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 わたしはこんな滑稽な小娘だけど、あなたは、あなたは……でもねえ、アレクセイさん、そういうわたしたちの考えの中に、というのは、つまりあなたの考え……じゃない、やっぱりわたしたちの考えだわ……その中にその人、その不幸な人を見下げているようなところはないかしら……つまり、いまわたしたちはその人の心の中をあれこれ分析したわけだけれど、何か上のほうから見おろすような調子はなかったかしら、どう? (ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』)

良心の光で照らされた道

 人を殺してしまった人間がとるべき道は二つある。そのどちらの道を選ぶかにおいて、犯罪者は大きな葛藤を強いられることになる。  一つの道は、自分を正当化できる理屈(ときには妄想)を生みだすことである。自分の行為は法に外れてはいたけれど、それほど悪行というわけではない、と結論づけてくれる理屈を考えだすことである。そうすれば、心の奥底にある罪の意識であるとか、「僕はこの地球をむしばむ害虫でしかないかもしれない」といった恐ろしい考えから、目を逸らし続けることができる。現実を認めることから逃げることで、自分を正当化してしまうのである。  しかし、他人という存在は、自分の心の中にあるこうした暗い部分を、いともたやすく暴露してしまう。現実をまざまざと見せつけてくる。そのため、この道を選んだ者は、自分がなぜおびえているのかも分からないまま、たえず他人におびえていなければならなくなる。心の暗い部分を暴露されそうになると、はげしく動揺したり、攻撃的になったりする。人間的な結びつきを得ることができないので、生きた心地がしなくなる。  もう一つの道は、良心にしたがうことである。自分の中にある罪の意識や恐ろしい考えを、良心という強烈な内なる光の前に、引きずり出してしまうことである。法の下の裁きは犯罪者を肉体的に罰するのに対し、良心による裁きは犯罪者をとことん精神的に罰する。彼は自分自身をひたすら罵り続けることになる。自分をほかの誰よりも低い者であると考え、自惚れと傲慢さがなくなる一方で、他人に対しては頭が上がらなくなるだろう。  しかし、人間的な結びつきをもう一度得、他人との関わりの場所に復活するためには、犯罪者はこの道を選ばざるをえない。そうしてこそ、罪あるままの自分を受け入れ、愛してくれるような他人の心に屈服することができる。他人が自分を愛してくれることに感動し、善人に生まれ変わって新たな生活を送ることができる。この道のりはとても苦しいものだが、一生を自分の内側に引きこもって終えるよりも、はるかに幸せなものである。  ここまで私は、人を殺すという大きな犯罪にしぼって書いてきた。そうすることで、人間の心の動きを分かりやすく追いかけることができるからである。  しかし、このような葛藤それ自体は、人を殺したことのない大多数の人間にも当てはまるものである。その大きさが違うだけで、私たちは誰でも何
 とても興味深い英語の決まり文句がある。それは “There but for the grace of God go I” というもので、直訳すると「神の恵みがなければ私がそうなっていた」である。俗には、自分でなくてよかった、くらいの意味で用いられる。この決まり文句は、十六世紀のイギリスの聖職者、ジョン・ブラドフォード(叛逆罪で火刑に処された)が、刑場に引かれる犯罪者を見て叫んだとされる言葉 “But for the grace of God there goes John Bradford !(神の恵みがなければジョン・ブラドフォードがそうなっていた!)” を、その由来としているらしい。この言葉の中にどれほどの真理が含まれていることか! あるいは、信仰を持たない人であればこう言うかもしれない。「サイコロをふり直して、今度は違う目が出れば、私がそうなることだってあるかもしれない!」。
 邪悪な人たちを憎むのはやさしいことである。しかし、「罪を憎み、罪びとを愛せ」という聖アウグスティヌスのいましめを思い出していただきたい。ある人が邪悪だと気がついたときには、「神の慈悲がなければまさに自分がそうなっていたかもしれない」ということを思い起こしていただきたい。  ある種の人間を邪悪だと決めつけることによって私は、必然的に、きわめて危険な価値判断を行っていることになる。主イエス・キリストはこう語っている。「裁くなかれ。なんじ自身が裁かれざらんがために」。(…)他人を判断するときにはつねに十分な配慮をもって判断しなければならないし、また、そうした配慮は自己批判から出発するものだということである。 (M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち——虚偽と邪悪の心理学』)
 何か善いことをするときは、まず自分の心のうちにその志がおこり、おのずから善い行為となって外にあらわれてくるような人たちよ、私とともに、私のために泣いてくれ。じっさい君たちは、自発的になすこと以外は、何ものによっても動かされない。(…)御目の前で、私は自分自身にとって謎となりました。それこそはまさに私の病なのです。 (アウグスティヌス『告白』)
 いつの時代、どこの地域でも変わることのないもの、普遍的なものの見方を身につけたい。人間はいつか必ず死んでしまうであるとか、誰も一人きりでは生きていけないということ、物質と精神、外見と内心、欲望と愛情、復讐することと赦すこと、弱肉強食と博愛、戦争と平和のような対立しあう生の現実は、人間が人間であるかぎりにおいて避けることのできない、永遠のテーマである。将来のことは誰にも何も分からない。これから先、誰と会ってどこで何をするにせよ、新しい時代が到来するにせよ、日本と世界の情勢がどうなるにせよ、犯罪者になって投獄されるにせよ、生まれた子供に障害が見つかるにせよ、何にせよ、私たちのするべきことに本質的な変わりはないはずである。あと必要なものがあるとすれば、良心にしたがう勇気、これだけである。私たちは心の中で勝手に、詭弁家よろしくあれこれお喋りしては、自らの良心を手なずけようとする傾向にある。しかし、いつまでもそうし続けているわけにはいかない。
 ビートルズの「アクロス・ザ・ユニバース」は子守唄みたいな曲で、聴いていると身体がゆっくりと沈んでいき、心の中でばらばらになっていたものが一つ所に集まってくるようである。何でもないはずの一日をどれだけ緊張しながらすごしているか、まわりの人やものの呼びかけにすぐ反応できるよう神経をとがらせているか、それが分かって少しびっくりする(ちょうど、どこかで鳴っている機械音が鳴り止んだときはじめて、その音の存在と騒がしさを意識し、本当の静けさを理解するときのようである)。このとき、心のエネルギー状態(とでも言おうか)は、一番低い状態になっており「安定している」。私がずっと欲しかったものはまさにこれ、この心の安らぎだけを必要としている、これこそ人生で追い求めるべき当のもの、とさえ思えてくる。
 一口に「愛情」といっても、「愛する」と「愛されようとする」とではまったく違う(しかし、それらを見分けることは難しい)。このふたつの姿勢にはちょうど、「与える」と「奪おうとする」くらい大きな違いがある。あなたがもし愛のある人であれば、奪おうとする人に対しては、気前よく与えなければならない。なぜなら、あなたの中にあるその愛も、いつか誰かから与えられたものなのだし、それを自分の所有物にしていいわけがないからである。

悪役

なるほど彼は多くの人を 救ったけれど この私がこうなるまで 私を見捨てていたのである 人の命をひとつふたつと 数えるわけにはいかないから この私の命とほかのそれらを はかりにかけることはできない 彼は九十九人で楽園をつくったが 私は私一人でそれに立ち向かおう それだけのお話である 人は私を「悪魔!」とののしる そして私もそのふりをするけれど ほんとうの姿は おびえた子供ただ一人である