最後の場所

 「悲劇のヒーロー演じてんじゃねえよ」とか「変人ぶって奇をてらったこと言ってんじゃねえよ」とか「難しいこと考えてるふりして自分に酔ってるだけだろう」といった批判は、この世の数ある批判の中で最も言われたくない種類の批判である。というか僕は、その手の批判を浴びたくないという一心でこれまでたくさん考え、絶えず発言と行動を省みてきたのだ。その努力が実を結んでいるのかどうかは分からないけど。(そういう批判をされたことがあるわけではない。自意識が過剰とはそういうことである。)

 一切演じることなく、ふりをすることなく、自分に酔うことなく、ありのまま正直にふるまうことができる大人はごくごく少数しかいない。対して子どもは誰でもそれを自然に行なっている。
 しかしどんな子どもも思春期を迎えるにつれて、多かれ少なかれ自分自身を俯瞰して(客観的に)見ることができるようになる。すると、「他人からどう見られるか」や「社会的理想に適っているか」が身の振り方を決定するようになり、やがて正直さや無垢さは完全に失われてしまう。それはほとんどの場合誰にも避けることはできない、悲しいことに。

 正直さや無垢さが完全に失われてしまったあとに残るものは、ある種の「広告」だけである。どうすれば自分を「売り出す」ことができるかを(意識的であれ無意識的であれ)考え、自分自身を作り込むはめになる。ちょっときつい言い方だけど、本当にそんな感じなのだ。(そしてそれは全然悪いことではない。)作られたインテリ、作られた変人、作られた純粋さ、作られた趣味、…。あとはそれをどれだけ作り込むかだけが勝負になってしまう。(異論は認めます。)そして僕自身その戦いに否応なく参加させられている身なのだ。
 特に大学生は悲しくて、高校生よりも自由度が高いからそれだけ他人と比べられることが多い。どんな服装をするかとか、大学生活でなにを頑張るかとか、SNS上(ツイッターとかインスタグラムとか)での投稿はどうするかとか、何から何まで自由に自分自身で決めなければいけない。それらはすべて他者から(あるいは自分を俯瞰して見ている自分から)評価され、評価は鋭く突き刺さる。「自由」は一見素晴らしい言葉のように思えるが、本当の意味で自由を表現できるのは(たぶん)子どもだけである。

 そういうことを真面目に考えだすと、人前に現れることやSNSの投稿など、人目に触れるすべての活動を投げ出して一人で家にこもりたくもなる。あるいは、自分のことを知ってる人が一人もいない街で一からやり直したいという気持ちになる。遠くに行きたいみたいなこと。つまり「逃げる」である。
 しかし、逃げた先に待っているのは孤独である。逃げるは孤独。立ち向かって心をすり減らすくらいなら、孤独でもいいから逃げた方がまし。そんな感じで僕はことあるごとに逃げまくっています。(よくないことだ。)一ヶ月前にツイートもやめたから、ついにブログでしかものを言えなくなってしまった。(家と)ブログは安全地帯。ここは最後の場所である。僕に好意を持ってくれている人だけが見に来てほしいです。