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 人間がじぶんに話しかけるというのはたしかなことである。およそ考える存在にして、そのことを体験しなかった者はいない。いや、こうだとさえ言える。言葉は、ある人間の内部で思考から良心に向かい、良心から思考にもどるときにしか、壮大な神秘にならないのだと。(…)ひとはじぶんに言い、じぶんに話し、じぶんのなかで声をあげるが、だからといって、外部の沈黙が破られるわけではない。そこにはたいへんな喧噪があり、わたしたちのなかでは口以外のすべてが話すのだ。魂の現実は、見ることもふれることもできないが、だからといって現実であることに変わりはないのである。 (ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』)
 他人を赦すことができたらどんなにいいだろう? もう一生会うことはないからといって、すべてが終わったわけではないのである。自分の心の中でその人と和解するができれば、どんなに気持ちが安らかになることだろう? どうやったら生きていけるのか、どうすれば人から愛してもらえるか、これ以上いったい何をすればいいのかも分からず、苦しんできたような人間に対して(じっさい神様はこの一人の人間にこれ以上の何を求めているのだろう)、どうして私たちは憎しみを抱くことができるのだろうか? この行き場のない怒りはどうすればいいのか? 赦すと赦さないでゆれ動いているうちに、それはほとんど嘆きのようなものに変わっていき、ついには「どうか私に赦させてください」という懇願にまでなってしまう。しかし一方では、「この恨みは一生忘れてやるもんか」という声も聞こえないではない。私たちの中のいったい誰が何を言わせているのか? それを聞いている私たちにどうしろというのか?
 おそらく僕は民主主義を愛する一人である。とはいっても、僕はそもそも民主主義が何であるかをよく分かっていないだろうし、この「民主主義」という言葉自体もあまりに使われ過ぎて陳腐になってしまっているから、別の言い方をした方がいいかもしれない。僕は「自分と意を同じくしない者との共生」について考える一人である。
 自分で築き上げた理屈にしたがって、あるいは世界観にしたがって、ほかの誰にも頼らず自分自身を支配することができたと思い込んでいる人間は、次のことに自覚的でなければならない。じっさいは自分自身を支配しているのではなく、他人を勝手気ままに支配しようとしているだけであるかもしれないことに、である。他者との共生を余儀なくされている人間が、自分で築き上げた理屈のみにしたがっていても許されるのは、自分一人きりの生活においてだけである。さみしさを克服しようとし、孤独であることを過剰に肯定してしまうのは、とても危険な考え違いである。
 愛を実現するうえでおのれが小心であることにおののいていてはならぬし、たとえそのさいよからぬ行動があるとしても、さほどまで尻込みすることはない。あなたのはげみになるようなことを何も言えなくて残念じゃが、行動の愛というものは、空想の愛とはちがって、きびしく恐ろしいものじゃ。空想の愛はすぐさまかなえられる功業を渇望し、世人に認められることを求める。(…)けれど行動の愛は労働と忍耐でな、ある人にとっては、いわば大きな学問にもひとしいものかもしれぬ。 (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

正しい人にある「負い目」

 僕がもっとも心からの尊敬を抱くのは、どこまでも正しく、善良で、寛容な人に対してである。たいていの人は、自分の受けたささいな被害をそこかしこで訴えてまわるが(僕もやはりその中の一人である)、正しい人は、どのような苦労も引き受ける、忘恩を気にとめることもない、しかもそれらを人知れずやってのける。そのような人には二種類ある。生命の危険にもほとんど動じない、静かで穏やかな思慮深い人と、小言を言いながらもすべてを許してさえいる、他人の世話をすることに喜びを感じる人である。そのような性質は、神様によってかもしれないし、あるいは単に偶然によってかもしれないが、とにかくその人に「与えられた」ものである。  一方で、そのような性質を与えられなかった人も、正しい人と同じかそれ以上の尊敬に値する人であるかもしれない。一部の「恵まれている」人がいるためには、「恵まれていない」ことを引き受けなければならない、その他大勢が必要だからである。正しい人は恵まれていることによって、心の平安を享受しているが、そうではない人は恵まれていないことによって、神経質になっている頭をいつも持ち歩かなければいけない。地上にはたくさんの苦しみがあって、貧困から憎しみまでさまざまだけれど、悲しいかな、それらは人びとに平等に分け与えられるわけではない。だから正しい人とて、そうではない人に対して「負い目」があるとさえ言えるかもしれないのである。
 このブログの文章の中で、何かしらの考えであるとか、感情、行ない、もしくは人間の性格について、悪いように書いたり、批判したり、ときには嫌悪してしまうといった際に、僕がもっとも参考にしているのは、他人のそれらではなく、自分のそれらである。じっさいどんな人間も、自分の心の中にある(もしくは共感を覚える)「悪しきもの」についてしか、あれこれ分析したり、批判したりすることはできないだろう。自分の中に一欠片もないものについては、ただ「分からない」としか言えないはずである。例えば、人殺しの心理について何か一言でも述べようとするなら、自分の中にも「人殺し」的なものがあることをまず認めなければならない。

他人はいつも尊敬に値する

 他人を尊重しなくてはいけないし、また「いけない」というだけではなく 、他人はいつも尊敬に値するものである。それが分からない、実感できないというのは、それだけ未熟であるか、恵まれていないということである。世間一般の人びと(そういう人びとがいればの話だが)を見下し、他人となじめないことを自分の頭の良さだとか、恵まれた才能のせいにする人がたまにいる。そのような願望はとてもよく分かる。「自分」という存在を正当化するために、世間一般を見下してしまうわけである。しかしそういう人は、他人をはなから軽蔑しているという点で「世間一般の人びと」より劣ってさえいるかもしれないし、そうではないにしても「負い目」はあるのである。  他人を軽蔑してしまうようなときには、そのような軽蔑が起こったまさにその瞬間から、考えを改めて反省をするよう、自分の心に言って聞かせる必要があるだろう。その他人がじっさいは人知れず苦しんでいるだとか、自分には想像もつかないほどの不幸を味わったことがあるかもしれないことに、気づいてしまってからではとても遅いのだ(どんな警察よりも良心の方がずっと恐ろしいのである)。そのような事実はつねに隠されているのかもしれない、いや、本当の苦悩というものはつねに他人には隠されているものなのだから。したがって、自分をのぞくすべての人間が、人知れず苦悩を抱え、不幸に黙って耐えている者なのである、とさえ想像してみなくてはならない。
 少し遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。