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現象と存在、人間と神

 人間がそう思っているにすぎないこと(現象)と、実際そうであること(存在)との違いを理解するためには、「全知(=すべてをくまなく見ることができる)の神」という観念を導入するのが一番よい。人間の目に見えるものが現象と呼ばれるのに対して、神の目に見えるものは存在と呼ばれる。人間の前に現象することは、存在すること(=神の前にもまた現象すること)の証拠としては不十分である。見えるけれど存在しないもの(夢、幻覚など)があったり、同じものに対する見方が人によって異なったりするのは、現象と存在が必ずしも一致しないからである。神が見ているものだけが、真に存在するものであるが、神の目にどう映っているかは人間の誰にも分からない。理性を用いればそれが分かる、というのが啓蒙思想ならびに理神論の主張ではあったが。

政治を考え始める

 政治を考えるための最初のステップは「自然状態」を想像することである。動物が置かれている環境とおなじ、言葉のない状態に自分の身を置いてみることである。そこには法律がない。警察も、裁判所もない。「正しさ」という概念がない。暴力だけがある。周囲に・自分の身に何が起こるか、自分が何をするか、想像してみる(注意:そのような時代が歴史的にあったのだと想定する必要はない。理念的にあれば十分である)。  次に、何らかの奇跡によって、動物であった私たちが突然人間に変身し、言葉が与えられたと仮想してみる。暴力と言葉の両方がある状態。政治が芽生えるその瞬間・その場所に、私たちは居合わせる。お互いの暴力から身を守るために、そして可能なら「正しく」あるために、私たちはどうすればよいか、考えてみる(注意:ここでも歴史的である必要はない。理念的で十分)。  最後に、そういった言葉の活動の延長に、私たちがいま住んでいる社会ができたのだと想像してみる(注意:歴史的な延長とはかぎらない)。私たちの社会は公正につくられているか、そうでないか、その中間か。私たちの社会は言葉から始まったのか、暴力から始まったのか、その両方か。