投稿

1月, 2023の投稿を表示しています

他人のことを自分がしろ

 他力本願という言葉が好きだ。いまの社会の風潮がどちらかと言えば「自分のことは自分でしろ(他人に迷惑をかけるな)」だとすれば、僕はそれを逆立ちさせて「自分のことは他人に任せて、他人のことを自分がしろ」と偉そうに言い、みんなの心をひっくり返したい。だけど、かく言う僕自身がその理念を十分実行していないので、人々に説いて回るような資格はなく、代わりに、心の中で自分自身に叫んでいる。おれ、もっとマシな人間になれ! という悲痛な叫び。この「おれ、マシな人間になれ!」こそ、僕の倫理である。

プロメテウスは反逆者

60年代の科学技術 宇宙と核 重力という名の鎖から 人類が解放される日も近い 核兵器が生態系もろとも 地球をお払い箱にしても オレたち大丈夫 気楽に行こうぜ女子供 プロメテウスは反逆者 神さまの監視も届かない 彼の工房をのぞいてご覧 魔法じゃないよテクネーだ 原始の火がここまで来たか ロケットで宇宙へ乗り出せば 無重力 天も地もない 神も悪魔も関係ない 善悪などない 怖いかい? 女子供 そんな必死に祈ってさ だけどもう止まれない ブレーキ壊れた車と一緒 気楽に行こうぜ女子供 オレたち大丈夫 ほら 神さまなんて必要ない オレたちの頭で全部やってける パンもフルーツも与えてやる ほら食えよ!

アリョーシャとエスタ

 ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャと、ディケンズ『荒涼館』のエスタは、僕が心から推せる最良の人物像! 賢さと純粋さ、頭の良さと心の善さが、どうしてこうもぴったりと調和し、一つところに同居していられるのだろう。この二人ほど素晴らしい人物像をほかに知らない。本当に大好きだし尊敬している。

善い感情

 生来のもの、持って生まれるものの中で、一番尊いものは「善い感情」である。一生を通して、この「善い感情」の成長を妨げることなく、花を咲かせることが大事なのだ。教育の最大の目的もそこにある。理性はそのために大いに役立つ。一方、知性は違う。科学と同じで、知性には道徳的価値がない。その本領は「目的は手段を正当化する」にある。善くも悪くも利用され得るので、知性をあまり信用してはいけない。

行為の被害者が果たすべき責任としての赦し(倫理学の最終レポート)

 アーレントの責任論について考察する際、避けて通れないと思われる概念がある。それは行為(ドイツ語では Handeln )である。アーレントにとって、行為という概念はあまりに重要であったので、彼女が責任について直接論じている箇所よりも、行為を論じている箇所の方が、アーレントの責任論を考察するうえでも、より核心的であるように私には思われた。そこで、本レポートでは、アーレントの『活動的生』における行為論の考察を通して、アーレントが責任をどのように捉えていたかを明らかにすることを目指した。  アーレントは、主著『活動的生』のなかで、「行為することと、何か新しいことを始めることとは、同じことなのである」と述べている。次いで、アウグスティヌスの「始まりがあらんがために、人間は造られた。彼の前には誰も存在しなかったからである」という一文から考察を進め、最終的に「一個の誰かとして人間が創造されることは、自由が創造されることと一致する」と述べている。ここで含意されていることは、おそらく、カントが自由意志について『純粋理性批判』で述べたことと同じであると私は思う。曰く、「自然法則にしたがって経過する現象の系列をみずから開始する、原因の絶対的自発性、かくして超越論的自由が想定されなければならない」。ここでカントが想定した、行為以前のどんな現象にも縛られない、行為の絶対的自発性(あるいは超越論的自由)のことを、アーレントはアウグスティヌスにならって「新しい始まり」と呼んでいるのである。  さらに彼女は、カントがこれと同じ箇所で「現象の系列の継起」と述べたものを、「行為のプロセス」と呼んでいる。行為のプロセスとは、行為を第一原因とする因果の絶えざる連鎖のことである。アーレントによれば、行為によって新しく始められたプロセスが、どこかで終わるということはない。彼女はそれについて、「たった一つの行ないにより解き放たれたプロセスが、文字通り、帰結の連鎖をなして百年、千年単位でえんえんと長持ちし、人類そのものが終焉を迎えるまで続く、などということもある」と述べている。   では、行為という自由が人間に与えられていることを、私たちは手放しで喜んでいいのだろうか。アーレントはそれについてどのように考えていたのか。  彼女は、行為の喜ばしい側面と同時に、その重荷についても詳細に論じている。アーレントによれば
 できれば僕もスーパーマンになりたい。世界中の人々に愛されるスーパースターよりも、世界中を愛し戦うスーパーマンになりたい。スーパーマンは、自分の存在を明かさないからスーパーマンなのである(暗闇で活動している)。これは倫理だ。正義の人と思われながら不正の人であるよりも、不正の人と思われながら正義の人でありたいものだ。そうありたいと心から正直に言える自分でありたいものだ。モテることやちやほやされることに一体何の価値がある。

社会問題を考える=自己反省

 社会問題として対処すべき問題を、個人の問題であるかのように解釈する風潮はやめた方がいい。自己責任よりもむしろ社会的責任(社会に責任がある)の問題として考えるべきである。それは「私が不幸なのは社会のせいだ」と自分の被害を訴えるためではなく、「誰かが不幸なのは社会の一員である私のせいでもあるのだ」と自分の加害を反省するためである。  私たちは互いに影響し合って生きているので、もしあなたが 本当の 善人だったら、この世界に悪がはびこる余地はないはずだ。誰も善人ではあり得ない。この地上に誰か一人でも苦しんでいる者がいるかぎり、私たちは全員そろって反省しなくはならない。

自分愛は他人に任せておけ

 自分を愛するためには、他人から愛される 経験 が先になくてはならない。頭の中で百度「わたしは素晴らしい」と唱えて、自分を愛せたような気になっても、それは自分だましの表面的なものにすぎず、心はつねに他人におびえている。自分を愛せるかどうかは、頭で考えるより先に心理的に決まってしまうからだ。  自分を愛する努力とは、自分で自分をだますことだと私は思う。そうすることで、かえって心を歪ませるのではないか。自分を愛することに労力を費やすよりも、他人を愛した方がいいし、その努力をした方がいい。自分を愛せるかどうかは、自分ではどうすることもできない。他人の勝手である。自分肯定についてもそう。
 レザー・アスラン『イエス・キリストは実在したのか?』という何とも挑発的な邦題の(原題は Zealot: The Life and Times of Jesus of Nazareth なのでそこまで挑発的ではないが、中身はやっぱりセンセーショナルな)本を読んでいる。面白い。この本のような、時代的にも場所的にもはるか遠くの文化について詳しく知ることのできる本が、私は大好きだ。一世紀パレスチナのユダヤ教の儀式、神殿のにぎわい、ローマ帝国による支配の容赦なさ、独立運動に燃えたぎるユダヤ人革命家の熱気などが、行間から伝わってくる。ナザレのイエスについての記述もわくわくするが、それ以上に、彼の生きた時代と場所の空気感がたまらない。
 あけましておめでとうございます。いい一年になりますように!