愛する努力/愛される努力

 自分が愛される努力によって、かえって他人を愛せるようになる。自分を大切にすることによって、かえって他人を大切にできる。利己的であることによって、かえって利他的であれる。‥‥‥こういった言説は、どれも「エゴを押し通すこと」(自分を優先して何が悪い!)を正当化するために用意された詭弁である(と私は思う)。自分が愛される努力をした者は、その努力の分だけ他人に厳しくなり、他人を愛せなくなるのがおちである。当たり前のことだ!「愛されたかったら努力をしろ」が、その人の信念になるからである。

 愛されるためには努力しないといけないなんて、どんなに苦しい世界なのか。愛する努力の方はどうなっているのか? 生まれつき欠陥があって生まれる人もいるのだし、いやもっと言えば、すべての人が生まれつき欠陥があると言っても過言ではないのだ! すべての人が何らかの意味では障害者なのに、「愛されたかったらその障害を治せ」と言えるものだろうか? 「愛されたかったら努力をしろ」違う。お前が他人を愛する努力をしろ。「幸せになりたければ、努力をしろ」違う。お前が他人を幸せにする努力をしろ。

 ああもう。なんでそういうふうになっていかないんだ。なんで誰も彼も自分のための努力を勧めるのか。「あなたが不幸なのは、あなたが悪いからです。もっと努力しなさい」という説教が、気が滅入るほど溢れている。「私が成功したのは、こういう努力をしたからです。私を見習いなさい」という自慢話が、頭を打ち付けたくなるほど溢れている。ああもう! 結局、自己責任論じゃないか。くそっ。自分の力で幸せをつかんだと思い込んでいる。どっからどこまでが誰のおかげかなんて分かるわけない。

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