正しい人にある「負い目」

 僕がもっとも心からの尊敬を抱くのは、どこまでも正しく、善良で、寛容な人に対してである。たいていの人は、自分の受けたささいな被害をそこかしこで訴えてまわるが(僕もやはりその中の一人である)、正しい人は、どのような苦労も引き受ける、忘恩を気にとめることもない、しかもそれらを人知れずやってのける。そのような人には二種類ある。生命の危険にもほとんど動じない、静かで穏やかな思慮深い人と、小言を言いながらもすべてを許してさえいる、他人の世話をすることに喜びを感じる人である。そのような性質は、神様によってかもしれないし、あるいは単に偶然によってかもしれないが、とにかくその人に「与えられた」ものである。

 一方で、そのような性質を与えられなかった人も、正しい人と同じかそれ以上の尊敬に値する人であるかもしれない。一部の「恵まれている」人がいるためには、「恵まれていない」ことを引き受けなければならない、その他大勢が必要だからである。正しい人は恵まれていることによって、心の平安を享受しているが、そうではない人は恵まれていないことによって、神経質になっている頭をいつも持ち歩かなければいけない。地上にはたくさんの苦しみがあって、貧困から憎しみまでさまざまだけれど、悲しいかな、それらは人びとに平等に分け与えられるわけではない。だから正しい人とて、そうではない人に対して「負い目」があるとさえ言えるかもしれないのである。

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