動機を分からせないようにすること
言動をするとき、必ずしも明確な動機が用意されているわけではない。つまり、「△△だから(動機)、▲▲と言う/をする(言動)」としたときの、「△△だから(動機)、」の部分が自分の中ではっきりとしないまま、「▲▲と言う/をする(言動)」ことがある。しかし、自分の中で動機がはっきりしていようがしていまいが、その言動を見た他人は、その言動の動機について少なからず考える(推測する)ものである。そして賢い人は、言動をした本人よりもその動機(つまり心の中)について理解していたりする。あるいは賢くない人はそれを誤解したりする。 ここで厄介なのは、隠したい動機が自分の言動に含まれていると他人に思われてしまうときである。非常に分かりづらいので、例を挙げる。 まずは厄介ではないとき、例えば「カレーを食べる」とき。カレーを食べるだけなら、その動機についてなにも隠したいことがあるはずはない。その動機について自問すれば、単に「お腹が空いたから、」となる。そして「お腹が空いたから、」という動機は、他人に隠したいことでもなんでもない。だから、僕たちはなにも気にすることなく、心置きなく、カレーを食べたいときに自由にカレーを食べることができる。厄介ではない。 しかしこれが例えば、「異性(正確には、恋愛対象になり得る性)を映画に誘う」となると話がだいぶ変わってくる。これはかなり厄介で、めんどくさいことをたくさん考えなければいけなくなる。 もし、相手が「異性(正確には、恋愛対象になり得る性)を映画に誘う」という言動を見てその動機について考えを巡らせたときに、相手に「特別な好意を持っているから、(動機)」だと判断されてしまったら、これは大変である。なぜなら、その「特別な好意」を拒絶されてしまう可能性があるからだ。ここで重要なのは、実際に自分の中に「特別な好意」があろうがなかろうが、相手に「特別な好意を持っているから、」だと判断されてしまう時点ですでに問題なのである。 つまり、実際に「特別な好意」があろうが、単に「映画を一緒に見たいくらいの好意」しかなかろうが、あるいは そのどちらともつかないような曖昧な動機であろうが(重要) たくさん考えてから行動を起こさなければならないのである。そしてなんなら、自分の中でその動機を明確に決定してしまうことなく、 どちらともつかないような曖昧な動機 のま