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10月, 2019の投稿を表示しています
憧れ・嫌悪
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『僕が白人だったら』という曲は、その題名や歌詞から「白人」に対する憧れが描かれているのだが、終盤の「毎週末には教会へ行くすべて クリーニングしてくるクリーニング」という部分は大きな皮肉で、それは『バグダッドのボディーカウント』のサビ「God Bless America」の皮肉と同じものがある。 白人ではない人たちに白人に対する憧れを抱かせたものは、白人が大きな力を持って作りあげてきた社会の価値判断(好き嫌い)である。白人ではない人たちも、白人が作り上げた白人優先の価値判断に少なからず影響を受けてしまうのだ。それに気づいたとき、白人ではない人たちは、白人に対する「憧れ」と同時に「嫌悪」も持たなければいけなくなる。矛盾した感情を持たなければいけなくなる。 これは白人うんぬんに限らない。自分ではないものに対する「憧れ」は、それをコントロールして自分を肯定するために正当な理由を探しだしてくるものだが、多くの場合その「正当な理由」は「他人あるいは社会に対する批判・嫌悪」という形をとる。学校に対する批判、会社に対する批判うんぬん。 人はときどき、自分にとって唯一存在である「自分」を肯定するためならどんな歪んだ考え方だって受け入れるし、どんな過激なことだってやるものだ。それが「自分以外のすべてを否定することで、ただ自分ひとりを肯定する」というやり方であっても。そうでなかったらマーク・チャップマンはジョン・レノンを殺す必要なんてないし、かつてのドイツ人がヒトラーに従ってユダヤ人を迫害することもなかっただろう。どんなときもまず「個人的な感情」がある。そしてその後に理屈がついてくるのだ。 「個人的な感情」以外のなにものも、最初にその人を動かすことはしない。 「個人的な感情」に根差した批判・嫌悪はすべて排除しなければいけないなんてことは当然ない。 しかし僕たちは、必ずその「個人的な感情」にどこまでも自覚的でなければいけない。そしてその矛盾した感情のなかで賢くバランスをとる必要があるのだ。たえず自問自答することができる者でなければ、なにも言うことはできない。自問自答はときどき本当に辛いものがあるんだけれど。(『万延元年のフットボール』の鷹にはその自問自答が足りない。あるいは、しらふで(正気で)自問自答することができないくらい深い傷を負っているのだ、とも言える。対
社会性のなさ
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打ちっぱなしゴルフ練習場で、夜八時から九時半までのらくなバイトをしている。普段は火曜と木曜が僕の担当なんだけど、用事があると友だちに代わってもらったり、逆に友だちの担当の日を僕が代わりにやったりする。そしてこの前の土曜日(土浦の花火大会の日だ)も、友だちの代わりに僕がゴルフ練習場に行かなければならない日なのであった。 しかし僕はそのことをすっかり忘れていて、無断欠勤してしまった。 僕は人並み以上に誠実に生きているつもりである。でもそんなことは今どうでもよくて、中高を思い出してみると僕はよく遅刻をしたし、提出物も出さなかったし、忘れ物をしたし、テスト勉強も付け焼き刃であった。僕は怠惰かつ注意力散漫なところがある。 しかしそれだけならたいして問題はない。(大いに問題ありだという意見もあるけど。)一番の僕の問題点は、そういう自分の怠惰や注意力散漫を恥じてしまうということにある。しかもそれが精神的にかなりこたえるのだ。 恥じてしまうといっても、怠惰や注意力散漫による失態それ自体を恥じているわけではなくて、それによって人に迷惑をかけて信頼を失うとか、だらしないやつだと思われるとか、怒られるとかいった、失態のあとに待ち構えている対人コミュニケーション(?)のもろもろを恐怖しているといったほうが正しい。 つまり怖い大人が死ぬほど怖いのである。(二ヶ月くらい前か、一人で車で千葉に出かけたとき、停めちゃいけないところに車を停めてしまって、お店でゆっくりと本を読んでいたところ「黄色い車の持ち主はいねえか」とのりこんできたお兄さんにかなり恐怖した。本当にびっくりしてしまって、その日はもう一日じゅう気が滅入ってしまった。ところで、僕の「怖い大人が死ぬほど怖い」の原体験は父親である。また、人を怒るドッキリとかを平気でやっているテレビ番組や、それを楽しく見てる人たちの神経を疑う。) 僕にとってこれは本当に本当に大きな問題で、だから失態があると「逃げる」を選択してしまいがちである。すぐにちゃんと謝れば最小限で済むものを、(血を吐く思いで)ずるずると逃げまわって、もう逃げられないというところまで逃げてしまいがちである。おびえと惨めさを感じて。犯罪者が逃げまわっているのと似たような気持ちなのではないかな。(犯罪者のそれの方が苦しいとは思うけど
ふたつの本当
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言葉はうそをつくので、ある感情をもみ消してあるべき感情をでっちあげたりする。それがずっと嫌で嫌で仕方がなかったのだが、最近は感情とはそのように積み重なっていくものなのだと納得している。「ある」だけが本当なのではなく「あるべき」もおなじように本当であると思いたい、といった具合に。言葉はうそをつくが、うそをつくにいたるのにもやはり理由があって、それは本当なのである。僕たちは言葉を通して、本当がそこにあることを、それがなにかはわからなくとも、理解するのだ。神話はウソであると言う人がいるが、なにもないまっさらなところから、物語ができたとは考えられない。そこに物語があるということは、そこになにかが、それはわからなくとも、あるということだ。皮膚を境界面にして、その内側にある本当のなにか。外側に本当があることは、科学やその他の学問がうそをつくことによって、理解できる。皮膚を境にふたつは分けられるが、どちらも大きさはおなじに違いない。ふたつの本当の重さは等しいに違いない。皮膚をひっくり返したら、内側にある宇宙は無限遠まであふれ出て、外側にある宇宙はきれいに皮膚に閉じ込められるだろう。そして好奇心だけが、ふたつの世界を旅することができるのだ。
本・「良い」もの・知的好奇心
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カミュの『異邦人』、かなり薄くてささっと読めそうやんと思って読み始めるのに、まいど挫折している。もう四回くらい途中で読むのをやめている。(うち一回は第一部の終わりまで読んだのにね。)なんか主人公がゆらゆらしている。頭の中であれこれ考えてはいるんだけど、魂がまるでないような感じ。印象には残っていて、ちゃんと読みたいなあと思っているんだけどいざ読むとあんまり進まない。 ・・・ 僕は、基本的に「良い本」を読もうと心がけている。「好き」より「良い」である。理由の一つ目、自分がどんな本が好きなのかすら僕には分からない。二つ目、「良い」ものに触れなくてはいけない!という僕の強い思想。(思想ありました。これは本に限らない。) 特に僕はまだ二十歳であるから、僕はこれこれが好きだ!と決めてしまって読書の範囲を狭めてしまうのはあまりよろしくないことだろうと考えたのだ。だから、幅広く「良い」ものに触れていこうぜ、という方針で本を選んでいる。なじみのあるものよりも知らないもの、自分にとって新しいものに触れていきたい。かつ「良い」ものである。したがって「良い本」を幅広く、である。 「良い本」を読もうの信条の一つとして「ある作家の本を読もうと思ったら、一冊目はできるだけその作家の代表作を読む」というものがある。今、大江健三郎の小説を初めて読んでいる。あれこれ迷った末に結局『万延元年のフットボール』を読んでいる。僕がいま興味を持っているテーマに従って、『万延元年のフットボール』ではない、他の作品を読もうかとも考えたが、そんなことより最も優れているとされている本を(それがどんなテーマであれ)読んでみるべきだと思ったのだ。自分の好き嫌いよりも、社会的評価を優先する。普段の僕の考え方と矛盾しているように思われるかもしれないが。 とはいえ、読むことが楽しくないとそもそも読書ははかどらないから、楽しい!と思った本を見つけたらその周辺にあるような他の本を探したりも当然している。例えば村上春樹の小説を読んで面白かったら、村上春樹が翻訳している小説を読んだり村上春樹と同時代のアメリカ文学を読んだり、といった具合。 ・・・ 「『良い』ものに触れたい」というのは「精神的に立派になりたい」という「意識の高さ」からくるのか?というと、そういう部分もあるにはあるが、主な理由
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つぶやくことないのにむりやりツイートしなくていいし、書くことないのにむりやりブログを書く必要なんかないのだ。そういうことをするからウソをつかなきゃいけなくなる、自分をごまかさなきゃいけなくなるのだ! でも、なんでもいいからなにか書くのだということだけが先に決まっていて、書く内容は後からでっちあげるというのもわりに正しい道のりなのかもしれない。というか、それって普通じゃないか? 僕は一体全体なににこだわっているのか…? (例えば、この文章で僕はまったくウソをつかなかったと胸を張って言える自信がない。それまでなにも感じてなかったくせに、ブログに書くためだけにむりやり感情を引っ張りだしてはいないだろうか? そういうのってどこか間違っているように僕は思うのである。 とはいえ、この括弧書きにより僕はいくぶん正直者でいることができる。ごまかしの後に「ごまかしたかもしれません」という白状を加えれば、つまり「すべて」を書けば、書き手はそれなりに正直者でいることができるのだ。)
大きな理屈
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透明になりたいものだ。黙っていよう! 好きなものもなければ思想もない。それでいてたしかな行動原理をもつこと。あらゆる選択は、自分でも説明のつかないような、背後に隠された「大きな理屈」にのっとって行われるのである。(行動原理:行動の根源的な動機となる本能・欲求・願望・信条・価値観など。) ときどき激しいことを考えはするが、口にはしない。口にしたあと心変わりして「もうどうだっていいや」と思ったところで後には引けなくなると困るからだ。自分の考えていることはどういう歪んだ道筋から来ているのか?と想像すると、もうなにも分からなくなる。すべてはコンプレックスから来ているという可能性だってあるのだ。きわめて個人的な問題を克服するためだけに、自分以外の人や社会に対する評価まで歪めることだってあるのだ。気をつけろ。大いなる「分からなさ」! みんな精一杯に生きているのだと思う。なるようにしかなっていない。誰も自分の人生を自分でコントロールできる人間なんていないのではないか。自分の思考を自分でコントロールできる人間なんていないのではないか。自分の感情を自分でコントロールできる人間なんていないのではないか。
渋谷に
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N先輩とH先輩で飲むことが決まったらしく、それじゃあ人が足りないというんでH先輩が自分の彼女を連れてくる、と。それでもつまらんからお前も来い!と言われて、平日の夜わざわざ渋谷に。 先輩ふたりと僕の三人で飲むとかだったら(給料日前のお金がないときに)わざわざ東京まで行かなかっただろうが、H先輩が彼女を連れてくるというんでそれは気になる…と思って、ほとんどそのためだけに行った。どっかでナンパして仲良くなったのだとか聞いていた。 居酒屋に入る。就活の話をしたり、恋愛の話をしたり。(就活と恋愛。このふたつがわれわれ大学生の主要なテーマなのである!) もっとも、僕は就活についても恋愛についても話すべきことが何もない。話すべきことが何もないのは僕が「こんなん」だからである。 年下でよかったな〜と思った。同い年とこういう話をするとなるときっと置いてけぼりにされて、そしてなんか居心地が悪くなる。僕だけ年下であると、そこらへんが「おくれている」ことに関して引け目を感じたり、無駄に見栄をはったりしなくて済むからよい。そしてみんな優しいから僕の将来を一緒に考えてくれるのだ…! 人と話をすると知らない世界が垣間見える。四年も付き合っている恋人がいる人の見えている世界なんて分からないし(N先輩の話だ)、女の子を駅でナンパして始まる恋愛とかなんてまったく想像もつかない。 僕が一人でうだうだしている間に(それも立派なひとつの世界である、文句は言わせないぞ)他の人は他のことをして他の世界を築いているのである。いろんな世界があるなあ、と本当にしみじみする。 結婚の話も出たくらいだ。結婚…。僕からしたら結婚なんてめちゃくちゃ遠いところに思えて仕方がないが! いろんな人から「お前、もったいないぞ」という忠告(?)を受けている。今日もそうだった。つまり恋愛をしろと。そんなこと言ったってどうすればいいかわからんやん!と思います。なるようになるしかないではないか…。は〜い。(まず人のいるところに行くべきなのだ。)
分からないことを分かってないんじゃないのか?
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くわしく話す前から僕がどういう人間であるかを決めてかかってくることはどうかやめてほしい。話始めからもう偏見にまみれているのだ。僕の発した言葉やツイートから言葉じりだけをつかんで、「そういうのは(自分も考えたことあるけど)どうなんすかね」と言わんばかりの顔で食ってかかってくるのだ。自分の考えた理屈と相手の考えた理屈とでは、 例え同じ言葉を使っていようとも、 同じものさしの上にあるわけでは決してない。ちゃんと話を聞こうぜ、と思うよ。(ブーメランになっていないかものすごく心配だ。) でもまあ、人がどういう人間であるかなんて、自分の中にある理屈から判断するしかないんで仕方ないとも思います。 ・フラットな見方なんてどこにも存在せず、人は偏見でしか物事を見ることができない。 ・「思い込む」以外のやり方で「思う」ことはできない。 ・完全な客観なんてものはなく、あるのは解釈だけだ。 ・「そうであってほしい(あるべき)」と「そうである」に境界はない。 ・「理解というものは、つねに誤解の総体に過ぎない。」 これらをいかなるときも忘れてはならない。痛いほど肝に銘じよう。 自分の考えたことを信じてはならない。( 分からないことを分かってないんじゃないのか?) そして、他人と分かりあえる日はいつかくるのか(あるいはその必要はないのか)?
躁と鬱
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元気なとき楽しい気分のときは、なんだかよくわからないけどとにかく「好き!」と思う。「誰を」でも「何を」でもなく、全体的に圧倒的に「好き!」という感じ。強いていうなら「世界を」! もはや誰のことも何のことも好きになれそうな勢い、良いことも悪いことも含めたすべてを愛せそうな勢いである。しかもそれが永遠に続くような気さえしてしまう。躁。 気が滅入ってるときはすべてその逆である。鬱。 でも最近はそんなに上がり下がりが激しいわけではない。鬱のときでもそこまで人のことが嫌いになったりはしない。 一人になりたいとは思う。そして「死にたい」とか「死んだほうがましだ」とか試しに心のなかで言ってみて、「いや、そういうのは良くないぞ」と返す。 不必要に自分を卑下したり、ネガティブになってみたりするのは一体なんなんだろう? 心の中なら誰にもばれないと思って、隠れてむちゃくちゃなことを言ってみたがるのである。試験的に暗い気持ちになっていこうとする心理状態(好奇心からか?)。「いや、そういうのは良くないぞ」。暗い気持ちになるときは、過不足なく。
広告と教養
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(ビジネス界隈におられる方々のような)極端なこと、過激なこと、賢そうなことを喋ったりやったりして注目を集める輩が僕は好きではない。彼らの言ってることの理屈がおかしいとか言うつもりはない。役に立つ部分もひょっとしたらあるのかもしれない。しかし彼らがしていることはすべて単なる「広告」である。不必要に力強い言葉やスローガンも、宇宙にロケットを飛ばすことも、SNSでの発信も、交友関係も、彼ら自身に関することのなにもかもが単なる広告にすぎない。そこに中身はない。多くの人はその広告に煽られ、踊らされ、お金を支払う。あるいは自らがくだらない「広告」になり下がって、お金を人から巻き上げる。そこで行われていることは「広告があって、お金が動く」、ただそれだけのことである。そしてその間に、本当に大切なものが次々と失われていくのだ。 では、広告ではない「中身」とはなんなのか。その答えは簡単ではない。それがわかれば誰も苦労しないだろう。「教養です」と言うことができるかもしれないが、教養ですらもときどきくだらない「広告」として扱われることがある。つまり「教養が大切だよね」とか言って、たくさんの本を読みました、あれもこれも知ってます、とかでは全然ダメなのだ。これは(必ずしも「お金を稼ぐため」ではないにせよ)やはり単なる「広告」にすぎない。 本当の意味での「教養」とはなんだろうか。僕は「考えること」と「感じること」であると思う。しかし「考えた(あるいは感じた)という事実」であってはいけない。実際に「考える(感じる)こと」それ自体でなくてはいけない。かなり抽象的な答えかもしれないが、「教養」とは、それ以上具体的に述べることができない類のものだと思う。 そして、考えたり感じたりするためには「体験」が不可欠である。およそ考えられるあらゆる体験(人付き合いをするとか、本を読むとか、旅行するとか、その他なんでも)が考える(感じる)ことの役に立つ。もし体験が尽きれば、それ以上考えたり感じたりすることもできなくなってしまうだろう。新しいことを考える(感じる)ためには、新しい体験が必要なのである。 「体験すること」と「考える(感じる)こと」の相互作用によって、人間は「良い」方向に向かっていくことができるのだと思う。たぶんそういった営みが「幸福(快楽?)を追求すること」に繋がっているのではないかと僕
変わる!
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という予感。 自分のなかで、ふつふつとなにかが沸騰しているような感覚。 今ならできる!(なにが?) 知的好奇心とドーパミンの区別がつかない。 期待感とはこれのことだ。 !!!新しい!!! 今そんな感じである。 今日のダイジェスト → お昼に起きて自己嫌悪。オザケンの新曲『彗星』を聴いて宇宙に思いをはせ、物理がんばろう!と強く思う。大学で宗教学の授業を受けてみるもピンとこない。台風に備えて買い物。帰って量子力学の教科書を開き勉強してみたらめっちゃ楽しくて感動。バイトの面接に行ったら長(おさ)が優しそうな人で、しかも即採用。(かくして旅行資金を工面できそう! タイ、インド、沖縄、中国に行きたいなあ。)帰って再び量子力学。人とラインする、など。いきなり友達に電話をかけて弾き語りを聴いてもらう(新しい試み)。ブログを書く ← 今! これから → 部屋の片付けをする。風呂入る。寝る。 遠くへ行きたい。 今いる場所から逃げたい…という後ろ向きな気持ちによってではなく、知らないことを知りたい!という外向きな気持ちによって(えいやっ! と飛び出す)。旅行をしたい、本を読みたい。ただ好奇心にのみ従って、空間的にかつ精神的に、遠くへ遠くへと移動するのだ。 ときは満ちたな。(『ヒバリのこころ』を聴きながら。 しかし「僕ら」という部分が今の僕には気にくわない!)
すごいものを
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見た! 衝撃的だった。あまりの衝撃に心臓がとまるかと思った。軽いトラウマになるかとも。僕はそれを見間違えじゃなくて本当に見たのだ。なにを見たのかというと、なんと、映画を見た(観た)のである!(まるでUFOを見たかのような騒ぎかただけど、映画を観てそれくらい仰天してしまったのである。「なるほど、僕は映画を知らなかったのだ」と思った。ちなみにUFOも見ました。) 観た映画は『ジョーズ』と『未知との遭遇』である。早稲田松竹(高田馬場にある名画座)にて、スティーブン・スピルバーグ監督特集なるものが行われているらしいのを今朝ホームページで発見し、軽い気持ちで足を運んでみたのである。それがまさかそこまで衝撃を受けることになるなんていざ知らず。(なんか慣れない文体で書いてますよね。そもそも日記みたいな文章をふだん書かないから下手くそなんです。大目に見てほしいです。) 一本目の『ジョーズ』を観たあと、軽い放心状態になりながら「なるほど、これが映画なのか…」と深く合点した。僕はこれまで映画を観て感動することがあっても、たいてい心のどこかで「まあそんなもんか(僕の感性は…)」と思ったものである。しかし今回は違った。「これが映画だったのか。僕はこれまで本当の意味で映画を観たことがなかったのかもしれない」とすら思った。それくらい強烈な映画体験。 『ジョーズ』のあらずじはというと、島にサメがきて人々大騒ぎ、それを退治すべく署長やらサメの専門家やらが大奮闘するとかそんな感じである。これだけ聞くと実にたいしたことなさそう。そう、ストーリーはたいしたことないのである。『ジョーズ』は、サメがめちゃくちゃ怖いよ!という映画なのだ。「いうてスクリーンの中でサメが人を襲うだけのなにが怖いねん」とか思おてましたら大間違い。サメはでかい効果音と悲鳴とともに突如スクリーンに現れるのだが、われわれはそれを心臓をドキドキさせておとなしく待ってなきゃいけないのである。つまり演出が怖いのだ。サメが怖いんじゃなかった。演出だった。あの音楽と効果音と悲鳴さえあれば、ひょっこりはんがひょっこりする映画でもほっこりしないりっぱなホラー映画ができあがると思う。 二本目の『未知との遭遇』も面白かった。これがSF映画の名作である!ということをしみじみしながら観た。そういう意味では「学び」に近かったと思う。良いものを観
から回りの理想主義
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おそらく他の人から見ればとことんくだらないこだわりを、僕はたくさん持っていると思う。それが良い結果をもたらすこともあれば、自分を苦しめることもある。 自分自身のことに関して、僕は誰にどのように説得されようと自分の決定を変えない。自分の心が惹かれない限り、どんなに偉い人や成功者の言ったことにも耳を貸すことはない。そういうところ僕はとことん頑固である。(その代わり自分以外の事柄に関してはわりと無頓着。)僕は僕自身が用意した規範にのみ従いたいと思っている。みんながやってるから自分もというわけにはいかないらしい。 とことん効率の悪い価値観で生きているということは重々承知していて、こういうのは社会でやっていきにくいということも分かっている(たぶん会社に入った途端すぐさま問題児扱いされるだろう)。多くの人は僕に対して「なんだかよく分からない」とか「自分の考えに固執していて柔軟性がない」とか思って近づいてこないだろう。 「から回りの理想主義」という言葉を最近発見して、まさにこれだなあと思った。夢想家。野心がなければ、お金にも興味がない。芸術に入れ込むには哲学的すぎる。要するに、もう、なんでもない。偶然だけで生きていくしかない人間であるような気がしてくる。きっと「信頼のおける雑用」みたいな職業が一番向いている。(『ムーン・パレス』という小説が面白かった。物語の最初、大学生である主人公が堕落していく様子が今の自分の堕落した大学生活と重なってるように思えて、妙に納得したり感動したりした。) 大学を卒業したら東京に住むと思う。そうじゃなければ沖縄に。それ以外のことはまったく分からない。 最近強く思ったこと:人生を良いものにしようとして、人生に対して能動的に働きかけを行うことが僕には向いていない、できない。
抽象的なもの・ことへ
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僕がなにを「専門」としているのかというのはすごく難しくて、ほとんどなにも「専門」にはしていないと言っていい。ここでの「専門」というのは学問的な意味あいではなく、「好きなこと、頑張っていること」くらいの意味、より正確に書けば「それを好きである、頑張っていると公言できること」くらいの意味である。アイデンティティ的なものに関わってくる類いの「好き」や「頑張っている」である。 中高の頃は、僕にも「専門」らしきものがちゃんとあった。自分を知らない人に手っ取り早く自己紹介するためには「走ることが好きです。陸上競技を頑張っています」とか言えばよかった。たぶん僕のことを知っている人も、そのほとんどが僕を「陸上競技」とともに記憶していたのではないかと思う。それくらい本気で陸上競技に打ち込んでいたのである。 でも、今は違う。自信を持って自分について語るべきことはほとんどなにもない。走るのが得意(だった)、ギターも少し弾ける、音楽を聴く、本も読む、物理学類である、でも最近は文系分野のほうが興味がある。しかしどれもすべて中途半端で、どれにも打ち込むつもりが僕にはない。僕にふさわしいキーワード(中高の僕にとっての「陸上競技」)みたいなものはなにもない。だから好きなことや頑張っていることはなんですか?と聞かれても答えに窮する。強いて言うなら考えることが好きだし頑張ってもいるが、いわゆる哲学をやっているわけでは全然ない。つまり、一見すると僕はなにも好きではないしなにも頑張ってはいないのである。一見すると。 しかし、好きなことや頑張っていることはある。間違いなくある。それを簡単に言葉にするのは難しいというだけ、具体的な単語で示すことはできないというだけで、なにかしら好きだしなにかしら頑張っている。そしてそれがしっかりと僕を僕たらしめている(アイデンティティ的なものとして機能している)と強く信じている。(強く信じられないときは、どうしようもなく不安になったり混乱したりしてしまうわけだが。)では、僕は一体なにが好きでなにを頑張っているのだろうか? 具体的な単語で示すことができないのは、具体的なものを好きなわけでも具体的なことを頑張っているわけでもないからだろう。つまり僕が好きなもの・頑張っていることは、抽象的なもの・ことなのではないか。音楽を聴いたり本を読んだりその他も
下書き(最後まで書けなかった文章ふたつ)
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なにが分からないかも分からないというのは、混乱しているということ。そういうときはうまく言葉が出てこない。話した途端、どれも真実ではないような気がしてくる。自分をごまかしてるのではないか、そして相手にそれを見透かされているのではないかと不安になる。うまく言葉にできないから、誰にも分かってはもらえない。一人きりだ。 ……… 家にいること、一人きりであること、それがスタート地点である。 僕が一年以上も前からずっと望んでいることは、ただ自分の中にある期待感と好奇心のおもむくままに、自分のいる地点から(物理的にも精神的にも)遠くへ遠くへと向かっていくことである。まず街へ、それから世界へ、という具合に。そして人と会うこと。 しかし遠くへ行けるのは天才だけであるらしく、そして僕は明らかに天才ではないから、期待感と好奇心のおもむくままどこまでも遠くへ、というふうにはいかないようだ。だから僕は今でもたいてい家にいるし、だいたい一人きりである。ほとんどスタート地点から進んでいないみたいである。 遠くへ行きたいのにその力がないとき、何らかの檻に閉じ込められているような気持ちになる。檻が具体的に何なのかははっきりと分からない。それは家だと思うこともあれば、つくばだと思ったり、自分自身(が作り上げた精神的な制約?)だと思うこともある。何もできることがないからおとなしくじっとしていて、何かが変わるのを受動的に待つしかないと思えてくる。閉塞感。
最後の場所
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「悲劇のヒーロー演じてんじゃねえよ」とか「変人ぶって奇をてらったこと言ってんじゃねえよ」とか「難しいこと考えてるふりして自分に酔ってるだけだろう」といった批判は、この世の数ある批判の中で最も言われたくない種類の批判である。というか僕は、その手の批判を浴びたくないという一心でこれまでたくさん考え、絶えず発言と行動を省みてきたのだ。その努力が実を結んでいるのかどうかは分からないけど。(そういう批判をされたことがあるわけではない。自意識が過剰とはそういうことである。) 一切演じることなく、ふりをすることなく、自分に酔うことなく、ありのまま正直にふるまうことができる大人はごくごく少数しかいない。対して子どもは誰でもそれを自然に行なっている。 しかしどんな子どもも思春期を迎えるにつれて、多かれ少なかれ自分自身を俯瞰して(客観的に)見ることができるようになる。すると、「他人からどう見られるか」や「社会的理想に適っているか」が身の振り方を決定するようになり、やがて正直さや無垢さは完全に失われてしまう。それはほとんどの場合誰にも避けることはできない、悲しいことに。 正直さや無垢さが完全に失われてしまったあとに残るものは、ある種の「広告」だけである。どうすれば自分を「売り出す」ことができるかを(意識的であれ無意識的であれ)考え、自分自身を作り込むはめになる。ちょっときつい言い方だけど、本当にそんな感じなのだ。(そしてそれは全然悪いことではない。)作られたインテリ、作られた変人、作られた純粋さ、作られた趣味、…。あとはそれをどれだけ作り込むかだけが勝負になってしまう。(異論は認めます。)そして僕自身その戦いに否応なく参加させられている身なのだ。 特に大学生は悲しくて、高校生よりも自由度が高いからそれだけ他人と比べられることが多い。どんな服装をするかとか、大学生活でなにを頑張るかとか、SNS上(ツイッターとかインスタグラムとか)での投稿はどうするかとか、何から何まで自由に自分自身で決めなければいけない。それらはすべて他者から(あるいは自分を俯瞰して見ている自分から)評価され、評価は鋭く突き刺さる。「自由」は一見素晴らしい言葉のように思えるが、本当の意味で自由を表現できるのは(たぶん)子どもだけである。 そういうことを真面目に考えだすと、人前に現れることやSNS
求めること・遠慮すること
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夏休みが終わり大学の授業が再開した。教室では相変わらず身の置き所がいまいち定まらないままだけど、朝ちゃんと起きて一限目の授業にしっかり間に合って真面目に板書もして……大変よくできました。 授業が再開したことは非常に残念な出来事ですが、だからといって気分が落ち込んでいるというわけではなく、むしろここにきてようやく「なにかができそう…!」という前向きな気持ちがふつふつと沸いてきている( これ とか)。小さな火ですが、消えてしまわないように頑張っていきたいです。 求めること、それも適切な相手に適切なやり方で。そうすればそれに応えてくれる人がいるのである。素晴らしいことだと思います。これが「なにかができそう…!」という気持ち、期待感(=元気)。 この「適切な相手に適切なやり方で求める」ができさえすれば、人生華やかだろうと僕は思うのです。 しかし問題は「適切な」というのが恐ろしく難しいということにある。「適切な」が分からず、間違った相手または間違ったやり方で求めてそれが拒否されると傷つく。場合によっては他人が怖くなって家にこもりがちになったりもする。(そしてたいていの場合、外から働きかけがない限りそのままずっと沈み続けることになる。) 求めても拒否されるかもしれないという恐怖感があると人は遠慮する。遠慮することが体に染みついてしまうと、求めるべきときに求めることができなくなる。すると相手は求められていないと感じるため、相手も遠慮する。 遠慮と遠慮がぶつかると悲惨だ。起こるべきことも起こらなくなってしまう。(恋愛の話をしているのではなく、すべての人間関係に共通していること。) だから(人生華やかにしたければ)遠慮し続けることはできない。ちゃんと求めなければいけない。しかし、適切な相手に適切なやり方で。 これは、間違った相手または間違ったやり方で求めて、拒否され、傷つき、求めることに恐怖したのち、それでもその恐怖感を乗り越えて再び誰かに求めることを始める……そのくり返しによってのみ学ぶことができるのだろう。 それは辛い道のりだから、華やかな人生を諦めてしまいたくなる気持ちも痛いほど分かる。家にこもり連絡を絶ち求めることをやめれば、誰にも干渉されず自分が傷つくことも相手を傷つけることもない、一人きりの安全な生活を送ることができる