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動機を分からせないようにすること

 言動をするとき、必ずしも明確な動機が用意されているわけではない。つまり、「△△だから(動機)、▲▲と言う/をする(言動)」としたときの、「△△だから(動機)、」の部分が自分の中ではっきりとしないまま、「▲▲と言う/をする(言動)」ことがある。しかし、自分の中で動機がはっきりしていようがしていまいが、その言動を見た他人は、その言動の動機について少なからず考える(推測する)ものである。そして賢い人は、言動をした本人よりもその動機(つまり心の中)について理解していたりする。あるいは賢くない人はそれを誤解したりする。  ここで厄介なのは、隠したい動機が自分の言動に含まれていると他人に思われてしまうときである。非常に分かりづらいので、例を挙げる。  まずは厄介ではないとき、例えば「カレーを食べる」とき。カレーを食べるだけなら、その動機についてなにも隠したいことがあるはずはない。その動機について自問すれば、単に「お腹が空いたから、」となる。そして「お腹が空いたから、」という動機は、他人に隠したいことでもなんでもない。だから、僕たちはなにも気にすることなく、心置きなく、カレーを食べたいときに自由にカレーを食べることができる。厄介ではない。  しかしこれが例えば、「異性(正確には、恋愛対象になり得る性)を映画に誘う」となると話がだいぶ変わってくる。これはかなり厄介で、めんどくさいことをたくさん考えなければいけなくなる。  もし、相手が「異性(正確には、恋愛対象になり得る性)を映画に誘う」という言動を見てその動機について考えを巡らせたときに、相手に「特別な好意を持っているから、(動機)」だと判断されてしまったら、これは大変である。なぜなら、その「特別な好意」を拒絶されてしまう可能性があるからだ。ここで重要なのは、実際に自分の中に「特別な好意」があろうがなかろうが、相手に「特別な好意を持っているから、」だと判断されてしまう時点ですでに問題なのである。  つまり、実際に「特別な好意」があろうが、単に「映画を一緒に見たいくらいの好意」しかなかろうが、あるいは そのどちらともつかないような曖昧な動機であろうが(重要) たくさん考えてから行動を起こさなければならないのである。そしてなんなら、自分の中でその動機を明確に決定してしまうことなく、 どちらともつかないような曖昧な動機 のま

一対一の関係・続

一対一の関係は、 1人ならば1C2で、0通り 2人ならば2C2で、1通り 3人ならば3C2で、3通り 4人ならば4C2で、6通り 5人ならば5C2で、10通り 6人ならば6C2で、15通り 7人ならば7C2で、21通り 8人ならば8C2で、28通り 9人ならば9C2で、36通り 10人ならば10C2で、45通り … というふうに増えていくということ! それなのに、 1-1-1-1-1-1-1-1-1-1-… というふうなつながり。あるいはここまでひどくなくても、 1-1-1-1-1-1-1-…    /            /   1-1-…      1-…   というつながりは、非常にもったいないのではないか!? と思いました。
 僕は(人生において)成功やお金を大きな目的にはしていない。むしろ、それらに目を向けすぎることで満たされなくなるかもしれない欲求があるのではないか、と思っていて、だから成功やお金といったものに適度に距離を置きたいと考えている。  すごくはっきりさせてしまえば、寂しくないことがもっとも重要だ。成功してもお金がたくさんあっても、絶望的な寂しさを感じなきゃいけないようなら、それはなんのための成功、なんのためのお金なのか? われわれは、死ぬ瞬間までに背負うことになる寂しさができる限り小さくなるように計画的に人生を歩むべきだ。寂しくないために必要な分だけ成功しよう、お金を稼ごう。  寂しくないことがもっとも大切。それも、今まさに寂しくないこと以上に、数日後、数ヶ月後、数年後、数十年後に寂しくないために今できることを考えた方がいいという気がする。今現在の寂しさを克服するには、たいていの場合もう手遅れで、そういうときは寂しさをなんとかなんとかこらえて、できるだけ賢くなって、たくさん考えて、これから先寂しくないためにできることをやった方がいいかも。  人と話すことを学ぶのがよい。人と話すことによって楽しい気分になれる時間が定期的にあれば寂しくない。相手がいることだから、当然そう簡単ではない。おれは友だちたくさんいるし大丈夫! という人もいるかもしれないが、これがあと何十年ずっと大丈夫かどうかとなると、やはりそう簡単なことではないのだおそらく。

話しかけられること・人に興味を持つこと

 飲み屋の席などで、知らない人が話しかけてきたりすると僕は(内心で)喜ぶ。店によっては、ほとんど内輪で盛り上がっていて新しい人(僕)に興味がないような店もあるが、そういう店だと「そういう店か…」と思いながら一杯だけ飲んで店を去る。  自分から話しかけるのは怖いのでしない。なので、話しかけにくくないふるまいを気をつけながら、別に話しかけられなくてもいいや、というふるまいも同時にする。話しかけられたら話せるし、話しかけられなくてもすんなり店を出れる。  僕より年下はまずいないので、自分から話かけようという気にあまりならない。それにこっちから話しかけようとしなくても、話しかけてくれる人は割といるので、その必要もあまりない。(僕くらい若い人は珍しいから、とても目立つのだ。というか、僕くらい若い人が珍しいような店を選んで入っているのであった。大学生の集団とかいなさそうな。)  しかし、話しかけてくれる人みんながみんな楽しい人というわけではない。僕に話しかけてくれはしたものの、僕に興味を持っておらずただ若い人を相手に話をしたいだけ、という人が結構いる。そういう人は、僕を「僕」ではなく、「若い人」くらいにしか思ってない。  自分について語りたがっている人は多い。だから、話しかけてくれた人の話に僕は割と丁寧に耳を傾けるようにしているし、適度に相づち打ったり質問してみたりしている。関連した自分の知っている例や考えを述べたりすると、相手は盛り上がる。でも、結局僕に興味がないらしい人が多い。というか、人に興味を持つということをしないのではないかなあ、そういう人は。たまに、お店の人が(!)そういう人なときがあって、二度と来ない! と思って店を出る。(自分語りばっかするやん、と内心で思いながら、頷きながら感心した顔したりせにゃならんのだよ。面白ければいいんだけど、つまらないと非常に疲れる。)  人に興味を持つよう心がけたい。人に興味を持てている人は、本当に少ないと思う。人に興味を持つことを忘れている人は、目の前の人を自分の知っているカテゴリー(僕だったら「若い人」)に入れたまま、それ以上の理解をしようとしない。  僕は、人からどう思われるかを非常に気にするので、初対面ではあまり自分のことについてべらべら喋らない。というか、ほとんど喋らない。聞かれたことか、話の流れからしてそれを話
うへうへ、一昨日から今日までずっと元気がなくて、さっきやっと元気が出てきた。きっかけがあればいつでも元気がなくなれる。怖い。きっかけは参議院選挙と吉本の騒動です。情報量が多かった。
 負の感情はすべて根っこでつながっている。寂しさや悲しみが、怒りや憎しみにすり替えられることがある。抑えられないような怒りや憎しみがあるときは、怒るべき(憎むべき)対象に怒るべき分だけ怒っているのか、それとも自分自身の問題が解決していないがために日常的に負の感情があり、それが噴出しやすいときに噴出しているのか、たくさん考えた方がいい、考えなければならない。  そういう例をたくさん見るし、自分自身もそういうときがある。日頃から常に考えることをしていないと、簡単に分からなくなって、コントロールができなくなる。ヒステリックになる。こうなっては、もとに戻るのは難しい。自分の中の負の感情から目を背けるは楽だが、状況は悪くなる一方。

期待感=元気

 われわれは、期待感があるとき元気である。逆に、元気であるときは(それを意識してなくとも)期待感がある。だとすれば、するべきことは期待感を持続させることだ。できれば、死ぬ瞬間までなにかを期待し続けたい。そうすれば生きてる間ずっと元気ということになる。  例えば、「死後、天国に行ける」と期待することができれば、つまり聖書の神さまを信じて善行し続けるのであれば、生きているうちにどんなに惨めなことがあっても元気でいられる。キリスト教に限らず、宗教は信じること(期待すること)を人びとにさせて、人びとの元気を支えていた(と同時にたくさんの問題もあったが)。しかし、科学の発展(など)にともなって宗教を信じることが難しくなった今日では、それ以外のなにかを積極的に期待する必要がある。  「死後、天国に行ける」は良い出来事(イベント)だ。起こることが期待できる良い出来事を見つければいいということになる。  期待するものを一つに決める必要はない。むしろたくさんあったほうがいい。なぜなら、一つのなにかを期待してそれが裏切られるとき、もう期待できるものがなくなってしまうからだ。次に期待できるなにかを見つけるまでの期間、元気でいることができなくなってしまう。  一つひとつの期待は小さい方が良い。なぜなら一つの期待が裏切られてそれが大きかったとき、自分の持っていた期待の総量が減るからだ。だから、できるだけ小さな期待感を、できるだけたくさん持っているのが良い。  小さな期待感をたくさん持つとき、これはもはや具体的な出来事を期待しているわけではない。例えば目的を持たず街を歩くとき、面白い人に出会えるかもしれないし、景色の良いところを発見できるかもしれないし、思いもよらないことが起こるかもしれないし……といった、曖昧な期待感を持つ。「なにか」良い出来事が起こる! くらいのものである。  小さな期待感をたくさんふわふわさせるのがよい。そのためには、期待できそうなものを見つけられるようにつねにアンテナを張っておくこと、探すこと(ネットで探す、実際に街を歩く、など)。その他、良い出来事が起こる伏線を張っておくのも効果的(好きなアーティストのライブtシャツとか着てれば、「おなじくそのアーティストが好きな人に声をかけられるかもしれない」と期待できる。しかし、そのtシャツがダサければ他の期待を

『ゲッティング・ベター』

 「前よりだんだん良くなってくる」ということを心の支えにしなければいけない。そのためには、「たしかに良いもの」や「正しさ」があるということを信じなくてはいけない。「この世には良いも悪いもない」なんて思っちゃいけない。ただ、正しく「たしかに良いもの」を見極めるのは、ものすごく難しいというだけの話だ。  「この世には良いも悪いもない」なんて、それこそ本当に良くない考えだ。かつての僕はそれを信じていたけど。信じないということを信じていた。なにも信じないということを、本気で信じていた。その世界観(?)では、誰も正しくないという点で誰も偉くないから、割に平和だと思っていたんだな。  でも、全然そうではないらしい。「たしかに良いもの」に向かっているということを信じなければいけないらしい。そうでなかったら、本当によく分からなくなるのだ。自分がここにいることだとか、なにをしてきてなにをするべきかとか、もうほんとに右も左も、上も下も分からなくなる。頭が混乱してしまう。  本当はどうなのか、ということは置いておきたい。難しい部分だけど、本当なんてものが仮にないのであれば、本当があることにしたってなんの問題もない。だから、本当に「たしかに良いもの」「正しさ」があるのか? ということは置いておきたい。その代わり、こう考えたい。本当のところは知らんが、「たしかに良いもの」があると信じた方がうまくいく。つまり、「信じた方がうまくいく」という理由によって、「たしかに良いもの」はある。ここが納得できない人がいたら、かなりじっくり考えてみてほしいところ。「この世には良いも悪いもない」としたときに、自分の生活は果たして「良く」なるのか、ということを。  そして「たしかに良いもの」や「正しさ」があると信じたとする。しかし重要なのは、「たしかに良いもの」を手にしているということでは決してない。「たしかに良いもの」に向かっているという確信である。誰が「たしかに良いもの」や「正しさ」を持っているかなんて、どうでもいいのだ。たぶんそれを手にしているのは神さまだけだ。われわれ人間は、それに向かっているという確信だけがあれば、他はなにもいらない。  ここで例えば僕が、僕自身のこれまでの二十年を振り返ったときに、「たしかに良いもの」に向かっていると言えるのかどうかを考えたい。これを判断するのはものすごく難し

『シー・セッド・シー・セッド』

 ビートルズの『シー・セッド・シー・セッド』という曲をたまに意識的に思い出すようにしている。まずこの、同じフレーズを2回くり返す曲名がバツグンにいいのだが、意識的に思い出すゆえんは歌詞にある。歌詞カードに書いてある和訳はこんな感じ。 彼女は言った “死ぬってどういうことか 悲しみってどんなものか 私知ってるわ” そんなふうに言われたら 生まれてこなきゃよかったと思っちまう 僕は言った “誰にそんな考えを吹き込まれたんだい 僕が狂ってると言わんばかりじゃないか そんなふうに言われたら 生まれてこなきゃよかったと思っちまう” “あなたはわかってくれないのね” ああ わからないね 君は間違ってるよ 僕が子供のころは なにもかもがまともだった  この「彼女」はきっと神さまを信じられなくなったんだろう。「信じる」ということは、ざっくり言うと「期待する」ということだ。神さまを信じられなくなったとき、「なにかをすればなにかが良くなる」ということを信じられなくなる。「神さまがいつも自分の行動を見ていて、善い行いをしていれば自分を幸せにしてくださるのだ」というふうに思えなくなるのである。  僕たちは、しないよりもするほうがなにかが良くなると期待するときだけ、行動を起こすのである。しかしそれを期待できなくなったら、自分の行動の意味を信じられなくなったら、なにをしても無駄だと思ってしまったら、人はなにもすることができずにふさぎこむしかなくなってしまう。(虚無主義か?)  僕はいろいろもがいて物事が良くなるようにあれこれ動きたいと思っているが、根底ではまだ「なにをしても無駄だ」と思っているらしい。どうせ自由意志はないし、すべてはサイコロをふって決められると思っているふしがある。 ブログ4 でも、最後は考えることに意味をおいて無理やりハッピーエンドにしているが、全体としてはかなり虚無的と言える。自分を暗くさせる原因となった考えと言えるかもしれない。  しかし最近は、ものすごく賢い人が心の底から神さまを信じているという事例について考えている。  サリンジャーの『フラニーとズーイ』という小説がある。自分を含めたあらゆる物事に嫌気がさしてふさぎこんでしまった妹のフラニーを、兄のズーイが知性とユーモアによっ
へ!
 正しいか正しくないか、を考えすぎる。単に何かをしたいから何かをする、というのがほとんどと言っていいほどない。正しいことをしなきゃ、というのがまずあってしまう。直感的に喋ったり動いたりすることができないし、これからもきっとないんだろうなと思う。  なんでおれはそこまで正しさにこだわるのか、と疑問に思う。そもそも何に対して正しいのか。これは本当にいろいろで、いろいろなものに対して正しくありたいと思ってしまう。社会にとって正しい、他人が自分のことを見たときに正しい、どんな人が自分を見るか分からないが、どんな人が自分を見たとしても正しい。(つまり、「違くない」。)  「こいつダサい」と思われたくないし、意図せず差別的な発言をしたり、無邪気だが理解のない発言をして人を知らないうちに傷つけたりしたくない。傷つきたくない傷つけたくない。困りたくない困らせたくない。  自分と全然違う認識を持っている人はたくさんいて、違う認識を持っている人から見られたときに、いとも簡単に「こいつ、違う。正しくない」と思われてしまうものだ。そしておれは、あらゆる人があらゆる認識で物事を見ていて、それら全ての認識にとって正しくありたいと思ってしまう。それがもし不可能でも、できる限りその努力をしたい、と。つまり、どこに出てもどんな人と会っても狼狽えず、傷つけず困らせず、堂々としていてかつ然るべき配慮も欠けない人でありたいのだ。障害を持った人に会う機会があっても、マフィアのボスに会う機会あっても「ちゃんと」したい。  しかもこれを、一貫性のある一つの人格でどうしてもやりたいのだ。つまり、障害を持った人に対する自分の言動をマフィアのボスに見られても恥じないし、マフィアのボスに対する自分の言動を障害を持った人に見られても恥じないでいたいのだ。あるいは例えば、一方では風俗に行く人だが、もう一方ではそれを隠しているみたいなことになりたくないのだ。身内では威張りちらしているのに、外に出たらヘコヘコしてるとか。  どんな人が見ても正しいなんて、一体どれほどの可能性なり認識なりを考慮に入れて、それら全てをひっくるめて一つの人格を決定しなければいけないのか。ものすごく難しいことだ。もう人に会わない方がラクなんでは、という気さえする。ものすごいたくさんの方向から、あらゆる種類の視線が自分に投げられていて、それでが
 昨日今日と、東京に出ていて文章書こうという気になりません…。今も、高校の頃の友人と会っている。
 昨日からちょっと元気がないことに数時間前に気づいた。元気がないときにツイッターをやると、ぼろが出そうだし、気が滅入ってばっかりになるので、ツイッターアプリをアンインストールしてしまった。と言ってもブラウザから見れるんですけど。でもまあ、タイムラインを見る頻度は減ります。ツイートはひとまず控えるつもりだ! (果たしてどうだか。)また気が向いたらアプリを入れ直す。文章を書く気力もあんまりないけど、まあ、なんかテキトーに……。  今日、高校のときの一個下の後輩・岡野と高校の部活に顔を出した。この岡野というやつは、非常に気のいいやつで、なんかすごくいい感じの人間である。彼はツイッターをやっていないので、おれのツイートのなんやかんやを知らないし、多分このブログも読んでいないと思われる。  普段のおれはほとんど感情を出さないというか、少なくともツイッターやブログの文章よりは人間味がない。特に、岡野はおれのツイッターやブログを見てないわけだから(見てないとおれは思っているわけだから)、例えばおれがツイッターで元気でも気が滅入っていても、岡野と会ったときは全然関係なく接することになる。そのとき元気な時期でも憂鬱な時期でも、岡野と会うときのおれはうっすらテンション高めで臨む。くだらないことを喋って、ん? あっはっは、って感じである。(実際は、元気なときはゴキゲン! って感じかもしれないが。)  この前、おれがサークルに入るかどうかという話になったとき、岡野は「先輩はなんかひとりで自由にやっていく感じというか、一匹オオカミみたいな」みたいなことを言っていて、ちょっと不思議に思った。岡野は、おれが一匹オオカミみたいな感じであるというイメージを、どこからもらったんだろう? ツイッターを見てないのにも関わらず、である。普段、そんな一匹オオカミな感じを出していたかな。高校のときも、みんなでテキトーにわいわいやっていた気がするんだけど。不思議だ。  今日も、大学を出てからどんなふうな進路を歩むだろうかという話になったとき、「先輩はなんか一つのところにいないで、ふらふらしてそう」と言われた。おれも自分で自分の進路のことを思ったとき、おれはふらふらしてそうだと思う。だけど、なんで岡野もおれと同じように思うことができたんだ? おれのツイッター見てないのにも関わらず、である。思わず、「
 なにかを言いたい! なにかを言ってしまって、なんか自分が自分であることを知ってもらいたい、という気がするんだけど、驚くほどなにも言うことなくて、というか、自分が自分であることを知ってもらえるようなことを言うことができそうなタイミングがなく(与えられず)、人と会っているのにも関わらずなあなあで時間が過ぎていくと、もういいや、となってしまう。というのが連続すると、ああだめだめなんだなア、と思ってしまう。ということを考えていくと、そうか! おれは、今後おれみたいな人間に会ったとき、その人がその人であることを知らせるようなことを言うタイミングを、相手に与えることができるような人間になりたい、なるべきだ! と思うのであった。(おれについては誰にも知られなくてもいいや、もう。)

好き嫌いの画一化

 ただ単に「注目を集める」ことが重視される世の中になっている(ずいぶん前からだが、さらに)。それも当然で、お金を稼ぐことが第一である資本主義社会では、コマーシャルが命だからだ。注目を集め、人々がそれをもてはやすようになれば、スポンサーがつきお金が入る。  最初は、お金を使う人たち、つまり金持ちの男たちが中心となってもてはやすものにスポンサーがついた。ロケットを打ち上げたり、金メダルをとったり、かわいい女の子だったり。しかし、それらが広告としてたくさんテレビなど(以後、めんどくさいのので単にテレビに関してだけを書く)に映り、たくさんのお金が動くようになってきてから、今度は逆に、テレビに映るものを人々がもてはやすようになっていったようだ。しかも一部の金持ちだけではなく、大衆がそれをもてはやすようになる。つまり、もともとは一部の人たちの好き嫌いであったものが、大衆の好き嫌いになっていったということである。さらに言えば、好き嫌いが画一化されていったということだ。  僕たちは、生まれたときから当然のようにテレビがある環境の中で生活をしている。物心ついたときから、テレビでたくさんのことを学ぶ。人が宇宙にいるのって「すごい」のか、金メダルとった人って「かっこいい」らしい、こういう顔の女の子が「かわいい」なのか、みたいな価値判断や好き嫌いの多くを、テレビから学ぶ、あるいはテレビを見るのが当たり前になっている人々から学ぶ。こうして、社会の好き嫌いが一人ひとりの好き嫌いを侵食して最後、社会の好き嫌いだけが人々の心の中に残るような世の中になっていくのだ。  そうじゃなかったら、人が死んでまで宇宙開発なんかしないし、ドーピングしてまで金メダルはとらない、整形してまでかわいくなろうとしないだろう。彼/彼女たち自身が、テレビに映る社会の好き嫌いを、理想的なものとして自分の中にインプットし、それを目指すことを余儀なくされている。しかしその最初の最初は、単に一部の金持ちがもてはやすとしてコマーシャルに使われた、一部の人たちの好き嫌いなのである。  アフリカのどっかの国では太っている男性の方がイケメンとされている、という話は興味深い。太った男性は富の象徴であり、貧しい国の人々にとっての理想となっているからだ。なるほど、人は本来的に必ずしも痩せている人の方が美しい、かっこいいと思うわけではない
 自分の欲求を正確に把握して、それを満たす努力をしなければいけないんだけど、自分の欲求を正確に把握するのが恐ろしく難しいのだ。欲求不満であることだけが確かなときに、どうすればそれが満たされるのか分からないか勘違いしてしまうことがある。  分からないならまだマシだ。もちろん、分からないときはものすごく辛いので、本当に精神的に落ち込むことにはなる。全然大丈夫ではない。しかし、「分からない」と思えているだけマシである。  勘違いしているときがかなり危険だ。というか、多くの人は勘違いばっかしている(と、僕は思っている)ので、多くの人は危険だ…! (僕だってどうか分からないけれど。)  自分の欲求を正確に把握する、って相当難しい。自分の欲求を満たすために、自分の思っていることやりたいこと、した方がいいことなどをあれこれ考えるんだけど、これらを考える過程で使われる言葉が偏っている、あるいは自分の欲求を正確に把握するのに必要な言葉を知らないことがある。  ものを考えるとき、社会的に広く言われていることに強く左右される。自分の知っている言葉でしかものを考えることはできないが、自分の知っている言葉は多く、社会(というか社会人)から学ぶ。社会がおかしければ、社会で広く使われている言葉もまた、おかしい。これらのおかしい言葉を自分の中から捨て去る、とまではいかないまでも、脳みその端っこに追いやるくらいのことをしなければいけない。  自分の欲求を自分で満たしている立派な人(一人きりで満たしているという意味ではない。自分で考えて自分で行動して、という意味である)から、たくさんの言葉をもらわなければいけない。立派な人はものすごく賢いので、「おれの欲求を満たしてくれ!」と一方的に人にぶつかることをしない。蜘蛛の巣のようにアンテナを広げて人を待ち、双方の欲求が満たされるようなやり方で自分の欲求を満たすことを考える。  自分自身の欲求も満たせないような人からどうのこうの言われても、全然心に響かないのだ。そういう人は、「相手の欲求を満たしてあげよう」という理由をふりかざして、自分の欲求を満たすためにあーだこーだ言うことが少なからずある。(僕もたまにそういうことがあって後で気づいて反省する。)しかも、自分で自分の厳しい状況に気づいていない。そしてそういう人はだいたい、社会の言葉を使
 「正義が勝つのではなく、勝った者が正義である」とはよく言うが、競争に勝った者が、競争に勝つことでは満たされない欲求までも競争に勝つことで無理やり満たそうとして競争し勝ち続けるのなら、話は別だ。そいつは、自分でも自分がなんの欲求を満たそうとして競争を続けているのか、分からなくなっている。  そうやって競争を続ける賢くない人たちは、競争に勝つことでは満たされない欲求があることを分かっている賢い人たちがほどほどに努力して競争をすれば得られたはずだった満足をも、奪いにかかる。すると賢い人たちは、それを奪われないようにもっとたくさん競争に勝つための努力をしなければいけなくなり、競争に勝つことでは満たされない欲求を満たすのに必要な時間と労力が確保できなくなるのだ。  分かりづらい説明だな…。  お金は必要であるが、お金を支払うことで満たされる欲求を満たすために必要な分だけお金を稼げばいいのであって、それ以上にお金を稼ぐのに使う時間と労力はすべて、お金を支払っても満たされない欲求を満たすために使うべきだ。あるいは、なんの努力もしないでだらだらするべきだ。  お金を支払っても満たされない欲求をお金を支払うことで満たそうとする人は、お金を支払っても満たされない欲求を満たすことができないまま、その現状を把握せずに、金稼ぎではない種類の努力をせずに、足りない足りない! と思って金を稼ぎ続ける。  金稼ぎは競争であるから、誰かがお金を稼げば稼ぐほど、他の誰かに入るはずだったお金はその人に入らなくなる。その人は、金稼ぎをし続ける人のせいで、お金を支払って満たされる欲求を満たせなくなるのだ。それは自分の国の人かもしれないし、他の国の人かもしれない。  金稼ぎもほどほどにしたい。このままでは、誰も助からないのではないか。

一対一の関係

 仲間に入れてやるとか、仲間に入りたいみたいな心の動きがあまり好きではない。コミュニティ、仲間、集団がまず先にあって、そこに人が入るのを受け入れる受け入れない、受け入れられたい受け入れられたくないみたいなのが好きではない。  例えば、すでに仲良しの三人組がいたとする(四人組でもなんでもいいんだが)、そこに新しくやってきた一人が仲間に入りたがっている。そして、その仲良し三人組でその人を仲間として入れてあげるのかあげないのかを相談する。意見が割れたりするかもしれない。あるいは、誰か一人の発言が強く、その人に他の二人が従うのかもしれない。いずれにしても、仲良し三人組で一つの決断を下すのだ。こういうのって、ちょっとあまりかっこいいとは言えないのではないか。  一人ひとりが、その人と仲良くするかどうかを決めたらいいのではないか。そもそも仲良し三人組というのも、意識としては、AさんとBさんが仲良し、BさんとCさんが仲良し、CさんとAさんが仲良し、というような、一対一の関係が三つあるのだと考えるべきではないか。そして、Aさんが新しくきたDさんと仲良くしたいなら仲良くすればいいし、Bさんは仲良くしたくないのなら仲良くしなければいい。当然、そのことでAさんはBさんを、BさんはAさんをとやかく言うことはしない。そうやって、グループと一人の関係ではなく、一対一の関係だけがあるのが健全ではないか。  お店とかでは、お店の人とお客とで一対一の関係がまずある。お店の人が誰かを出禁にしたりするのは、この一対一の関係における動きと見れるのではないだろうか。他のお客が出禁にされた人と仲良くしたいのであれば、他の場所で仲良くすればいい。  一対一の関係だけを持つとき、グループに所属していたときは誰かと相談できたのと違って、すべて一人で考えて誰とどのように仲良くするのか決断することが必要になる。考えることが増えるだろう。そういう意味で、あまり簡単なことではないのかもしれない。しかし、それを目指す方がかっこいいし、正しいという気がする。  これは、派閥とかそういうのを作らないことでもある。派閥なんて、ほんとにくだらないんだから。みんなどうせ一人だし、だから一人ひとりが考えて人と仲良くするべきだ。特に「かっこいい集まり」というか、なんか会員制っぽい(?)意識高い感じの集まりとか、ほんとにかっこ悪い
 新宿のゴールデン街という場所に行くことがある。しかもつくばから行くので一時間半くらいかかるわけだ。遠くに来たな、という感じがものすごくある。距離だけではない。そこにある物やいる人が、つくばとはあまりにもかけ離れているからだ。  遠くに来たとき、寂しい感覚がする。知っている人はいないし、なじみの物もなにもない。それでもなにか楽しいことがあるはず! と思って、期待感や好奇心を持ってわざわざお金と時間を使って遠くに行くわけだが、期待していたような楽しみがなかったとき、本当にみじめな気持ちになるのだ。特にゴールデン街はなんか賑やかなイメージだし、みんながそこで楽しんでいる雰囲気があるのに自分は楽しめないのか、と悲しくなったりするのだ。ひとりだし。そしてそういった期待が打ち砕かれる出来事が立て続けると、もう「家から出よう!」という気にならなくなってくる。  今まさに楽しい! 面白い! と思っているときは元気である。でも、生活している間ずっと楽しいことがあるわけではない。では、楽しいわけではない時間は必ず寂しい辛い苦しいのかというと、そういうわけでもない。それは期待感があるからだ。これから(数秒後か、数年後か)楽しいことが待っているはず! という期待感が持てているうちは、そのとき楽しくなくても元気でいることができる。逆に、この期待感まで持てなくなったときは、本当に本当に辛く、寂しい。  頑張って遠くに行って、なにも楽しいことがなく帰宅を余儀なくされたときの気持ちは、まさにこれである。どうせ家を出ても楽しくない、お金を使ってわざわざ寂しい思いをするだけだ、と思ってしまうし、事実その可能性は常にある。期待感がなにかのきっかけで復活するまで、楽しいことも楽しいことが起こる期待感もなく、家にこもって頭を抱えることになる。  こうならないようにたくさん考える。つまり、期待感や好奇心を持って外に出て、遠くに行って人と会ったとき、その自分の期待感に自分で応えるためにはどうすればよいか、いろいろ試行錯誤をする。誰かに楽しくしゃべりかけてもらえるためのふるまいだったり表情だったり、会話してるときにどういうテンションやスタイルがいいのかだったり、いろいろ考える。特に、僕はこれといった趣味がないので、どういう嗜好の場所に行けば人と仲良くなれるはず、というものが一切ないのだ。本は読む
 今日は、先日行った「深夜+1」というお店の映画好きのマスター(6/30の日記参照)に教えてもらった「早稲田松竹」という映画館に行った。高田馬場にある。ブニュエル監督という人の作品、『皆殺しの天使』と『ビリディアナ』の2つを見た。映画好きのマスターいわく「いいのやってる」とのことだったので。  映画をほとんど見ないので、当然ブニュエル監督についても一切知らず、どれくらいの年代とかどこの国の映画とかも知らずに見た。白黒映画であることも知らなかった。さっき調べたところ、どうやらメキシコの映画らしい。  まず『皆殺しの天使』について。晩餐会に集まったブルジョア20人が、宴もたけなわという時間になっても誰も帰ろうとしない。結局誰一人帰らないまま夜が更け朝になり、みんながみんな誰も帰ろうとしないのを不思議がる。しかしだんだんと、帰ろうとしないのではなく帰ることができなくなっている(それも、客間から出られなくなっている)ことに気づき、ブルジョア20人が客間に閉じ込められる、という話。終始気味の悪い感じではあるが、どこか滑稽でそこまで後味が悪いわけではない。それでもかなり衝撃的な内容だった。あらすじどころか、ジャンルさえも知らないまま見たというのもかなりよかった。  『ビリディアナ』は『皆殺しの天使』ほどの気味の悪さはないにせよ、同じくらい変わった作品であったとは思う。修道女であるビリディアナが、唯一の親族である叔父の屋敷を訪ねるところから物語は始まる。この叔父は男やもめで、ビリディアナに亡き妻の面影を重ねて彼女を愛してしまってなんやかんや……というのが物語の前半ではある。しかしこれは単なる物語の前半、なんなら導入に過ぎなくて……。この作品は、当時のカトリック教会から大バッシングを受けた問題作らしい(結末からして納得である)。個人的には、乞食の描かれか方がものすごく印象的だった。当時の社会状況や人びとのくらしが垣間見れて面白い。  これらブニュエル監督の作品は、シュルレアリスムの部類に入るらしい。シュルレアリスムがどんなもののことを言うのか僕はほとんど知らない。少なくとも今日見た2作品は、共通してなにかとぶっとんだ感じである。ブニュエル監督は変態だと思う。いやいや、本当に面白かったです。

「ひとりの人間」について考える

 ここ最近は、「ひとりの人間が、どういう環境で育ち、なにに影響を受け、なにを思って、現在の考え方なり人格ができあがっているのか」についてよく考えている。誰を「ひとりの人間」として考えるかについては、自分自身をはじめ、家族、友人、会った人、有名人、歴史上の人物、物語の登場人物など様々である。  しかし、一年から半年くらい前までの自分の興味関心は主に、「政治」や「科学」といった社会的な事柄、つまり「ひとりの人間」からは遠く離れたテーマであった。考えたとしても、せいぜい「人間」についてまでであった。そのとき読んで楽しんでいた本も、『科学哲学への招待』だったり『人間の条件』『一九八四年』などである。最初の二つは物語ではないため、登場人物はいない。歴史上の人物の名前は出てくるが、彼ら一人ひとりにスポットがあたるわけではない。『一九八四年』は物語ではあるが、キャラクターが特別に目立っている小説とは言えないだろう。社会的なテーマを扱った小説であるからだ。  それが、去年の秋〜春休みくらいにかけて、僕は「自分」について一番よく考えるようになっていった。「自分が、どういう環境で育ち、なにに影響を受け、なにを思って、現在の考え方なり人格ができあがっているのか」について。特に「自分は、なにを思っているのか」について深く。当然ながら、「自分」も立派な「ひとりの人間」であることを考えると、「自分」についてあれこれ考えることを境に、僕の興味関心は、社会的なテーマから「ひとりの人間」というテーマに推移していったように思う。  そして今では、「自分」についても考えつつも(また、社会的なテーマについて考えつつも)、自分以外の人物を「ひとりの人間」として設定して、あれこれ考えることが多い。それも、その人がどういう環境で育ったり、どんなことを考えているかだけではなく、その人がどんな言い回しをするか、仕草をするか、格好をしているかまでほとんどすべてが興味深い。読む本に関しても、ストーリーやキャラクターが目立っている小説を楽しむことが増えた。出てくるキャラクターの性格、格好、セリフなどが面白いと思うようになった。  「ひとりの人間」について考えることの意義はたくさんある。立派な人の考えやふるまいは、自分自身を形作る上で非常に参考になる。また、人と接するときにもそれらについて考えるのは大切だ。自分が思
は!