ホワイト・アルバム』までの曲から選びます。 ・ドライヴ・マイ・カー(軽快な音楽がいい。「私はこれからスターになるつもりだから、あんたは私のお抱え運転手になるといいわ」という曲。) ・ノルウェーの森(村上春樹の小説の題に使われたことであまりにも有名。ショートショートみたいな歌詞。) ・イン・マイ・ライフ(「去る者は日々に疎し」的歌詞。ユーチューブでは小山田壮平のカバーを聴くことができます。) ・アイム・オンリー・スリーピング(眠たそうなジョン・レノンのボーカルがいい。歌詞カードの説明によると「時間に追われる現代社会を風刺したジョンの作品」とある。) ・シー・セッド・シー・セッド(これは個人的にすごく好きな曲。悲観的になっている「彼女」と、それに抵抗(?)しようとしている「僕」。) ・グッド・デイ・サンシャイン(「シー・セッド・シー・セッド」の次にあるのがなんかいい。陽気な曲です。朝な感じがする。) ・アンド・ユア・バード・キャン・シング(好きな女の子が振り向いてくれなくて嘆いているという曲。素直(!)でいい。僕はわりと好きです。) ・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(「楽しいショウ・タイムのはじまりはじまり」という感じがにじみ出ていてよい。) ・ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ(「うまくいかない日も、友だちの助けがあれば何とかやっていける」という曲。リンゴ・スターがリード・ボーカルを担当している。) ・ゲッティング・ベター(「だんだん良くなってきたことを認めるよ」という部分が好き。悲観的な人がまわりの友だちに励まされてしぶしぶ元気を出している感じが。) ・ラヴリー・リタ(「女性警察官リタに恋をしてしまった男がひたすら彼女の尻を追っかけ回す」という曲。みっともなくなっている感じが楽しくていい。) ・アイ・アム・ザ・ウォルラス(ナンセンスな歌詞が特徴。サイケデリックな感じが前面に出ています。) ・バック・イン・ザ・U.S.S.R(「ソ連に帰ってきたよ」という曲。「ソ連」という言葉が使われているだけでもなんかわくわくしてしまう。時代とか国とかを感じられて楽しい。) ・マーサ・マイ・ディア(「マーサ」とはポールの飼っていた犬の名前らしいです。
僕はあまりにも一途に「幸せになりたい」と望んでいるだけだし、そのためにこそこうやって文章を書きながらあれこれ考えているのである。幸せになるためにはどうすればいいのか。「幸せなんてものはない!」と言う人がいて、それならそれでも構わない。じゃあ「もっとも良く」なるためにはどうすればいいのか、教えてほしい。僕はそれをずっと考えているし、ほとんどそれしか望んでいないのである。 物事はあまりにも複雑で、なにを大事にしてなにを無視するべきなのか、理解するためにはものすごく賢くならなくてはならない。 僕はすごく真剣であると思う。幸せになるためにはどうすればいいのか、なにが大事なことなのか、それを知りたいと思っている。世界のしくみを理解したいと思っている。そのためにではなく考えることはないし、そのためにではなく議論することもないし、そのためにではなく難しいことを言うこともない。 恥をかかないために自分をとりつくろったりも、できるだけしない(したことは何度もあるけれど……)。恥をかいたときは、そのまま黙ってうつむいていればいいと思う。そして遠くに逃げればいいと思う。大人になってもそうしたい、と僕は思う。

心の持ちよう

ふつふつと煮えている それをどのように片付けるべきか 氷水を浴びせるべきか 通りすぎるのを待つべきか 他の火をもって為すべきか いくつかの期待が浮かんでいる 触れれば何かは起きるだろう いったい何が起きるだろう 気持ちの準備は足りているのか 強く心に決めたことでも いずれは懐かしさに変わるだろう その過程にいらいらしてしまう つなぎとめておけるものなど この世界にはひとつもない 心の持ちようのもんだいがあって 心のそとには現実があって それらすべてを見たうえで 気持ちをひとつに束ねなければ ひとつの自分が動かなければ
「人は永遠に生きられない」!と思うとき、今やっていることはすべて投げ出して、まったく別のことをやり始めてしまいたい気分にもなるのだが(人生の道草を食いまくってこそ人生だという気はするのだが)しかし、これからの三年間は集中して、なんとしても大学は卒業しなければならない。「大学卒業」は人生をらくにするためのコストパフォーマンスがあまりにも良すぎるからだ。他の楽しいことは後回しにしてでも、大学だけはちゃんと卒業しなければならない! 人生で一番の頑張りどころである、という気さえしてきた。大学を卒業できさえすれば、僕はもう頑張らなくていいはず(と思い込んでいる)。
21歳になりました(!!!)
卑屈にならない!(心に余裕がなくなったとき、卑屈になりがち。わるい癖である。必要もないのに卑屈になって、自虐的になったり攻撃的になったりしないこと。僕を含めすべての人が、自分にできることをがんばっているのである。)
①調子にのらない ②投げやりにならない ①慣らさない ②腐らない を心がける。それ以上のことは運しだいである。
誰か褒めてほしい… というわけの分からない気持ち(そんな気持ちになったことは記憶にあるかぎり一度もない)になっています。なんなんだ。
僕は率先して人をいじめたことがあるし、率先して人をいじめているやつの隣にいたこともあるし、いじめられるすれすれくらいにいたこともあるが、いじめられたことはない。
強い人たちが弱い人たちの悪口を言うことで結びついていたりするのを見ると、「う…」と思う。ちゃんと怖いし、仲間入りはできない、と思うし、いつか自分が悪口を言われるのではないかという暗い気持ちにもなる。でも正直なところよく分からない。僕は自分になにかを判断できるだけの分別があると思うことができないため。 「正しさ」よりも「強さのバランス」の方が優先される。でもそれだけではうまくいかないことがたくさんある。なぜならつきつめて考えていくと「自分は助かりたい(すべての人を助けることはできない)」という気持ちがどうしても根っこにあるからだ。それを僕はすごく知っている。僕はそれを自分のことが嫌いになるほどしっかりと心得ているし、どうせ僕は最終的に助かるのだろう、とも思っている。なので非常に深く黙っていることしかできないときがある。 僕みたいな人間が一番「汚れている」とする人たちもたくさんいて、それにはまったく反論できないし、するつもりもない。いずれにしても、つくづく中産階級的な考え方を僕はしているな、と思う。甘えています、本当に……。こういうことすべて、どうせ恵まれているから言えることなんだと本当に思います。だから「いっそ堕落してやる」みたいなくだらないことも考えてしまうのだろうな。どうすればいい…
『孤島』という哲学的エッセイの「ケルゲレン諸島」という章からの抜粋。(僕はこのブログで、高校では陸上をやっていてしかもそれなりに足が速かったのだ、ということを自慢したばかりであるが。) 「私は、しきりに夢想した、一人で、異邦の町に私がやってくることを、一人で、まったくの無一物で。私はみすぼらしく、むしろみじめにさえ暮らしたことだろう。何よりもまず私は秘密を守っただろう。私自身を語る、人の前で自分をあかす、私の名を出して行動する、そういうことはあきらかに私のもっている、しかもいちばん大切な何かをそとにもらしてしまうことであったようにいつも私には思われた。」 「身をもちくずしたある学校友だちが、かつて私にいったことがある、——自分はミュージック・ホールやその他の歓楽の場所に興味はない、心をひかれるのは、まがりくねった通りを歩くときで、そこでは夜がおりると、行きずりの女たちがかるくからだにふれて、低い声で話をもちかけてくる、と。こんな極端な例をひかなくても、深くかくされていないようなつよい感情というものはない、ということができる。」 「私は自分をありのままに名のることはないだろう、そればかりか、異邦の人に口をきかなくてはならないときは、むしろありのままよりも以下の人間であるかのように自分を名のるだろう。たとえば、実際にある国を私が知っているとすれば、その国を知らないふりをするだろう。私に親しい思想を人が得々と述べたてるとすれば、私はそれをはじめてきくような態度をとるだろう。私の社会的地位がなんであるかを人にきかれるとすれば、私は自分の地位をひきさげるだろうし、私が労務者の監督であるとすれば、私は労務者だというだろう。私は物知り博士をしゃべらせておき、その人にさからわらないだろう。」
バイトのつらさが激減した(今日はなんか眠かったけど)。人前に出ることに苦を感じなくなってきている。これまでどれほどの負荷を自らに課して(むだに神経を使って)人と接していたのだろう。ここ一年半ほどずっと降下していたが、いまやっと上昇している感覚がある。(このまますべてうまくいくといいのだが。大学を卒業しないと。) いま『フラニーとズーイ』を読み返している。僕はサリンジャー世界の少年少女たちからかなりの励ましを受けてきた。「サリンジャーの小説に出てくる少年少女たちみたいに僕は頭脳明晰(?)で、それがゆえにこんなに苦しんでいるのだ」と言いたいわけでは決してない。だけど、勝手に彼/彼女らを戦友みたいに思っている。とにかく「励ましを受けてきた」という事実はあるのだ。 戦友みたいに(勝手に)感じている人は同学年にも何人かいる。ひそかに思っているだけだし、別にそこまで仲が良いわけではない(それは僕の力不足ゆえである。これから仲良くなれるかもしれない)。僕たちは「子どもから大人になるまでの期間」における苦悩や葛藤を「ちゃんと」経験しているのだ。それは立派なことである。(みっともないこともたくさんしてしまうけど。)
タイトルのない短めな文章を更新しまくっていますが、それは(啓示を受けて以来まだ)僕の頭が整理されていないためです。思いついたことをたくさん書いては残しています。
だめだ、もう少し上手に……。少しずつ向上しましょう。焦る必要はない。ゆっくり広げていけばいいのだ。ふむ…
高校時代、僕は陸上部に所属しており、関東大会(厳密には北関東大会だが)に出場できるくらいには足が速く、部長も務め(ほとんど仕事はしていなかったがみんなが助けてくれた)、自由な性格で(部室ではよく歌を歌った)、人から好かれていた(間違いないと思う)のにも関わらず、女子とはうまく話すことができなかった。なぜだろう… トラウマ(と言うほどのものではないのかもしれないが)があるとき、考えることそのものの意味があまりなくなる。トラウマというのは悪魔みたいなもので、僕に「お前がどんなにたくさん考えようが、それらは実際にある物事のほんの一部を見ているにすぎない」と言ってくるわけである。トラウマとは、不確定要素のことである(?) きっとこの悪魔が(僕だけではなく)みんなの心にも住みついているから、さらに物事は複雑になっていき、さらに僕たちは悪魔の思うつぼにはまっていくのだろう。そうとしか思えないし、そうであるならばみんなで力を合わせればいいのである。みんながんばってください(『戦場のボーイズ・ライフ』を聴きながら)。
人は誰しも(多かれ少なかれ)他人に言ったら軽蔑されてしまうような「人には言えない自分の内面」を持っており、ふとしたときにそれらが露呈してしまうのではないか、そして軽蔑されるのではないか、と怯えながら暮らしている。 しかし、それらはいつか誰かに(適切な誰かに)受け容れられなければならない。暴露しなければならない。そのためには「人には言えない自分の内面」とは一体なんなのかを明らかにしなければならない。一生怯えながら暮らすことはできない。
この場所(とてもいい!ブログ)は、僕にとっての心の支えである。
①僕がかつて「どいつもこいつも」と心の中で唱えながらそこら中に敵意を向けていたために、孤立していったこと。 ②そして、僕がそういう人間(脳みそ激しいタイプで、人と仲良くできない人間)であるために、自己嫌悪していったこと。 ③さらには、自分を他の誰よりも惨めな人間だとすら感じて、自分を罰する気持ちにさえなっていたこと(①と③は明らかに矛盾しているのだ)。 そういうことのすべてがいま解決されようとしている(しかしまだ気を抜くことはできない)。そういうことについての理解もすすんでいる。

エゴについて(再び)

「人と仲良くなりたい」という気持ちの何割かは、自分のエゴである。エゴとは、「なにかを欲しい」と思うことである。エゴは誰しもが持っているし、欲しいものを手に入れることはなにも悪いことではないと僕は信じている。僕は幸せにならなければいけない。 しかし、「人と仲良くなりたい」という気持ちの残り何割かは、「人を助けたい・楽しませたい」という利他的なものである。他人のエゴを感じるときも、その反対側にある(嫉妬とは切り離された)利他的な部分はすすんで認めなければいけない。また、自分のエゴの反対側にある利他的な部分もやはり認めてあげなければいけない。 そして、誰しもがそういう種類の葛藤を(多かれ少なかれ)しているのだ。「人を助けたい・楽しませたい」という利他的なものの割合を大きくしようと努力しているのだ。その点で、人は理解し合うことができるはずなのである。「僕たちはマインド・ゲームをしている 一緒にね/壁を押しのけたり 種を植えたりしている」云々。
僕は人を怒らせることがある。傷つけることもある。それは僕が世間知らずであるからだし、他人の気持ちを少ししか理解していないからでもある。僕は不完全な人間なのである。 だからたくさん考えているつもりでもときどき間違いを犯すし、その中には取り返しのつかないものが含まれていたりもする。場合によっては、僕の知らないところで僕のしたことによって(あるいはしなかったことによって)誰かが傷ついているということもあるだろう。その人はきっと、自分が傷ついていることを僕に説明しても伝わらないだろうと感じているから、僕にそれを打ち明けないまま一人で抱え込むのだろう。そして最後、それが身体の中で膨らみ続け、耐えられなくなるとき、僕から離れていくのかもしれない。 でも僕はたくさん考える。世間を知りたい、他人を理解したいという強い意志がある。向上心がある。人の話を丁寧に聞いたり一緒に考えたりすることで、僕の何が人を怒らせ傷つけるのかを理解し、自分の行いを改善しようという真面目な気持ちがある。そのための努力をたくさんする準備がある。
これからの対人関係(家族でも大学でもバイト先でもどこでも) ・相手より先に仲良くなる「体勢」ができていること(相手が心を開いたときすぐ反応できるように) ・相手よりも少し「多めに」伝えること(「少なめに」ではない!) ・見返りを求めないこと(そうすれば傷つくことはない) ・自分が傷つくことに関しては無頓着でいい(そして力のおよぶ限り人を傷つけないように) ・「感じること以上のことをいったり」しない(これは今まで通り)
ここ一週間ほど、心境の変化がすさまじく、自分でもあまり理解が追いついていません。なのであまりブログを更新していませんでした。また少しずつ書いていこうと思います。書く内容にも変化があると思います。
『下津光史歌集』というアルバムがすごくいい。最近たくさん聴きます。
↓ 2月3日に書いたけど、公開しなかった文章です……。これから良くなっていくと思います。 ・・・ 僕はすごく問題がある。問題があって、それが露呈するのを恐れているから、必死に問題がないかのように振る舞う。他人と深く関わって傷つきたくないから、自分で自分を助けようとして、一人きりで考える。でもそれが良くないのかもしれなくて、一人きりで考えているうちに、さらに他人から遠ざかってしまうのだ。問題は悪化し、ますます他人の考えることが分からなくなる。他人も僕の考えることが分からなくなる。誰とも言葉が通じなくなる。そして取り返しがつかなくなるのだ。 何が良くて何が悪いのか、誰が正しくて誰が間違っているのか、全く分からない。教えてほしい教えてほしい、といつも思っている。だけど誰からそれを教わればいいのか、教えてくれるその人は正しいのかすら何も分からないのだ。完全に手詰まりなのだ。僕の知らないところで、誰かと誰かが協力して、僕を助けようと働きかけてくれる。でも僕はどうすればいいのか分からない。何を言って、どう振る舞うのが正解なのか分からない。 複数の問題が頭の中でごっちゃになっていて、それらをえり分けることもできない。分かることがほとんど何もないのだ。分かったと思っても、後からそれは勘違いであるということを突きつけられる。強い感情はあるのに、それが誰に向けてのどういう感情なのかすら分からない。誰とも何とも自分自身とも結びついていないことを感じる。分からないのだ。言葉を使うより黙っている方が正しいくらい、根本的に見失っているのだ。