「他人」とは

他人の考えることは分からない。それが当たり前なのに、かつての僕はむりやりそれを分かろうとし、あれこれ考え、たくさんの想像力を働かせた。そしてその想像のひとつひとつに感情移入した。たくさん想像すればするほど、たくさん感情を自分の中から引っ張り出してこなければならならず、その結果、不必要に自分の感情をゆさぶることになった。そして最後「分からない」という思いだけが(恐怖をともなって)強く残るのだ。「どんなに考えてみても一向に分からない」と。

他人は「真っ暗闇」に似ている。そして僕はその暗闇のなか一人きりで突っ立っており、「そこに何かがいる」という気配だけは感じるけれど、それが何なのかは分からないまま混乱していた。それは自分の味方をしてくれるものなのか、それとも邪悪なものなのか。傷を癒してくれるのか、それとも傷つけてくるのか。近づいてもいいのか、遠ざかるべきなのか。耳をすましたり、おそるおそる手を出して触ってみたりもするけれど、「分からない」という思いが消えることはない。

あまりにも長いあいだ暗闇のなかに立たされていると、だんだんそれが「不当なもの」であるように思えてしまう。「真っ暗闇」とかそこにいる「何か」が、僕を蔑んでいるように見えてくるのだ。僕だけが何も分からないまま混乱させられているのであり、僕以外の人やものは事情をすべて知っている、そしてその上で僕だけを仲間はずれにしているのだ、という考えにとらわれてしまうことすらあった。

しかし、そうではない(ということを僕はいま知っている)! その「真っ暗闇」なり「何か」なりは、確かにその実体をつかむことはできないけれど「邪悪なもの」では決してない(あるいは、僕がかつて考えていたよりははるかに「邪悪なもの」ではない)。「分からない」という思いが消えることはない。しかしそれが「いいもの」であるということだけは(ある程度まで)信じてもかまわないのである。不安を感じる必要はない!のである。

さらに言えば、僕以外のすべての人も僕とおなじように「真っ暗闇」のなかにいて、おなじように手探りしているのだ、という情景を思い浮かべることもできる。誰もがそこにいる「何か」について分かろうとしているのであり、そのために右往左往しながら、はからずも人を傷つけたり、誰かにつまずいたりしているのだ。するとやはりおなじように僕も「真っ暗闇」を理解しようと手探りしているうちに、意図せず人を傷つけてしまうことがこれまでにあったかもしれない、という考えが浮かんでくる。その人たちもまた、僕が感じていたのとおなじ恐怖を感じていたのかもしれないのだ。僕の知らないあいだに、である。



これが、僕が(現時点で)理解している「他人」の姿である。ここまで分かるまでかなりの時間がかかった。いろんなものが一周してもとに戻ってきた、みたいな気持ちである。

これからどうすればいいのかも大体分かっている。というより、分かって「きて」いる。やっと僕は自分を含むあらゆる人・ものになじんでいくことができるのだと思う。そういう気がする。