良心の光で照らされた道

 人を殺してしまった人間がとるべき道は二つある。そのどちらの道を選ぶかにおいて、犯罪者は大きな葛藤を強いられることになる。

 一つの道は、自分を正当化できる理屈(ときには妄想)を生みだすことである。自分の行為は法に外れてはいたけれど、それほど悪行というわけではない、と結論づけてくれる理屈を考えだすことである。そうすれば、心の奥底にある罪の意識であるとか、「僕はこの地球をむしばむ害虫でしかないかもしれない」といった恐ろしい考えから、目を逸らし続けることができる。現実を認めることから逃げることで、自分を正当化してしまうのである。

 しかし、他人という存在は、自分の心の中にあるこうした暗い部分を、いともたやすく暴露してしまう。現実をまざまざと見せつけてくる。そのため、この道を選んだ者は、自分がなぜおびえているのかも分からないまま、たえず他人におびえていなければならなくなる。心の暗い部分を暴露されそうになると、はげしく動揺したり、攻撃的になったりする。人間的な結びつきを得ることができないので、生きた心地がしなくなる。

 もう一つの道は、良心にしたがうことである。自分の中にある罪の意識や恐ろしい考えを、良心という強烈な内なる光の前に、引きずり出してしまうことである。法の下の裁きは犯罪者を肉体的に罰するのに対し、良心による裁きは犯罪者をとことん精神的に罰する。彼は自分自身をひたすら罵り続けることになる。自分をほかの誰よりも低い者であると考え、自惚れと傲慢さがなくなる一方で、他人に対しては頭が上がらなくなるだろう。

 しかし、人間的な結びつきをもう一度得、他人との関わりの場所に復活するためには、犯罪者はこの道を選ばざるをえない。そうしてこそ、罪あるままの自分を受け入れ、愛してくれるような他人の心に屈服することができる。他人が自分を愛してくれることに感動し、善人に生まれ変わって新たな生活を送ることができる。この道のりはとても苦しいものだが、一生を自分の内側に引きこもって終えるよりも、はるかに幸せなものである。


 ここまで私は、人を殺すという大きな犯罪にしぼって書いてきた。そうすることで、人間の心の動きを分かりやすく追いかけることができるからである。

 しかし、このような葛藤それ自体は、人を殺したことのない大多数の人間にも当てはまるものである。その大きさが違うだけで、私たちは誰でも何らかの罪を犯している。人間はみな欲望を持っており、他人より自分を優先することがあり、良心の命じるがままに行動しないことがある。そのため私たちは、はっきりと意識せずとも、心のどこかで負い目を感じている。罪の意識から生じる葛藤を強いられている。

 二つの道のどちらかを選ばなければならないとき、私たちは良心の光で自分を照らす道、たえず自己批判を忘れない道を選びとるべきである。そうすることによってのみ、人間は他人を尊敬することができるし、他人からの愛に感動することができるようになるのだから。

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