人間がじぶんに話しかけるというのはたしかなことである。およそ考える存在にして、そのことを体験しなかった者はいない。いや、こうだとさえ言える。言葉は、ある人間の内部で思考から良心に向かい、良心から思考にもどるときにしか、壮大な神秘にならないのだと。(…)ひとはじぶんに言い、じぶんに話し、じぶんのなかで声をあげるが、だからといって、外部の沈黙が破られるわけではない。そこにはたいへんな喧噪があり、わたしたちのなかでは口以外のすべてが話すのだ。魂の現実は、見ることもふれることもできないが、だからといって現実であることに変わりはないのである。 (ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』)
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1月, 2021の投稿を表示しています
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他人を赦すことができたらどんなにいいだろう? もう一生会うことはないからといって、すべてが終わったわけではないのである。自分の心の中でその人と和解するができれば、どんなに気持ちが安らかになることだろう? どうやったら生きていけるのか、どうすれば人から愛してもらえるか、これ以上いったい何をすればいいのかも分からず、苦しんできたような人間に対して(じっさい神様はこの一人の人間にこれ以上の何を求めているのだろう)、どうして私たちは憎しみを抱くことができるのだろうか? この行き場のない怒りはどうすればいいのか? 赦すと赦さないでゆれ動いているうちに、それはほとんど嘆きのようなものに変わっていき、ついには「どうか私に赦させてください」という懇願にまでなってしまう。しかし一方では、「この恨みは一生忘れてやるもんか」という声も聞こえないではない。私たちの中のいったい誰が何を言わせているのか? それを聞いている私たちにどうしろというのか?
正しい人にある「負い目」
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僕がもっとも心からの尊敬を抱くのは、どこまでも正しく、善良で、寛容な人に対してである。たいていの人は、自分の受けたささいな被害をそこかしこで訴えてまわるが(僕もやはりその中の一人である)、正しい人は、どのような苦労も引き受ける、忘恩を気にとめることもない、しかもそれらを人知れずやってのける。そのような人には二種類ある。生命の危険にもほとんど動じない、静かで穏やかな思慮深い人と、小言を言いながらもすべてを許してさえいる、他人の世話をすることに喜びを感じる人である。そのような性質は、神様によってかもしれないし、あるいは単に偶然によってかもしれないが、とにかくその人に「与えられた」ものである。 一方で、そのような性質を与えられなかった人も、正しい人と同じかそれ以上の尊敬に値する人であるかもしれない。一部の「恵まれている」人がいるためには、「恵まれていない」ことを引き受けなければならない、その他大勢が必要だからである。正しい人は恵まれていることによって、心の平安を享受しているが、そうではない人は恵まれていないことによって、神経質になっている頭をいつも持ち歩かなければいけない。地上にはたくさんの苦しみがあって、貧困から憎しみまでさまざまだけれど、悲しいかな、それらは人びとに平等に分け与えられるわけではない。だから正しい人とて、そうではない人に対して「負い目」があるとさえ言えるかもしれないのである。
他人はいつも尊敬に値する
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他人を尊重しなくてはいけないし、また「いけない」というだけではなく 、他人はいつも尊敬に値するものである。それが分からない、実感できないというのは、それだけ未熟であるか、恵まれていないということである。世間一般の人びと(そういう人びとがいればの話だが)を見下し、他人となじめないことを自分の頭の良さだとか、恵まれた才能のせいにする人がたまにいる。そのような願望はとてもよく分かる。「自分」という存在を正当化するために、世間一般を見下してしまうわけである。しかしそういう人は、他人をはなから軽蔑しているという点で「世間一般の人びと」より劣ってさえいるかもしれないし、そうではないにしても「負い目」はあるのである。 他人を軽蔑してしまうようなときには、そのような軽蔑が起こったまさにその瞬間から、考えを改めて反省をするよう、自分の心に言って聞かせる必要があるだろう。その他人がじっさいは人知れず苦しんでいるだとか、自分には想像もつかないほどの不幸を味わったことがあるかもしれないことに、気づいてしまってからではとても遅いのだ(どんな警察よりも良心の方がずっと恐ろしいのである)。そのような事実はつねに隠されているのかもしれない、いや、本当の苦悩というものはつねに他人には隠されているものなのだから。したがって、自分をのぞくすべての人間が、人知れず苦悩を抱え、不幸に黙って耐えている者なのである、とさえ想像してみなくてはならない。