何かをするということ、つまり行為というものは、それがなんであれ、それをする人の勇気を必要とする。なぜなら行為は、それをする前には、それがどのような結果を引き起こすか、ほとんど予測がつかない上に、取り返しもつかないからである。そのため行為には、そのリスクをわが身に引き受けるということが含まれているのであり、それを進んでしようと思う者がいなければ、この世界ではまさしく何も起こらない。そのため、受動的にしかことを為さない人は、積極的にことを為す人に——それが引き起こす結果がなんであれ——負うている部分があるのである。また、行為をした人を赦し、起こってしまったことの埋め合わせをみんなでしよう、と考える力のない場所にあっては、行為をする者はいなくなってしまう。
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11月, 2020の投稿を表示しています
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考えなければならないこと、解決しなければならない問題なら、もちろん無数にあるのだけど、その中でもとりわけ重要なこと、すなわち、まずそこから始めなければならないような、あらゆるものに先立つ第一の問題とは、いったい何だろうか? そう問われれば、おそらく、それは善悪の問題である、と答えるほかないように思う。神様はいるのかいないのか、いるのであればそれはどういった神様か、といった問題は、現代の僕たちにはあまりにもなじみが薄い。しかし、善悪ということならまだ真剣に扱われているし、そんなものを考える必要はない、と断言するわけにもいかなくなってくる。なぜなら、もし「善悪などない」ということになってしまえば、悲しいかな、僕たちに残されているものは、単なる「個人の欲求」であるとか、せいぜい「一部の人間にとっての利害」といったものでしかないだろうが、そんなのは容易に認められる事態ではないからである。
悲しみを物語ること
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僕たちは、自分の心の中がどうなっているのかについて、できるだけ 公平 でなくてはならない。もし仮に、あなたが世界中を敵に回すと心に決めたとして、この世界がいかに愛するに値しないかについて頭を使うのであれば、それと同時に、あなたはあなた自身についても深く考えてみる必要があるのである。なぜなら、僕たちはどんなときでも、「自分」ということを度外視してものを考えたり、意見を主張したりすることはできないからである。実際そこには自分の利害が絡んでいるだろうし、あるいは、考えたくもないような劣等感だとか、自尊心の問題が含まれていたりもするだろう(「考えない方がいい」と言ってしまいたくなるほど、それは恐ろしい領域である)。もしくは育った環境だとか、出会った人だとか、そういった具体的な体験が影響していることもある。このように、僕たちが日々考えたり感じたりすることには、必ずそれなりの動機があるのである。 しかし、心の中のそれらをすべて考え、吟味することは、途方もなく苦しい作業である。たぶん自分一人ではできないことだろう。そういった諸々の考えや可能性について、辛抱強く耳を傾けてくれる他者を必要とする。憎しみや悲しみと、それが起こった原因についての一連の物語を、丁寧に聴いてくれる存在を必要とする。「どんな悲しみも、それを物語にするか、それについての物語を語れば、耐えられるようになる」(イサク・ディネセンという人の言葉。『活動的生』からの引用)とあるように。そしてあなた自身も、誰か他の人にとってのそういった存在でなくてはならないし、そうした営みをこそ大事にしなくてはならない。そうしてはじめて、人間は「人びとのあいだにとどまること」ができるのだから。また、それこそが、精神的な意味において「生きている」ということの本質なのであり、自分の心の中について公平でなくてはならないことの理由である。
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言葉ではどうとでも言えてしまうものだ。言葉を使えば、どんなに空疎なことでも、醜悪なことでも、それらしく言えてしまうものである。見当ちがいなことを延々とくり返して、人を迷い込ませることもできるし、自分という存在を、何かの権威であるかのように、周囲に思い込ませることもできる。混沌としたものに美しいラベルを貼って、売り歩くことができる。どこまでも賢く、偉大であるにも関わらず、そういったことのために言葉を費やした哲学者が、これまでにも少なからずいたのである。そういった人たちが、どれくらい自分のそうした性質を理解していたのか、それは分からない。まったく理解せず、意図せず、そのようになったのかもしれない。また、この僕自身、そういった傾向をまったく持っていないなどと、断言できるとも思わない。
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これでやっと誰に対しても気を遣わなくてすむ。一人になって、わたし自身に戻れる。そしてそれは、最近しばしば彼女がその必要を感じることだった——考えること、いや考えることでさえなく、ただ黙って一人になること。すると日頃の自分のあり方や行動、きらきら輝き、響き合いながら広がっていたすべてのものが、ゆっくり姿を消していく。やがて厳かな感じとともに、自分が本来の自分に帰っていくような、他人には見えない楔形をした暗闇(ダークネス)の芯になるような、そんな気がする。(…)そこには自由があり平穏さがあって、さらに歓迎すべきことに、何かすべてを一つにまとめあげる力、安心感に支えられたくつろぎにも似た気分が感じられた。わたしの体験では(ここで夫人は編針を器用に動かした)、黒い楔形にならず普段の自分でいる限り、安らぎなどは見出しようがない。日頃の自分を脱ぎ捨ててこそ、苛立ち、焦り、心の動揺などがかき消えていく。そしてこの平穏さ、この休息、この永遠の時間のただ中で、さまざまの事が一つに重なり合うとき、夫人の口許には、われ知らず、人生に対する勝利を謳う声が浮かんでくるのだった。それから気持ちを落ち着かせ、灯台の光、あの三度目に放たれる長くしっかりとした光の一投(ストローク)を迎え入れるべく、静かに目を上げた。あれはわたしの光だ。 (ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)
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あなたの尊敬している人物が、あなたを受け容れ、愛していると同時に、あなたが軽蔑している他の人間のことをも、あなたを愛するのとまったくおなじように受け容れ、愛しているといった場合について考えてみる。その後のあなたの反応は、次の二通り。 ① あなたは尊敬している人物について、軽蔑に値するはずのあんなやつをも愛してしまうのであれば、自分を愛してくれていることにも特別な根拠はないのだろう、と思うようになる。そして、そのことによって悩み、苦しみ、考え込み、ついには幻滅さえしてしまう。どうしてあの人のことを尊敬していたのだろう、自分には見る目がなかったのだろうか、と。 ② あなたは軽蔑している人間について、自分の尊敬するあの人が受け容れ、愛しているとなれば、実際はそれほど悪いやつではないのかもしれない、と思うようになる。そして、その人のことを徐々に受け容れるようになり、ついにはすっかり愛してしまう。それはまるで、尊敬している人物の愛を媒介として、その人物の傘にいる人たちみんなを無条件に愛してしまうかのようである。 これらの現象について、あまり上手に書くことができないのが、とても残念である。すっとばして結論じみたことを述べてしまうと、このようになる。あらゆる人間を愛する人物のことを心から尊敬していれば、その人物の愛を媒介として、僕もあらゆる人間を心から愛することができるようになるだろうということ、さらには、自分を心から尊敬してくれる人がもしいるとすれば、僕は、その尊敬の気持ちを、その人があらゆる人間を心から愛するようになることのために使いたいということ、これである。
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小学生の頃のことは、かなり鮮明に覚えている。当時の自分がいまの自分とおなじ人間であるとは、とうてい思えないのだけど。住んでいる世界もまったく違っていたような気がする。 大人たちが整えてくれた箱庭(のようなもの)の中で子供はすくすくと育っていく、というイメージが僕にはあり、自分の幼少期もそういったものとして回想することができる。箱庭の外に何があるのかなんて当時はまったく知らなかったし、自分が箱庭の中にいるのだということすら、まったく分かっていなかった…… ✻ 泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ おかあさんを嘆かせてやるんだ 扱い方は十分心得ているから大丈夫さ マリーゴールドの王様は台所で 女王様の朝食の仕度をしている 女王様は居間で 王様の子供たちのためにピアノを弾いている 泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ おかあさんを困らせてやるんだ 扱い方は十分心得ているから大丈夫さ だから泣くんだ 赤ちゃん 泣くんだよ …………………… 元いたところに私を戻してくれる? お願いだから 元いたところに私を戻してほしいの ブラザー 私を戻して ——ビートルズ「 クライ・ベイビー・クライ 」 ✻ そして唇でジェイムズの髪に優しく触れながら、この子も今ほど幸福に感じることは二度とあるまい、と思いかけたが、そういう言い方に以前夫が腹を立てたことを想い出して急いで止めた。それでも真実は真実だ。これから先、子どもたちが今以上に幸福になることは、やはりないだろう。今のキャムなら十ペンスのお茶セットがあるだけで、何日でも幸せでいられるのに。朝起きるとすぐ、子どもたちが頭上の床を踏み鳴らし、歓声をあげるのが聞こえてくる。そして廊下を勢いよく走る音がしたと思うと、急にドアが開いて、バラのように瑞々しく、もうすっかり目を覚ました子どもたちが、一斉になだれ込む。まるで、朝食後の食堂に入るという、毎日繰り返している何でもないことが、子どもたちにとっては一大イベントででもあるかのように。(…)それで階下に戻った折りについ夫に向かって、なぜあの子たちは大きくなってすべてをなくす必要があるのかしら、今が一番幸せなのに、などと言ってしまう。すると夫は怒りだし、なぜそんな暗い見方しかしないのか、もっと分別を持たなきゃ、と言う。 ——ヴァージニア・ウルフ「灯台へ」 ✻ いいですか、こ
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活動的なもの(人に優しくすること)↔ 観想的なもの(優しい 気持ち ) 「さてみなが旅行をつづけるうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が家にお迎えした。マルタにマリヤという 姉 妹があった。マリヤは主の足もとに坐ってお話を聞いていた。するといろいろな御馳走の準備で天手古舞をしていたマルタは、すすみ寄って言った、「主よ、 姉 妹がわたしだけに御馳走のことをさせているのを、黙って御覧になっているのですか。手伝うように言いつけてください。」主が答えられた、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を配り、心をつかっているが、無くてはならないものはただ一つである。マリヤは善い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」(『ルカ福音書』10・38 −42。マルタさんが少しかわいそうとは思うのだが…… )
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人びとがいなければ、他者がいなければ、僕は決して生きていくことができない。たとえ完璧な人間になれたとして、どこまでも賢く、美しく、善い人間になることができたとして、そういった完全な一個人になることができたとして、はたしてそれがなんだろう? それでもやはり人間はどういうわけか、一人きりでは生きていけないのだから! 何かしら意味のあるものを与えてくれるとしたら、この自分では決してなく、自分以外の人びとなのだから! そういった事実にぶち当たるとき、一時的ではあるにせよ、冷静さの欠いた激しい感情ではあるにせよ、それでも確固たる気持ちで、この自分という存在は他の誰よりも低い者であるし、また、実際そうであるだけでなく、むしろ喜んでそうありたい!と考えてしまうのは、何もおかしなことではない……
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僕はかつて平気で人を傷つけ、どういうわけか、それを当然の権利であると考えていた。いま僕は切実に善い人間でありたいと望んでいるし、いくらかはすでにそうであると信じたいけれど、もし、かつて傷つけた人にたまたま街中で会ったりしようものなら、僕は後ろめたさのあまり逃げ出してしまうかもしれない。どのくらいの謝罪をし、どのくらいの埋め合わせをしたら許してもらえるか分からず、それが怖いのである。それなのにこの場合、どちらかと言えば怖がっているのは僕ではなく(そんなことがあってはならないのだけど、おそらく)相手の方がもっと僕を怖がっているのかもしれないのだ。これほどの卑劣さはもはやあり得ないと思うが、事実、そのように僕が仕向けたのだし、そういった行いが当然であると考えていた過去の自分が恥ずかしい、そしてときには、痛ましくをさえ思う。 他の人はどうか知らないし、そのままでいてくれてまったく構わないが、僕だけは(この自分だけは!)どんな人も傷つけることのないよう、可能なかぎり細心の注意をはらい、一秒一秒を生きていかなければならない。他人の良し悪しについての自分の意見を信じず、こんなやつはどう思おうがかまわない、とささやく声には耳を傾けないようにして。もちろん、そういった穏やかな心持ちにも限界はあるし、また、どんなに気をつけていても、知らず知らずのうちに人を傷つけてしまうということもある。しかし、だからこそ、僕は謙虚さを捨てないようにしようと思えるのだし、ときには反省的になることもできるのだ。そして、まさにそういったことの積み重ねによって、僕という人間が向上していくのである。このような考えに至ったいま、迷うことなくこの道を進むつもりである。