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善意について

 善意というものは、誰に見られることも知られることもない、現れてはすぐさま忘れられてゆく、はかないものである。善を為している当人でさえ、知らないようなものである。少なくとも理念としてはそうである。「右の手のすることを、左に知られてはならない」。  しかし善意は、その大きさに見合った分だけ、いつかどこかで必ず実を結ぶ。大きい善意は大きい実を、小さい善意は小さい実を結ぶ。実を結ばない善意など決してない。善意が無力であるという誤解は、それが見られも知られもしないために、どのような因果で私たちのもとに届けられるのか、確認することができないという単純な事実から生じる。しかし、実を結ばない善意など決してないし、世界をひっくり返して征服することができるほど偉大な力を持ってさえいる。善意は、いつ、どこの、誰とも分からないような人に、善を為す当人にも分からないやり方で、幸せを与えているのである。  見ることも知ることもできない善意で、この世界はあふれているのだけど、善意はつねに隠れているので、私たちはその事実を忘れてばかりいる。わざわざ意識して、想像しようとするときだけ、それを思い出すのである。私たちに降りかかってくる幸せ( 幸せはつねに降りかかるものであって、自分でつかみ取るものでは断じてない )が、いつ、どこの、誰の善意からやって来るのか、私たちは知ることができない。想像することができるのみである。