『シー・セッド・シー・セッド』

 ビートルズの『シー・セッド・シー・セッド』という曲をたまに意識的に思い出すようにしている。まずこの、同じフレーズを2回くり返す曲名がバツグンにいいのだが、意識的に思い出すゆえんは歌詞にある。歌詞カードに書いてある和訳はこんな感じ。

彼女は言った
“死ぬってどういうことか
悲しみってどんなものか 私知ってるわ”
そんなふうに言われたら
生まれてこなきゃよかったと思っちまう

僕は言った
“誰にそんな考えを吹き込まれたんだい
僕が狂ってると言わんばかりじゃないか
そんなふうに言われたら
生まれてこなきゃよかったと思っちまう”

“あなたはわかってくれないのね”
ああ わからないね 君は間違ってるよ
僕が子供のころは
なにもかもがまともだった

 この「彼女」はきっと神さまを信じられなくなったんだろう。「信じる」ということは、ざっくり言うと「期待する」ということだ。神さまを信じられなくなったとき、「なにかをすればなにかが良くなる」ということを信じられなくなる。「神さまがいつも自分の行動を見ていて、善い行いをしていれば自分を幸せにしてくださるのだ」というふうに思えなくなるのである。
 僕たちは、しないよりもするほうがなにかが良くなると期待するときだけ、行動を起こすのである。しかしそれを期待できなくなったら、自分の行動の意味を信じられなくなったら、なにをしても無駄だと思ってしまったら、人はなにもすることができずにふさぎこむしかなくなってしまう。(虚無主義か?)
 僕はいろいろもがいて物事が良くなるようにあれこれ動きたいと思っているが、根底ではまだ「なにをしても無駄だ」と思っているらしい。どうせ自由意志はないし、すべてはサイコロをふって決められると思っているふしがある。ブログ4でも、最後は考えることに意味をおいて無理やりハッピーエンドにしているが、全体としてはかなり虚無的と言える。自分を暗くさせる原因となった考えと言えるかもしれない。
 しかし最近は、ものすごく賢い人が心の底から神さまを信じているという事例について考えている。
 サリンジャーの『フラニーとズーイ』という小説がある。自分を含めたあらゆる物事に嫌気がさしてふさぎこんでしまった妹のフラニーを、兄のズーイが知性とユーモアによって救い出すという話である。
 ズーイはものすごく賢い。フラニーも賢いが、ズーイの賢さはそのさらに上をいっている。そのズーイが神さまを信じているのである。ズーイはものすごく賢いのだが、いやものすごく賢いからこそ神さまを信じているのだという気がする。おそらく神さまがいるかどうかが問題なのではなく、神さまがいると信じる方が上手くいくことを分かっているから神さまを信じているのだろう。そんなことが可能なのか…?
 作中では「演技をする」ということがキーワードのひとつになっている。演技をするというのは、自分ではないものの真似をするということである。神さまを信じる演技をするというのは、本当の自分は神さまを信じていないが、神さまを信じる人の行いを真似する、つまり形だけのお祈りをするということだ。しかし本当の自分というものは本来おそらくないのである。だから、神さまを信じる人の演技をすれば後からそれが本当の自分になる。そしてそのことをすべて理解した上でズーイは演技をするのだろう。きっとものすごく賢いからそういうことが可能なのだ。『一九八四年』に出てくる完璧な「二重思考」の持ち主、オブライエンと同じ。というか、国民に党を信奉させるべく「二重思考」させるやり方と同じ。(善悪は異なるが。)
 信じる演技から始まって最後、本当に信じることになるのだ。しかもそのからくりをすべてわかっててやってのけるのだ。ものすごく賢いからそれができるのだ。

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