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とてもいい!

 すべての人が子供なのだ。すべての人が障害者なのだ。すべての人が犯罪者なのだ。子供だけが子供で、障害者だけが障害者で、犯罪者だけが犯罪者なのではない。誰もが何らかの意味では子供だし、障害者だし、犯罪者なのだ。自分の欠点のために自分を殺したい瞬間が何度もあった。だけど、本当の話、何も恐れることはない。誰もが欠点を持っている。すべての人が持っている、未熟さを愛し、障害を愛し、罪を愛すことができれば、憂うことは何もない。本当に! いまこの有頂天をどう説明したらいいのか。僕は信仰の人ではない。それでも、神さま、神さま‥‥‥としか言えない感情がときたまある。  自分以外のすべての人・ものに、自分の生命を預けている。それが僕たちである。自分以外のすべての人・ものの生命の一部を背負っているのは、この自分である。それが人間である。この世界と関係を持たずに生まれ死ねる者がいるだろうか? 僕を僕たらしめているものは僕以外のすべてである。誰かを誰かたらしめているのはこの僕である。神さま、すべては大海のようだから、いまこの瞬間の僕のあり方は、いずれ世界のあちこちに波及する。影響を与えないではいないのだ。「パルフョン、やらなければならないことはずいぶんあるよ! このロシアの国では、やらなければならないことはずいぶんあるよ! 私の言うことを信じてくれたまえ」(これほど力強い指針があって、それでも僕は迷うことがある。なぜだ!)  再び、生命を吹き込まれたような気持ち。真面目な話、どうして暗い気持ちでいることがあろう‥‥‥? 神さま、神さま‥‥‥としか言えない感情がときたまある。これからどこへ行こうが、誰と会い、何をしようが、どうして生きていけないことがあろうか。刑務所でだって生きていける。自分次第で誰とでも抱擁できる(言い過ぎ?)。それなら、どうして心を閉ざす必要があるのか。何を怖がることがあるのか。この恥ずかしい感情を絶えず抱かせてください!(と思う)。アリョーシャのように寛大な心を僕に授けてください。いや、すでに、必要なものはすべてもらってました!

愛する努力/愛される努力

 自分が愛される努力によって、かえって他人を愛せるようになる。自分を大切にすることによって、かえって他人を大切にできる。利己的であることによって、かえって利他的であれる。‥‥‥こういった言説は、どれも「エゴを押し通すこと」(自分を優先して何が悪い!)を正当化するために用意された詭弁である(と私は思う)。自分が愛される努力をした者は、その努力の分だけ他人に厳しくなり、他人を愛せなくなるのがおちである。当たり前のことだ!「愛されたかったら努力をしろ」が、その人の信念になるからである。  愛されるためには努力しないといけないなんて、どんなに苦しい世界なのか。愛する努力の方はどうなっているのか? 生まれつき欠陥があって生まれる人もいるのだし、いやもっと言えば、すべての人が生まれつき欠陥があると言っても過言ではないのだ! すべての人が何らかの意味では障害者なのに、「愛されたかったらその障害を治せ」と言えるものだろうか? 「愛されたかったら努力をしろ」違う。お前が他人を愛する努力をしろ。「幸せになりたければ、努力をしろ」違う。お前が他人を幸せにする努力をしろ。  ああもう。なんでそういうふうになっていかないんだ。なんで誰も彼も自分のための努力を勧めるのか。「あなたが不幸なのは、あなたが悪いからです。もっと努力しなさい」という説教が、気が滅入るほど溢れている。「私が成功したのは、こういう努力をしたからです。私を見習いなさい」という自慢話が、頭を打ち付けたくなるほど溢れている。ああもう! 結局、自己責任論じゃないか。くそっ。自分の力で幸せをつかんだと思い込んでいる。どっからどこまでが誰のおかげかなんて分かるわけない。

忠誠について

 人は誰しも何かに忠誠を誓い生きている。これは間違いない。自分自身に忠誠を誓うだとか〈無〉に忠誠を誓うだとか、そういったことは絶対にできない。誰も神さまではない。問題は、何に忠誠を誓うかである。人は一般的に、自分の所属する組織、とりわけ、自分の生計を維持してくれる組織に忠誠を誓う。組織に倫理がなければ(利潤だけを追求すれば)、組織に忠誠を誓う自分にも倫理がないことになる。上司の言うことを聞くのは必要だが、忠誠を誓うべき対象は、上司よりもはるかに位の高い存在、すなわち〈善〉である。「なぜおれの言うことが聞けないのか!」あなたよりも偉い上司がいるからだ。

制裁の感情

 人が人を傷つける。それだけだったらまだいい。最もやるせない気持ちにさせるのは、傷つける側の方こそ、すでに相当傷ついている人なのだ、ということ。制裁の感情に駆られて、ジャッジして、社会から切り捨てれば、物事が解決するわけではないのだ。社会の一員である私たち一人ひとりの、過去のささいな言葉と行ないが、積もり積もり、そのしわ寄せが一部の人たちに降りかかっているのだ。制裁の感情に駆られているお前は何さまなのか? 過去の自分の言葉と行ないに反省点は一つもないのか。日々、出会う人の心を癒す努力をしているのか。制裁の感情で、人の心を癒せるのか? 人の心を癒すことが重要で、それ以外は何も役に立たない。子供の純粋な心と、私たち大人の精神的な修道だけが唯一の道なのである。
「ソーシャルワークは、社会変革と社会開発、社会的結束、および人々のエンパワメントと解放を促進する、実践に基づいた専門職であり学問である」。この学問こそ、私の進むべき道。ビートルズの「ブラックバード」とおなじ理念を共有している。暗闇にいる(社会的に排除されている)人々を力づけ、解放する。

賢さの無価値

 頭良いことがなんだろう? 頭良くても何にもならない。例えば、頭良い人が人間の心を癒せるのか‥‥? いいえ! そもそも頭良いとは? いわゆる頭良い人たちよりも、はるかに頭良い人たちを私はたくさん知っている。  自分のことを賢いと自負している人は、二つの思い違いをしている。一つは、自分のことを賢いと思い上がっていること。もう一つは、賢さに何らかの価値があると思い込んでいること。  反知性主義ではない。知性には道徳的価値がないので善いも悪いもないと言っているだけで、アンチではない。「それがアンチ知性なんだよ」って言う人がいたら、それならそれでかまわん。  子供の純粋な心こそすべてである。大人の賢い頭はもう何でもない。自分を賢いと思っている大人(私も!)は、自分の不純さを恥ずかしく思うべきである。